第111話 アップルパイ
「………ふふ。なるほど、それで取り残されてしまい、そうやってへこんでいるわけだ」
「もう……笑わないで下さい」
からからと揺れる馬車内に、お父様の笑い声が響く。
所変わって、王宮からアーシェンハイド邸へと向かう帰路のこと。
王宮魔導師団が用意してくれた馬車は、小気味よい揺れを伴いながら貴族街を進んでいく。
魔力不足を補うために、とクラウス総長が用意して下さったアップルパイの入ったバスケットを抱きしめながら私は軽くお父様を睨み付ける。
くすくすと笑う仕草は、流石上位貴族と言うべきか、見惚れてしまうほど美しかった。
ぐっ……だめよ私、騙されないで! その人は今他人の不幸を前に笑ってるんだから!
3人でブライアント辺境伯領へと転移する予定が、1人取り残されてしまった私。
唖然とした表情を浮かべていたロベリア様は数拍おいて、誰よりも早く我に返った。そして大慌てで手元の機械をいじり始める。
「安全装置が作動してる? でも魔法に乱れが生じたようにも見えなかったし……いや、そんなはずは……」
とりとめも無い呟きを零しながら、ロベリア様は休む間もなく手を動かし続ける──が、しかし転移装置が復旧することも無く。
「点検をしてみるからちょっと待ってて」と言い残し、ロベリア様は私とクラウス総長を中庭に追い出してしまった。
ただ2人、中庭に追い出されたというだけでも十分気まずいというのに、更に空気を読むことなく私の腹がきゅうと鳴った。
倒れるほどではないとは言え、魔力を大量消費したために身体が悲鳴を上げているのだ。意識してみれば、確かに少しふらふらするかもしれない。軽度の魔力枯渇の症状だった。
腹は減っては戦は出来ぬ、そう判断した私は、ぱっとクラウス総長を見上げた。
「あの、クラウス総長。こんなことを言うのはどうかと思うのですが……おなかが空きました」
「あ、ああ、魔力枯渇か。気が利かなくてすまないな。すぐに何か用意しよう」
私の様子に気がついてか、慌ててクラウス総長が王宮の中心部──厨房の方へと駆けていく。
ああ、そんなに急がなくても……という声が届くはずもなく私はふわふわと現実味のない身体を引きずって、花壇の脇に設置されていた椅子に腰掛けた。
腹が減っては戦は出来ぬ? いやいや、そもそも土俵に立ててないじゃない、なんて野暮な話はしない。
恥じらい? そんなものは存在しない。これは……救命行為だ。あと単純に王宮の食事が美味しい。
まだかなまだかな、と王宮の料理に思いを馳せること暫く。ちょうどクラウス総長が消えた方向に2つの人影が浮かび上がった。
「クラウスくん何を持ってるの? おやつかい? 私も相伴させていただこうかな」
「黙れ、サボるな、これは貴様の娘用のアップルパイだ、さっさと職務に戻れ、部下に面倒をかけるんじゃないアーシェンハイド侯爵」
「残念ながら私は今日半休を取ってるんだ。今日の仕事はこれで終わりなんだよ」
何やら仲よさげに……仲よさげに? 軽口をたたき合う中年の男性が2人。
酷く不愉快そうに顔を顰め、伸ばされた手をはたき落とすのはクラウス総長だ。元より感情を隠すタイプでは無いものの、あれほど嫌がる姿は滅多に見ない。そしてもう片方は──
「お、お父様?」
「おや、セレナ?まだブライアント辺境伯領に向かってなかったのかい? 見送りには間に合わないと思っていたのだけれど、会えて良かったよ」
そう言って明るい笑みを浮かべてみせるのは、アーシェンハイド侯爵、ことお父様である。
本来ならばまだお勤め中の時間のはずだが、漏れ聞こえた会話から推測すると、どうやら既に退勤後らしい。
突然現れたお父様に目を白黒させていると、お父様は更に笑みを深めつつ口を開く。
「もしかしたら3人がまだいるかもしれないと思って移動している途中で、丁度クラウスくんと会ってね。美味しそうな物を持ってるからついて来ちゃったんだ」
「と言うわけだ。悪いな、振り払えなかった」
「父がすみません……」
片腕でバスケットを抱えつつ、開いた方の手でクラウス総長はこめかみを抑える。ああ、深かった皺が更に深く刻み込まれていく……。
そんなクラウス総長を揶揄うように一瞥した後、お父様は私に視線を戻した。
「まあまあ、もしまだ居たら渡そうとこれを持ってきてたんだ。運が良かったと私は思うよ」
お父様はポケットから何やら手帳の様なものを取り出すと、私の手のひらにそっと載せた。
赤い臙脂色の表紙に、ヴィレーリアの国旗を象った金の箔が押されている。厚みはあまりなくごく薄いもので、新品のように見える。
「これは……?」
「噛み砕いて言えば、ヴィレーリアの外交官……の補佐である証明書かな。あまり階級の高いものではないから大した権限もないけれど、これがあるだけでお相手方も随分と手が出しにくくなる。とにもかくにも、無いよりはマシだろうからね」
「そ、そんな重要なもの私に与えても大丈夫なのですか!?」
補佐とはいえど外交官とは国の顔であり、無くてはならない重要な存在。少なくとも附属や学院を卒業していないような小娘に、おいそれと与えて良いような代物ではない。
「我が家にはもうとっくの昔に成人している長男が居るんだけど、どうやらあれは家を継ぐ気がないようだからね。そうなるとうちには優秀な娘が居るからそちらが家を継ぐことになるだろう。次の侯爵に外交を教えてやりたい、と上の方々におねだりしたらすぐに貰えたよ」
「な、なんてこと……」
私の居ない場所で散々言ってくれたようである。
確かに権力はあるに越したことはないけれど、私はいずれブライアント辺境伯家に嫁ぐ身だし……。と言うか、絶対にそれただのおねだりじゃないですよね?
私の懐疑の視線を受け取ってか、お父様は明るい笑みを浮かべたまま口を開く。
「常日頃から、多方面に恩を売っておくに越したことはないと言うことだよ。尤も、恩だけでは成り立たないことも多いけれどね」
なるほど、これが外交の要のやり口か……。
自分の実父と理解しつつも背筋がぞっとするような恐怖を感じる。
私が押し黙ったのを良いことに、お父様はクラウス総長へちょっかいをかけるのを再開する。
あ、ああ、こめかみの皺が、額の青筋が……!
思えばこの2人は、お母様に恋をして人生を狂わされた男と、欲しくてたまらなかった女性の現在の夫という関係。仲が良いわけがない。
いや、お父様は仲良くしたいようだが、対するクラウス総長は極力関わりたくないオーラを前面に出している。
当然その雰囲気に気がついていないわけがないのだが、そこで引き下がるならばわざわざちょっかいなど出すわけがない。
最終的に、ロベリア様が現れ「今日中の復旧は無理だからまた明日来て欲しい」と言う言葉に、クラウス総長はこれ幸いと私達を城外に叩き出してしまった。
──そして今に至るわけである。
「それにしても、転移装置の誤作動だなんて不思議なこともあるもんだね。何か心当たりでも?」
「……いいえ」
口先ではそう言ったものの、実は心当たりがないわけでは無い。
転移装置とは、大雑把に言えば、身体と魂を別の場所に転移させる魔道具だ。聞く話によれば先に魂……即ち意識が転移先に送られ、直後に身体の感覚が届くらしい。
本来“魂”と“身体”は魔力によって強固に結ばれている。だからほんの僅かな間分離してても身体に何ら影響はないわけだが──
「(私は逆行しているから……ね)」
現状の私は“王太子の婚約者だった私”の魂が“王太子の婚約者になる前の私”の身体に入っているわけで。
他の人と比べて魂と身体の結び付きが不安定な状態にあるのかも知れない。だから、安全装置が作動して私だけ取り残された。
当然全ては憶測であり、なんの根拠もない仮説である。とにかくわかることは1つだけ、私が取り残されてしまったと言うこと。あとお兄様だけがグレン様と手を繋いで転移してしまったと言うこと。……あ、2つだったな。
「ああ、でも困ったな。馬車にしてもほうきにしても、今から出発したら相当時間がかかってしまうだろう?」
それを世間一般では“詰んでいる”などと呼ぶそうだ。世の中そんなに甘くないのだと言うことか。
ああ、お伽噺の主人公なら動物のお友達とかが助けてくれるのに──動物のお友達?
そんな無意味な現実逃避に思いを馳せているとき、ふと、私の脳にある可能性が浮かび上がってくる。
居るじゃないか、私にも動物のお友達が。他の仲間は上流の激流を好むのに、何故か1人王都付近の穏やかな水流を好んで泳いでいる、かつて鯉だったあの子が。
あの時交わした契約など、もうとっくの昔に効力を失っているだろう。しかし、何かしらの対価を持っていけば“お友達価格”で手を貸してくれるかもしれない。
真っ暗だった未来に、不意に一筋の光が差し込んだような気がした。
大慌てで窓の外に視線をやると、綺麗に整備された街並みの向こうに美しい清流が見える。
「お父様、馬車を止めて下さい! 降ります!」
「……ん? え、どうしたんだい!?」
私は背後にある連絡窓をノックし、御者に馬車を止めるようにお願いすると、お父様の制止を振り切って馬車を降りる。
勿論対価となり得る物──アップルパイの入ったバスケットを忘れずに。
大変長らくお待たせ致しました。
次回の更新は、書籍化作業のため1週間ほどお休みをいただき、6月24日となります。
どうぞよろしくお願い致します……!