第71話 駒
突然だが、私の幼なじみルイーズ・アストラルの話をしたいと思う。
ヴィレーリア王国有数の名家、アストラル侯爵家の一人娘。社交的でありその交友の幅は私でさえ計り知れない。
侯爵夫人譲りの美しい深碧の髪は見る人々を虜にし、そして何より彼女はチェスが大の得意だった。
その腕前は、彼女のチェスの師であり国内随一の切れ者、アストラル侯爵を8歳の頃に打ち負かしてしまったほど。
チェスを愛し、またチェスに愛されたルイーズは周りの大人では勝負にならず退屈な日々を送っていた──そんなある日、彼女は不意に閃いた。
良いライバルがいないのならば、私が育てればいいんじゃない? と。
そんなルイーズに唆されたのが、私とチェスの始まりだった。今思えばとんでもない動機である。
さてさて、ここで1つ問題が起きた。
──そう、私は“ルイーズと遊ぶため”にチェスを覚えたのである。つまり私の基準はチェスの天才ルイーズレベル。
加えてルイーズがその他のボードゲームがドが付くほどの下手くそであったことも相まって、私の勘違いは加速した。
「始めた時期に多少差があったとしてもここまで勝てないのは努力不足」
「他のゲームでは勝てるのにチェスで勝てないのは、自分がきちんとチェスを理解していないから」
要は、ルイーズの策略にまんまと引っかかったわけである。
わけのわからない対抗心に駆られた私は何とか時間を作っては使用人に相手をして貰い、時に兄にも相手をして貰いながら練習するものの──天才かつ努力家のルイーズには敵わない。
だがしかし! 勝利は得られずとも、確実に私の中で経験値は積み重なっていく。
積み上げられていった自分の実力に気がついたのは、あるときアストラル侯爵と手合わせをしたときのこと。
そこでようやく、ルイーズのことを薄々疑い始めていた私は気がついたのだった。「あ、やっぱり私って“一応は”強くなってはいたのか……」と。
自覚が遅れたのは比較対象がルイーズしかいなかった、と言うよりもルイーズしか目に入っていなかったというのが原因の1つだ。井の中の蛙大河を知らずと言うべきか、灯台下暗しと言うべきか……。
だが、ただ強くなるだけでは私の対抗心はおさまらなかった。
最初の目標は“ルイーズに勝つこと”。それを達成できなければチェスを始めた意味が無い、とわけのわからない思考の拗らせ方をした。
いやいや、だって悔しいじゃないか! あんなに練習して試行錯誤して研究したのに一度も勝てないんだぞ!
こうして練習し、惨敗し、研究し──というループを10年近く続けた結果、そこそこチェスの上手い私というのが爆誕したわけである。
「(……だけれど)」
確かにチェスには自信がある。図らずもルイーズという天才に育てられたのだ、胸を張って良いのだと思う。
だがしかしミハイルさんが言うことには、相手はチェスの本場ジェロニア王国でも有名なチェスプレイヤー……らしい。知らないけど。
ちら、と相手の様子を窺うと、向こうもまた私を見つめ返した。
「そこでクイーンを動かすのは悪手じゃあないかね?」
「……ふふ、そうでしょうか?」
私が右端に女王駒を動かしたのを見て、ルッツ様は意地の悪い笑みを浮かべる。
私がそのまま前方の黒いポーンを取れば、待ってましたと言わんばかりに黒の王駒が白の女王駒を呑み込んだ。
「(……大丈夫、大丈夫よ)」
逸る胸を押さえ、必死に自分に言い聞かせる。最初に様子を窺ったときに思ったのだ。この盤面には見覚えがある、と。その時には思い出せなかったが、試合を進めるにつれ段々と思い出してきた。
──これは、ジェロニアのチェスの指南書通りの打ち方だ。
ヴィレーリア王国でも努力すれば手に入るような有名な書物。要は、「初心者みたいなアンタなら指南書通りの勝ち方で十分」と馬鹿にされているわけである!
未来有望だの優秀だのなんだのと言っておきながら、その実は子供と遊ぶときのように手を抜かれていたわけだ。
それが意図的な物なのか無意識の物なのかは定かではないが……腹が立つ! 激怒まではいかないけれどその根性にカチンとくる!
そんな激情に揉まれながらも、試合に対する思考回路は至って冷静だった。
駒を打ち合う単調な音が響く。もはや周りの熱視線など気にならなくなっていた。
ナイトを前進させ、相手のビショップを喰らう。そこから数手打ち合ったあるとき、私は不意に2つあるナイトのうちの1つを、後退させてみせた。
ほんの一瞬、ルッツ様は不思議そうな表情を浮かべたものの、彼はそのまま前進させてきた黒のキングを私のナイトと対峙させる。
そこから数度控えていたポーン達を前進させれば、キングは左へと逃れていく。
「(よし、かかった……!)」
懐に飛び込んでくれさえすればここからはもうこちらの物だ。今度は押さえる間もなく、無意識に口角が上がった。
ルッツ様側から見て、既に黒のキングの前と左にはポーン、そして唯一の逃げ道である右にはビショップが待ち構えている。
勝利を確信した私と相対して、ルッツ様は顔を紙のように白くさせた。
「どうかされましたか?」
「……いいや、何でも無いよ」
平然を装って、ルッツ様は黒の駒を左上へと滑らせた。私は傍で待機していたルークを押し進める。左右と後ろを固められたキングは前進する他なかった。
そして私は今まで触れることすらなかった自分のキングを、初めて左上へと打つ。
果敢に攻め込んできた黒のキングは三方を駒に残りを壁に囲まれ、なおかつ私のキングは相手の射程範囲内から逃れた。
「──チェックメイトです」
「はぁ……負けたよ。おめでとう、君の勝ちだ」
ルッツ様は両手を軽く挙げて、降参の意を示した。
わあ、と歓声が沸き立ち、壁際に控えていたクラリスを始めとした芸人達が拍手を贈ってくれる。
──よし、何とかここまできた……!
私は机の下で握り拳を作り、密かにガッツポーズを決めた。
「早々にクイーンを捨てたのはそう言うことだったか……。クイーンを捨て油断を誘い、自分の懐に誘い込んだ上で、キングでチェックメイト。素晴らしい手腕だ。それにしてもクイーンを捨てるのは度胸がいるんじゃなかったかな?」
「……それはまあ、そうですね。ですが……『現実ではどうだ』と言う御託はさておき、盤上においては王も女王も僧侶も皆戦士ですから。──戦えぬ駒など、私には必要ありませんので」
「はは! 格好いいな、君は!」
守りが弱い! 賭けに出すぎ! ──とはルイーズ談である。
どうしても私は博打に出たくなってしまう質らしい……が、今回ばかりはそれが功を成した。
「……それでは、ミハイル殿?」
そう呟きながらルッツ様はミハイルさんへと視線を遣る。当のミハイルさんはその視線を受け取り、肯定するように1つ大きく頷いた。
「ああ、約束通り君に報酬を。好きな物を持って行きなさい──それにしても、本当に料理でよかったのか? 今なら宝飾品でも金貨でもなんでも……」
「いえ……いかなる宝石も金貨も、食欲には変えられませんので」
ついでにこの毒入りスープでミハイルさんが死ぬか死なないかが戦争に繋がるので……! 蘇りの魔法が存在しないこの世界では、宝飾品や金では戦死者の命は救えないもの。
私は毒入りスープを自分の傍に寄せて、退席しようとした──がふと思う。
無事、証拠は手に入った。これを持ち帰るだけで相当な戦果となるだろう。
……けれど、このまま持ち帰れば犯人も分からない上に、犯人の罪状が軽くなる恐れがある。被害者が出たのと出ないのとでは大違いなのだ。
そしてこの場で一番、毒を盛って罪が重くなるのは──侯爵令嬢のこの私。
「(いや、でもそれは流石に……?)」
そんな被虐趣味はない……けれど、これがまたとない絶好の機会であることも明らかだった。
生憎、河豚毒の解毒薬は持っていない。ただ、多少体内に入った程度なら回復魔法で何とかなるはず。
「(よし……やろう)」
一度覚悟を決めてしまえば、それはあまりにも簡単だった。陶器製の匙でスープを掬う。毒が入っているだなんて俄に信じられないその液体を、私は口に含んだ。
──その瞬間、無機質な破壊音が興奮の冷めない室内に響き渡る。誰かが皿を落としたらしい。
「だ、大丈夫? 怪我はない?」
不安げな表情を浮かべてクラリスが駆け寄った先には、顔面を蒼白にさせた少女──アーチの姿があった。




