第122話 暴君
長らくお休みを頂いてしまい大変申し訳ありませんでした。しばらく体調を崩しており、大学病院などで手術を受けていました。体調も安定してきており、これからゆっくりペースですが少しずつ更新できたらいいなと思っております。
また、あとがきに重要なお知らせがありますのでぜひご覧いただけますと幸いです…!
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前回のあらすじ:なんか怖い人と会った
「おいおい、派手に転んだな……大丈夫か?」
す、と大きな手が差し出される。
ありがとうございます、と言わなくては。ご迷惑をおかけして申し訳ありません、と言わなくては。頭ではそうわかっているのに、口が思うように動かない。――驚愕が喉を縛り付けてしまっているから。
山羊は草食動物なはずなのに、まるで大きな肉食動物に見つめられているような気分だ。
脳裏に蘇るのは逆行する前の記憶。投獄されるよりも前、ヴィレーリアがゾルドと開戦する少し前の話。
私は彼を知っている。面と向かって会話をしたことはないが、『これからの未来を生きた者』ならば誰だって知っている。
先代の獣人王国の王を暗殺し、王位を簒奪したのち、暴虐と圧政を敷いた王――ガイア・マーコール。
その即位の経緯もあって反乱を起こした民の一切を容赦なく処刑し、不満を持つ者を一族諸共皆殺しにすることで国を統治した、ゾルドの女皇と並んで恐れられる若き暴君である。
即位後あまり時間も経たず病をこじらせて亡くなってしまうため圧政はそう長くはなかったが、彼がもたらした影響から目を背けることは難しい。
「だっ……大丈夫、です!」
やっとのことで声を振り絞り、残りの荷物をポケットにねじ込むと、大慌てで立ち上がる。
差し出された手を無視してしまったことが反感を買うのでは――などと不安がよぎるが今は後悔する1秒すら惜しい。
今の最重要事項はなんの問題もなく、反感を買うことなく、迅速にこの場を離れること。世の中臨機応変というものも重要である。
「助けていただきありがとうございました」
裾を軽く摘み上げ頭を下げる。もちろん令嬢スマイルも忘れずに。
いくら心臓が壁に追い詰められた小動物のように跳ねていても、笑顔だけは完璧に浮かべてみせる。伊達に人の2倍もの令嬢生活をしていないのだ。
王宮のマナー教師も花丸をくれるであろう笑顔の裏で、そっと相手の顔色を窺うのも忘れない。
「(……? あら、なんだか思ったよりも随分優しそうな人だわ)」
先程の冷ややかな視線とは一変して、そこに佇む青年は王族の象徴である大きな角を除けばごくごく普通の好青年にしか見えない。
若干の胡散臭さは感じるが、人当たりは良さそう。取り繕われた? それとも優しい人ほど怒るのが怖いというやつ? でも、これはなんだか……。
私が奇妙な違和感を抱いていることなど気にも留めずに、ガイア・マーコールは快活に笑う。
「構わないとも。怪我はないかい、純人のお嬢さん?」
「はい……ご迷惑をおかけしてしまい大変申し訳ありません」
本当はガイア・マーコールの記憶に残るようなことなど極力したくないのだが、私が純人であるという最大に印象に残る事実だけはどうしようもない。
ヴィレーリアにおいて獣人が好奇の視線を集められるように、国民のそのほとんどが獣人である獣人王国では純人は嫌でも目立つ。今の私には諦め現実を受け入れて、これ以上記憶に残らぬようにするくらいしかできない。
そう、私は空気……どこにでも居る一般人……獣人王国を訪れた数多の観光客のうちの一人……。
「謝る必要なんてないさ! むしろ、俺のほうが謝らなくちゃならない。せっかく獣人王国を訪れてくれたのにスリに遭わせてしまったし、その上……」
「……その上?」
「………………犯人を取り逃がした」
気まずそうにガイア・マーコールが視線を向ける先、盛大に地面にダイブした犯人が転がっているはずの路地は、既にもぬけの殻となっていた。
「だ、大丈夫です。荷物も無事でしたし……!」
「本当に悪かったなお嬢さん。……それから、失礼なようだがお付きの者は? まさか一人で観光なんてことは――」
ぐっ……一刻も早くこの場を離れたいのに……!
あまり長く話しすぎるとボロが出そうで不安が高まる。
さてどこまで話したものかと大慌てで思考を巡らせていると、突然、背中に温もりが伝わった。
「――あ、いたいた! もう、セレナ。随分と探したのだぞ!」
ぎゅっと、私を守るように。背後から抱きしめてきた彼女の声は、柔らかで快活な少女そのもので。
「……ん。ガイアにぃ? 今日は父上の手伝いをしているはずじゃあ……」
「おや、エヴリンじゃあないか。この広い都で会うなんて今日は随分星の巡りが良いようだな。父上の手伝いは……まあ、千里を駆ける獣人でも休息は必要だから、な!」
のす、と私に体を持たれかけエヴリン姫は束の間の会話を交わす。
「どうしたセレナ。ガイアにぃにいじめられたか? うん? 私にこっそり言ってみろ」
「いえ違うのです! むしろ、泥棒を追いかけているところを助けていただいて……」
「なるほど、そうであったか。ありがとうガイアにぃ! それから、いくら面倒な仕事でも、サボって宮廷を抜け出しちゃだめなのだぞ!」
エヴリン姫の視線の圧から逃れるように、ガイア・マーコールはすいすいと視線を泳がせる。
なるほど暴君ガイアも末妹には勝てないのか。なんだか意外な関係性だ。いや、何も意外なのはこれだけではないのだが。
「うーん、はは……まあ、エヴリンが保護者なら安心だな! ……うん、さてじゃあ俺はそろそろ離宮に戻るよ」
「戻るのは父上の待つ執務室では?」
「ぐう……」
ぐうの音が出た。
「わかった、わかったよ。大人しく父上の手伝いに戻るさ。エヴリンは獣人王国の案内も良いがきちんと送り届けるんだぞ」
「それはもちろん!」
エヴリン姫が大きく頷くのを見届けて、ガイア・マーコールはひらひらと手を振りながらその場をあとにした。
ふう……エヴリン姫のお陰で何とかガイア・マーコールの不興を買わずこの場を乗り切れた。
「(……でもこの時代のガイア・マーコールは怒らせても怖くなさそうだけど)」
ふと好奇心が勝って、私はエヴリン姫に尋ねてみる。
「エヴリン様はガイア殿下と仲がよろしいのですか?」
「ああ! ガイアにぃ……じゃなかった、ガイア兄上が一番仲が良いぞ。うちは5人兄弟で、長兄のサリエル兄上は一緒に遊んではくれたが軍の遠征で中々居なかったし、三男のルシウス兄上は昔から病弱でとても遊べる体ではなかった。ナターリャ姉上は……あんまり派手に遊ぶとお父様に言いつけられてしまうからな。必然的にガイア兄上と遊ぶことが多かったんだ。今はそう機会もないが、昔はよく二人で宮中を抜け出して街に遊びに出ていたんだぞ! 優しくて、聡明で……まあちょっと怠惰で面倒くさがり屋で抜けているところもあるが、私が父上の次に尊敬するお方だ」
「(あの暴君が、優しくて聡明……?)」
未来を知る者としてはなかなか信じがたい話だが、先程のガイア・マーコールの様子からは理解できるような気もする。
今のガイア・マーコールは、とてもじゃないが大量虐殺を軽く命じられるような人には見えない。どちらかと言えばむしろエヴリン姫寄りの、穏やかな人物だ。
本性を隠しているのか、何かこれから分岐点があるのか、それとも――
「(情報を集めなくちゃ。今の私が知っている情報だけでは何も断定できない)」
私が知っていることは結局のところ、ヴィレーリアにすら伝わってくるほどの大きな出来事だけでしかない。
『獣人王国王がエヴリン姫を厭うている』『獣人王国王を殺して暴君ガイアが玉座に就いた』というのが事実でも、人の口から口へ伝えられてきた話である以上、脚色されていたり歪んで伝わっている可能性も大いにある。
気を引き締めねば、と私は拳を固くした。