第59話 来訪者
少しばかり忘れていたが現在私は寮を抜け出している不良候補生の身。誰かに見つかりでもしたら──特に教師陣に見つかってしまえば一巻の終わり。私とグレン様はまとめてお説教されてしまう。
そしてその瞬間、誰かが来たという焦りで私の脳内から視覚遮断の魔法具たるローブの存在は吹き飛んだ。何という失態だろうか、と後悔するのは後の話である。
先に動いたのはグレン様の方だった。グレン様は特に躊躇うこともなく私の手首を掴む。
「え、えっと、グレン様!?」
彼が誘導した先は皺一つ無いベッドだった。私も困惑のあまり、思わず声を上げる。
いや確かに未使用っぽいけど! 良いんですか!? 大丈夫ですか!?
されるがままにベッドに放り込まれた私にグレン様は無言で布団を被せる。視界が闇に包まれる直前に、グレン様の眉を下げた困ったような表情が見えた。
「すぐに追い払いますので、少々お待ちください」
「え、え……!?」
──そうして私の視界は闇に閉ざされた。仮にも婚約者とはいえ、殿方の布団に入っても大丈夫なの!? 役得って思った方が良い!? ……いや新品同様っぽいけれども!
そんな真新しい布の香りとその感触に包まれつつ、私は聞き耳を立てる。
「──クラウス総長……? こんな時間にどうかされましたか?」
「悪いな、夜遅くに。今、共有スペースで他の奴らと飲んでいるんだがお前もどうだ?」
どうやら部屋を訪ねてきたのはクラウス総長らしい。布から垣間見える総長の頬は僅かに紅潮している。
一瞬、目と目が合ったような気がしたが──恐らくは気のせいだろう。というか気のせいであって欲しい! お願い神様!
「こんな時間になるまで飲んでいらっしゃったのですか……」
「思い出話に花が咲いてしまってな」
平然を装ってやり取りしていたグレン様に対して、クラウス総長は挑発的な笑顔を浮かべる。
「まあ、大した誘い文句にもならんだろうが……今日はヴォルクの秘蔵の酒が出るぞ」
「っ…! それは魅力的ですね」
ヴォルク団長といえば、グレン様が第二騎士団長に昇格するに当たって第四騎士団の団長に異動になったという話をネロから聞いた。専攻科目はお母様と同じ弓であり、実はアルテミス家は弓の名手を多く輩出することで有名だったりする。
グレン様やクラウス総長もそうであるように、今日は明日の顔合わせに向けてほとんどの騎士団長達が附属の教員棟に泊まっている。らしいが……お酒……お酒持ち込んでいるんですか、ヴォルク団長……? 良いのかそれで。
「──この後しばらくは酒盛りする予定だから気が向いたら来ると良い。色々、積もる話もあるだろうしな。それじゃあ」
「お心遣い痛み入ります」
再びドアの軋む音がして、しばらくの静寂が訪れる。
もう出ても大丈夫かな……いやまだだめか……? そう躊躇っているうちに、不意に暗闇だった視界に橙色の光が差し込んだ。
「もう大丈夫です。全く……本当に間の悪い」
「あ、ありがとうございました……」
「いえ、私の方も突然すみません」
何はともあれ脅威は過ぎ去ったということで良いんだよね……! 突然のことで本当に驚いたけれど、特に何事もなくて助かった。
お互いに声を掛け合ったところで、グレン様はふっ、と荒削りな微笑を浮かべた。
「あの人は恐らくまた誘いに来るので、今のうちに外に出た方が良いかもしれません。……この手紙をお父君によろしくお願いします」
「あ、はい! 拝命いたしました!」
手渡された一通の手紙をしっかりと懐に入れ、私はベッドを立ち上がろうとする。しかしその瞬間、不意に伸ばされたグレン様の左手によって私の動きは制されてしまった。
「糸くずが──」
「……ひゃっ」
そう躊躇いつつも伸ばされた手は、視覚遮断のローブを脱いだために露わになった首元に触れる。それと同時に意図せず声が零れた。
く、くすぐったい……! 私もお兄様もそうなのだけれど、うちの家系はかなりのくすぐったがりなのだ。幼い頃は兄妹仲良くくすぐりあったりもしていた。しかし最近は、当然そんな機会も減ったので、本当に不意打ちだった。
零れた声と言い、ベッドの上という環境と言い、その他ありとあらゆるシチュエーションのせいでなんだかやましいことをしている気分だ。
恐る恐るグレン様の方を見上げると当のグレン様は──きゅっと眉間に皺を寄せ、少なくとも平静とは言い難い表情をしていらっしゃった。
お、怒っていらっしゃる!?
まず最初に浮かんできた感想はそれだったが、数秒見つめ合ううちにそうではないことを悟る。
怒っていないけれど……何だろうか。グレン様の朝焼けのような、鮮血のような瞳が揺れる。
上手く言語化できない──否、言語化してしまうとその本質を損なってしまいそうな気がした。
「……触れても?」
それが単純に“肌に触れる”ということを意味するわけではないと、十分理解していた。それでもそのまま呑み込まれてしまいたいと、底光りする赤に身を任せて私達は──
なんて恋愛小説のようなやり取りが、私、セレナ・アーシェンハイドに出来るわけもなく。
「おっさけ~おっさけ~。俺の秘蔵で、かつ上からの権力で湯水のようになくなる予定のおっさけ~」
私とグレン様の距離がゼロになろうとした瞬間ノックも無しに扉が勢いよく開いた。
気の抜けるような酔っぱらいの声が、ぴたりと止まる。
「……悪ぃ、部屋変わったんだったな」
「ヴォルク団長……」
そこに立っていたのはグレン様のかつての上司であり、ネロの養父、ヴォルク・アルテミス第四騎士団長だった。
ヴォルク団長はドアノブをしっかりと握り直すと開いていた方の手を軽く上げて口を開いた。
「──んじゃ、お邪魔虫はこれで失礼して……後は若いお二人で!」
パタン、と優しく扉が閉められる。私は声もなくその様子を見送ってしまった。
……見られたよね、絶対。扉の位置から私達の様子って丸見えだよね。恥ずかしさよりもなによりも、ぞっ、と全身に恐怖がほとばしる。
止めに行く? 今なら間に合うだろうか。いや──ここは年長者の判断を仰ぐべきかもしれない。
私が視線を戻すと、そこには酷く穏やかな笑顔を浮かべるグレン様が佇んでいた。穏やかすぎて一周回って恐ろしいレベルだ。しかしよくよく見ると、首元が少し赤くなっているような……?
グレン様はやがて扉から私の方へと視線を戻す。そうしてその穏やかすぎる表情のまま呟いた。
「──止めてきます」
「え??」
「息の根を……」
「はっ!? いやいやいやいや、息の根は駄目ですって!?」
死ぬ! ヴォルク団長が死んでしまう!
私の制止も虚しく、外へ出ようと扉に手をかけたその瞬間、グレン様が口を開いた。
「外交を一手に担うアーシェンハイド侯爵家のご令嬢ならば一度は耳にしたことがある言葉かもしれませんが……東方に“据え膳食わぬは男の恥”という言葉があるそうですね」
「はい……?」
確かに聞いたことがある。
確か、ことわざ……? なる物らしい。
「ということは、次は“そう言うこと”ということでよろしいのですか?」
“据え膳食わぬは男の恥”──とは、言い寄ってくるのを受け入れないのは男の恥だよ~って意味だったから……つまりそう言うこと……!?
「よ、良くないです! いや、駄目じゃないけど……!」
「それは残念」
もうやだこの婚約者! 心臓と顔面の皮膚細胞が過労死しちゃう!
扉の奥へと消えていった婚約者を見送りつつ、私はそっと両手で顔を覆った。
……何て日だ!




