第61話 馬術訓練
附属で履修するのは長剣や短槍や弓などの武芸だけではない。
騎士たる者、歴史や算術、語学や地理学、マナーはもちろんチェスなどの娯楽、魔法や占術、果ては社交ダンスまで幅広く教養として身につける必要がある……のだそう。
その一環で、入学式明け1発目には馬術の授業が待ち構えていた。
「──それじゃあ、今から厩舎の鍵を配るぞ。鍵に付属している札には表に厩舎の部屋番号、裏に馬の名前が書いてあるから、よくよく確認するように」
前から回ってきた鍵を受け取る。表面には44の数字、裏面には赤いインクで“リアム”と刻まれている。──おお、ゾロ目だ……!4の数字はちょっと不吉だけれども。
どうやら今日組むお相手はリアムという名前の馬らしい。
聞いた話によれば青いインクは雄馬を、赤いインクは雌馬を表しているそうだ。つまるところ、リアムは雌馬ということになる。
私はその鍵に目を落としつつも、次第に進んでいく列に従ってゆっくりと厩舎へと足を踏み入れた。
***
この国でよく流通しているのは、原種たる普通の馬と魔物を掛け合わせた、俗に言うところのサラブレッドなどと呼ばれる種である。
もともと農耕の際の補助役や長距離を移動する際の移動手段として用いられてきた原種は、足首が太く屈強な体つきをしていたとされている。
しかし時代が移り変わって行くにつれ、より速く走れる馬が生み出されていった。そうして生み出された彼らは原種の何倍もの速さで大地を駆けることが出来たが、その反面、怪我をしやすかったり気性も繊細で物音などにも敏感であったりと中々難も多かった。
そこで人々は彼らと魔物を掛け合わせることで原種の数倍の速度で駆け、なおかつ怪我もしにくく、魔物特有の高い知性かつ長命な性質をも兼ね備えた種を生み出したのだ。彼らの子孫が今日まで我々の生活を支えてきている。
44番の部屋に辿り着くと、私は言われた手順で鍵を差し込み戸を開け放つ。寝藁に塗れて蹲っていた黒い塊が、酷く億劫そうにその長い首をもたげた。彼女がこの部屋の主、リアムなのだろう。
深い紫の、宝石のような瞳が私をとらえる。
「(平常心、平常心よ……)」
彼らは人を見定める。
魔物のように無差別に襲ってくることはないが、気に入らない相手であれば指示を聞いて貰えないし酷い場合は触れることすら許さないそうだ。
もちろんそれにも個体差がある。老若男女問わず人に懐く従順な子もいれば、本当に一握りの人間にしか心を開かない子もいるのだ。
まあそうは言っても私達は初対面で、私には顔を合わせて数秒で相手の性質を見抜けるような才能は無い。あったのならば侯爵令嬢なんてやめて調教師にでもなっていただろう──とは流石に言いすぎかもしれないが。
見つめ合うこと数十秒。ふっと視線が逸らされ、リアムはゆったりとした動きでその身を起こす。気怠げな表情で彼女は私に歩み寄ると、その大きな額を私に擦り寄せ友好の意を示した。
「……お、大丈夫そうだな」
そんな様子を見ていたのか、見回りをしていた初老の教師が扉越しに顔をのぞかせる。
彼がリアムと見つめ合うこと数秒。リアムはやれやれと言ったように一度ふす、と大きく鼻を鳴らした。そこに居ないで中に入ってこい、と言うことなのだろう。
「リアムはちょっと気難しいレディなんだが、お眼鏡に適ったようで何よりだよ。……それで、確か君は乗馬経験があるんだったよな?」
「はい、先生」
実はこの私、馬にも乗れちゃうちょっと珍しいタイプの侯爵令嬢だったりする。
貴族の子供で馬に乗れる、というのはさして珍しい話ではない。しかし貴族令嬢で、となると話は別だ。
大前提として、世間一般で言うところの貴族令嬢は狩りになんて行かない。馬に乗ったことはおろか、触ったこともないというのが大半なのではないだろうか。百歩譲って馬に乗ったことがあったとしても横乗り程度。ガチガチに馬術の教養を備えている令嬢というのは、かなり特殊といえるだろう。
「それじゃあ外に出て、今日はとりあえず日向ぼっこでもしていてくれるか?」
「乗らなくても大丈夫なのですか?」
「ああ、今日はとりあえず仲を深めるのが最優先だな。全員がすんなり馬たちの眼鏡に適えば良いんだが、そう上手くいかないし。恐らく今日は乗らずに仲を深める程度だろう。……あ、これを渡しておくな」
そうして手渡された麻布の中をのぞく。中には人参が数本詰められていた。わお、太くて甘そうな人参だな……。
私の傍らで、私同様麻袋をのぞき込んでいたリアムがふすふすと鼻を鳴らして「はよ寄越せや」と言わんばかりに催促してくる。
……やっぱり餌付けは偉大なのかもしれない。やたらブライアント家の皆さんが私に食べ物を渡したがるのも、そう言う理由なのだろうか。うーん、謎。
先生が次の部屋へと消えて行くのを見届けて、私はリアムを連れて外へと出た。空は雲1つ無い快晴で、どこかに花が咲いているのか、時折薄甘い香りと花びらが漂っている。
春らしく心地の良い日差しの元、どこへ行こうかと私が辺りを見回していると、リアムがふらっとどこかへ歩き出す。
「リアム? そっちへ行きたいの?」
呼びかければ彼女はくるりと振り返る。そしてぶるぶると鼻を鳴らした。
これは……まさか肯定か……? 困っているのだったら、おすすめの場所を教えて差し上げますわよ? と言うことなの……?
言葉こそ使えないが、彼女たちの知能の高さに感服である。
リアムのさせたいように歩かせていると、彼女は一等ふかふかとした青草の上でその歩みを止めた。どうやらここが彼女のお気に入りらしい。確かに林も近いし日当たりは抜群だし水飲み場もそう遠くはない、中々の一等地である。
私がそこに座り込むと、いつの間にか、リアムは美味そうに青草を食み始めていた。
「人参は──」
いる?と言葉を続けようとしたが、その前にリアムは私の“人参”の言葉に素早く反応して顔を上げた。心なしか怠そうだったその瞳が輝いて見える。
凄いな、人参パワー。そんなに美味しいのか……。
差し出した人参はコリコリと小気味の良い音を立てながらリアムの口に吸い込まれていく。
そんなに美味しいのなら後で先生に確認してどこ産の物か教えて貰おうかな。アーシェンハイド邸の馬たちも喜ぶことだろう。リアムに人参を与えたり、その首や体を撫でたりしながら最高の日向ぼっこ生活を送っていると、不意にある衝動が胸の底に湧き上がってきた。
「(いやでも、寝転がるだなんて……流石にはしたないかも……?)」
授業中だし、駄目だよ! と諫める理性──脳内の声を欲望が上塗りしていく。
先生も、今日は乗らないって言ってたし?
厩舎からここはかなり距離があるし?
周りにも人が居ないし?
長い葛藤の末私は己の欲望に身を任せて青芝へ身を投げ出した。
「んー……!」
野原に寝転がるのって想像以上に気持ちいい……!
両手を広げさせながら大の字姿でいると、太陽の光で満ちあふれていた視界に影が差す。リアムがのぞき込んできたのだ。
倒れたのか? と心配してくれたのだろうが、違うと判断するや否や、薄情にも再び青芝を食み始めてしまった。
土の匂いと草の匂いが鼻をくすぐる。
王宮のマナー講師がこんな姿を見たら、チクチクと嫌味を口にした上に反省文を書かされていただろうが、そんなマナー講師はもうここにいない! 私は自由に生きる! 他人に迷惑をかけない範囲内で!暴力的なまでに心地の良い日差しに包まれながらゴロゴロと寝転がっていると、再びその視界に影が落ちた。今度はリアムじゃない。
「まーたお前は、一体なにをやってるんだ」
見覚えのあるその顔に思わず顔を顰める。
最近身内と会う確率が異常に高いような……。
「アベル・アラバスター……まさか授業をサボって……?」
「ご丁寧にフルネームでどうも。サボりじゃない、手伝いだ」




