第18話 夜
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「どうぞ、一泊していって下さい」という辺境伯のご厚意で、お父様と私はブライアント邸で一夜を過ごすこととなった。
ブライアント邸内には温水が湧いているらしく、来客用の館にはその温水を引いた大浴場が造られていた。
「わぁ、花が……!」
「はい。ブライアント辺境伯領で湧く水は浴場に適した温度であることが多く、そのまま使用することが出来るのです」
そう説明してくれたのは、今回私付きとなってくれたブライアント辺境伯邸のメイドのマオさんだ。
マオさんは猫の獣人で、ぴんっと立ったふわふわの耳が愛らしい女性。
我が国の獣人の割合は一割ほどで、単純計算でいくと10人に1人となるが、最も人口の多い王都でも獣人を見かけることはあまりない。
獣人は基本的に北西から北にかけての一部地域に固まって定住していることが多いからだ。
なので領主一家も、その従者達も、そして民間人の大半も獣人というのは凄く珍しい光景だった。ふわふわの動物の耳と尾がいっぱいなのは、癒されるというかなんと申しますか……。
話によれば、我が国にいる獣人は定住型が主だが、他国では各所を転々と移動する遊牧民型の生活をしている獣人もいるそう。
さっそくマオさんには一度下がって貰って、髪と体を洗い清め浴槽へと近づく。
浴槽に近づくと、温かい熱気と共に花の香りが全身を包む。
「(……あ、これ)」
間違いない、グレン様の香りだ!
グレン様はいつ会っても花の良い香りがするな……でも獣人って香水苦手なんじゃないっけ……? と若干アウトラインを越えるようなことを考えていた時期があったけれど、その疑問の答えはどうやらここにあったらしい。
爪先から恐る恐るお風呂の中に入っていくと、花の甘い香りが濃くなる。
あ、これってなんか──
「……変なこと考えない!」
あー……いけないいけない、というか危なかった。
私は気を取り直すように一度ぱちっ! と自分の頬を叩いた。
***
「セレナ様、少しお顔が赤いようですが、もしやどこか体調が……?」
「いえ、大丈夫です。素敵なお湯でしたから少しのぼせてしまったのかもしれませんわ」
「それでは果実水はいかがですか?」
「まあ、とても美味しそうですね! 一杯だけいただこうかしら……」
「セレナ様、ヘアセットはいかがなさいますか……?」
あまりの至れり尽くせり加減に私は居た堪れなくなり、小さく声を上げる。
「……あ、あの、そんなに気を遣わなくても大丈夫ですわ……?」
「──申し訳ございません。この屋敷にセレナ様のようなお若い女性がいらっしゃったのは久々で……少し気合いが入りすぎてしまったようです」
再度謝罪の言葉を口にするメイドの皆さんに私はぶんぶんと首を横に振る。
ブライアント辺境伯家の家族構成は当主たる辺境伯、夫人、グレン様とその弟君の4人だったはず。
確かにここ数年は令嬢が出入りしていないのかも……?
この後はちょっとお食事して後は寝るだけだというのに、過保護なメイドさん達の手によってしっかりとマッサージや化粧を施される。そうして気がつけばうるつや卵肌の侯爵令嬢が誕生していた。
この完成度にメイドさん達も一仕事やりきったような笑顔を浮かべる。
メイドさん達、そんなにこそこそガッツポーズやハイタッチをしていても鏡で全部見えてますよ……!
「グレン様はまだお帰りにならないようで……」
「いえ、お忙しい方だというのは重々承知の上ですので。それに、領民のために全力を尽くす騎士精神は素敵ですもの」
まあそれに、このくらいで拗ねるような年齢でもないからね……。
見た目は確かに12歳──だけれども、私の精神年齢は18歳。
この世界では成人して3年に当たる年齢だし、なんならグレン様と同い年だ。
ついでに言うならば、婚約者がいないのは慣れっこだし……うん、この話やめよう。嫌な記憶が蘇ってくるわ。
メイドさん達に導かれながら真紅のカーペットが敷かれた長い廊下を歩き、別館から晩餐室のある本館へと移動する。
本館へ至る2階の連絡通路を抜けると、見えずとも館内が騒然としているのが分かった。
パタパタと使用人達がせわしなく通路を行き来している。
「あ、セレナ様……!」
執事服を纏った男性の1人が1階より私の名前を呼ぶ。
何かあったのかな? と、軽い気持ちで階下を見下ろすと──
「……えっ」
──階下には血塗れになった1人の男性がいた。
纏った服は血によって赤黒く染まり、鎧部分は鈍い光を灯している。
その美しい髪や耳、尾は、額や頬にべっとりと張りついていて彼の表情を読み取ることが出来ない。
貴族らしい豪奢な邸宅の中、そこにいる彼だけが酷く異様な雰囲気を醸し出している。
──その鋭く光る瞳が、確かに私を射止めた。
「……グレン様っ!」
私は気がつけば、メイドさん達の制止を振り切って駆け出していた。
「……? セレナ嬢……?」
鋭く光っていた瞳に、困惑の光が灯る。
──その声、グレン様だわ。間違いない!
そんな変化に脇目も振らず、私はグレン様に駆け寄った。
「どこか、お怪我を……!?」
「ああ、全部魔物の返り血です。私はかすり傷1つ負っていません」
「よ、良かった……」
確かに血がべったりついているけれど、服に目立った外傷はない。
あのサンダードラゴンを一刀両断したグレン様だもんね……領内に出た魔物程度じゃ怪我はしないと……。
驚きすぎて心臓が止まるかと思った。
「それよりも、セレナ嬢。どうしてこんな時間に……もう帰宅なさってしまったかと……」
グレン様は現状を上手く呑み込めないようで、未だにきゅっと眉を顰めている。
なるほどね。美形は、いついかなる状態でどんな表情をしていても──例えそれが血塗れというイレギュラーな状態で、困惑を前面に出した表情をしていても、美形であることには変わりがないようだ。
「ブライアント辺境伯にお誘いをいただいて、今日一晩宿泊させていただくことになりましたの。お風呂も用意していただいたし、メイドの皆様方にもよくしていただいて……申し訳ない限りですわ」
「ああなるほど……だからフィルの花の香りが」
どうやらあのお風呂に浮かんでいた良い香りの花の正体は“フィルの花”と言うらしい。
あまり耳慣れのしない花の名前だ。
私の耳元に伸びたグレン様の右手が、肌に触れる寸前に降ろされる。
「この幸運に感謝し、今すぐ抱きしめたい所ですが、汚れてしまってはいけませんよね」
「抱きっ……!? せ、積極的ですわね」
「……お嫌いですか?」
──まさか! そんなことは全く! と全身全霊で叫びたいのをぐっとこらえる。
駄目だぞ、セレナ・アーシェンハイド。
一応ここ、人様のお屋敷だからな。
「……好きですわ」
……うん、このぐらいに留めておくのが正解だな。