第109話 お嫁に行けますか?
グレン様の調査を行った帰り道、王城に寄った私達はそのまま転移装置の使用許可を貰いに騎士団と魔導師団それぞれに顔を出した。
そう簡単には許可が下りないかもしれない──そんな緊張が胸の内に湧き上がる。
しかしその緊張に反して両団の解答は、「転移先であるブライアント家の許可が下りれば構わない」という極めて好意的なものだった。
王城に存在する転移装置は数千人という大規模な移動を行える物、数百人程度の中規模な移動が可能な物、百人以下の小規模な移動を得意とする物の三種類が存在しているらしい。
今回使うのは後者、3つの内で一番小規模な転移装置だった。
規模が小さい分──それでも数十人もの人を転移させられる訳だが──消費魔力量も少なくて済む。
具体的に言えば化け物染みた魔力量を有する天性の魔導師たるお兄様と、その域には遠く及ばないものの人並み以上の魔力量を有する私で何とか出来る程度。
転移魔法というのは数ある魔法の中でも上位に位置するので、数人の魔力で事足りるというのは異例のこと。そこにはヴィレーリアの高い技術力が窺える。
アーシェンハイド邸に戻ると、私は早速荷造りを始めた。
数日分の着替えと筆記用具と食料、それから最低限の魔法具。またグリフォンへのお土産……もとい賄賂のマタタビを使用したお菓子。
もちろん無用な辞典だの華美なアクセサリーだのという余計な物などを入れたりはしていない。してはいないのだが、それなりの量になってしまった。
何度も何度もしつこいくらいに確認し、私はそれらをトランクに詰め込んでいく。
トランクは次々と放り込まれていく、見た目通りであればとうに溢れて居るであろう荷物を、文字通り呑み込んでいった。
そのトランクは、数年前に一目惚れして購入した空間魔法つきの物だった。
デザインは通年を通して使える、焦げ茶色をした革張りのシンプルなデザイン。何よりも、収納可能な量に反して消費魔力量が少ないというところが非常に魅力的な優れ物だった。
なお、トランクの空間魔法が転移装置に影響しないことはあらかじめお兄様に確認済みである。
使いやすいデザインと機能性に一目惚れして、つい衝動買いをしてしまったけどやっぱり正解だったな……。こんな事態になるとは露ほども思ってなかったけれども。
転移装置のお陰で国内での移動が幾分かマシになったとは言え、やはり荷物が多いというのは有事の際に命取りとなる。
貴族令嬢がどこかへ移動する際は、使用人が荷物持ちを担うのが普通だし、第一に馬車で移動するのが一般的。そのため空間魔法つきのトランクなんて微塵も必要性はなかったのだが、やはり自分の直感を信じて良かった。
あらかた荷物を詰め終わり、窓の外へと視線をやれば外の世界は、正に夜の帳が降りようとしていた頃だった。
その大部分が沈み、今最後の光をも沈まんとしている太陽とは反対側の山の端にはひときわ強く星が輝いている。
今日は早めに眠ろう──そんなことを考えながら、私は早めの夕食をねだりに私室を後にした。
***
「──ろ。おきろ、セレナ。出発するぞ」
「ん……? おにい、さま……なんで……」
ブライアント家から、転移装置の使用許可の知らせが届いたのは翌日の朝方の事であった。
話を聞くことには、討伐を終えて夜中に帰ってきたブライアント伯爵が急いで迎え入れる準備を整えてくれていたらしい。
なんと良い人なのだろうか。領民に慕われるのも頷ける。
その善意の結果、許可が届いたことなど露知らず深い眠りの世界に居た私は、朝早くからお兄様に叩き起こされる羽目になったのだが……。
のそのそとベッドから起き上がった私を横目に、お兄様はベッド脇の窓を開け放った。
横に寄せられていたカーテンがそよ風に煽られふわりと宙に舞い上がる。日が昇る前の朝の冷たい空気が、肺いっぱいに満ちていった。
思わず出た欠伸を噛み殺し、私は食堂へ向かおうと覚束ない足取りで歩を進める。
「ん? そっちはクローゼットルームじゃないぞ、着替えなくて良いのか?」
別に久々の実家なのだから、多少だらしなくても良いじゃないですか。
そんな言い訳が脳裏に浮かんだが、口に出すほどの余裕はなかった。
いつもそこまで目覚めが悪い方ではないのだが、今日は酷くぼんやりとしている。
このままだと服を汚しかねないし、万が一服を汚したら着替えるのが面倒だし……などと言い訳ばかりが浮かんでは消えていく。
お兄様の言葉を無視して私は戸を開き、そして一拍置いて思わず体を強張らせた。
扉の前に居たのはきっちりと髪をまとめたいつも通りのノーラ。
そして本来ならばこの時間帯、この屋敷では絶対に見かけることのない人物。
私は思わずそっと開けた戸を閉める。
……あれ、おかしいな? 幻覚かな? やっぱりまだ寝ぼけているのかもしれない。
だって昼間ならまだしも、こんな時間に我が家にあの人がいるはずがないのだ。
瞼を擦りながら、私は今見た光景を幻覚だと結論づける。
ああうん、そうだ。幻覚だ。
ノーラはきっと今頃扉越しに、私のこの奇妙な行動に対して首を傾げているに違いない。
うんうんと僅かに頷きながら、私はまた扉を開く。
──しかし現実は無情だった。
三角の耳、黒く艶やかな髪、揺れる尾。
いつもならば騎士団長の位に就いていることを示す白い制服を纏っている彼の人は、今日ばかりは私服をその身に纏っている。
その名を──グレン・ブライアント。
言い換えれば私の婚約者その人が、マーサの後ろに立っていた。
「え、なん……え?」
思わず、言葉にも鳴らない音を零す。
なんで、貴方がここに居るんですか。
なんで、こんな早い時間にいるんですか。
なんで、お兄様もノーラも教えてくれなかったんですか。
湧き水が如く湧き上がってきた疑問やら理不尽な不満やらに、脳の処理が追いつかず、私はもう一度扉を閉める。
「……あ、あの、セレナ? 大丈夫か?」
お兄様の呟きが聞こえたが、そんなことはもはやどうでもいい。
グレン様が、いる。
今、そこに、1枚の板を隔てた向こう側に。
グレン様が……いる……!?
そして、グレン様にこのだらしない寝間着姿を見られた……と?
その事実を再確認したとき、私の中で何かが弾けた。
ぼんっと音を立てて顔が赤くなる──否、顔だけではない。全身が熱湯を浴びせられたかのように熱くなる。
ぎぎぎ、と軋むような音が聞こえそうな具合にぎこちなくお兄様の方を振り返った。
それがとんでもない八つ当たりであったことは重々承知の上だった。
しかしそうやって八つ当たりでもしなければ、どうにかなってしまいそうだった。
「お兄様の!! ばか!! なんで教えてくれなかったんですか!!」
「い、言ったぞ! 確かに言葉足らずだったかもしれないが、着替えなくて良いのかと聞いたはずだぞ! ……え、聞いてた、よな!?」
私はソファー上のクッションをむんずとつかみ取り、しどろもどろになるお兄様めがけて放り投げた。
もうダメだ、なんて事だ。
こんな姿を見られただなんて目も当てられない。
普段寮で着ている長袖の露出度の低い冬用の物ならまだしも、私が今身に纏っているのは夏服。つまり丈が短く、素材も薄く、露出度も高い──親族以外には堂々と見せられない代物。
最近暑いから、なんて余計なことを考えたのが運の尽きだったらしい。
「お嫁に……お嫁に、行けない……」
「いや、いけるだろ、それは……」
無尽蔵に飛んでくるクッションを何とか受け止めたお兄様が、呆れかえったような声でそう呟いた。