第103話 中和剤
「──いいか? 俺達の幻覚系魔法の発動条件は“対象に触れていること”もしくは“対象者に触れている人物に触れていること”なんだ。ただ発動時は防御系魔法も使えないガラ空きの状態になってしまう。だから事前に詠唱しておいて、兄貴に触れてささっと発動して、すぐ逃げるってのがベストだと思う」
魔法の発動というのは基本的に詠唱が必要となってくるが、無詠唱が不可能かと言われればそうではない。
無詠唱の魔法は威力や精度が劣るものの何かと便利な点も多く、戦闘時や緊急時などによく用いられている。
また無詠唱の他にも事前詠唱というものもある。こちらは出来る魔法が限られているが、通常のように詠唱した際と同程度の威力や精度を保つので無詠唱と同様に戦闘時によく用いられているわけだ。
詠唱って、長い上に1度噛むと振り出しに戻っちゃうから何かと面倒なんだよなぁ……。
もちろん詠唱するに越したことはないというのはそうなのだけれども。
「ルーナ嬢は俺と手を繋いでいれば目隠しをしたままでも魔法を発動できるし、いざというときは守ることも出来る。……それで、俺達の避難後すぐにセレナに薬を盛って貰いたいんだ」
「それは構わないけれど、触れるって……。あれだけ激しく動き回っているところを迂闊に触れたら、ルキアも無傷ではいられないわ」
そう言いつつ視線を遣った先──激戦を繰り広げるグレン様の手には、返り血で鈍く光る長剣が握られている。
事前に用意していた武器……ではなさそう?
どこから拾ってきたのかわからないが、恐らく倒した賊が使用していた物を拾ったのだろう。長剣自体にはべったりと血がついているが、グレン様の服には殆ど汚れがないのがその証拠だ。
今回の暴走によって死者が出ていたら流石のグレン様も責任を問われることになるだろうが、何とか最悪の事態は回避できているようだ。
ルキアがグレン様に触れられるだけの距離になれば間違いなくあの剣の間合いに入ってしまうだろう。
そう心配するものの、ルキアはぴっと親指を立てて頷いた。
「大丈夫。後ろから近づくようにするし、もしもの時は気合いで何とかする」
「……そっかぁ」
直前まであれだけリスクと効率を天秤に掛け作戦を立てていたというのにそんなところは脳筋なのか。
大事だよね、気合い。わかるよ。
本人のやる気に満ちた笑顔を見てしまった今、そんなツッコミは野暮だろう。
喉元まで出かかったセリフを何とか飲み込んだ。
アルナ様やソフィア、アーチを残し、ルキアとルーナと共に騒動の中心へと走る。
グレン様の重い斬擊を受け止め、跳ね返し、一歩踏み込もうとしたサイラス団長が私達の姿を目に留めた瞬間、ひょいと眉を上げた。
「うおっ、なんスか!? 今は来ちゃ危ないッスよ!」
「……げ、解毒薬をお持ちしました!」
流石に「敵の敵の密偵から中和剤を貰ったので今から盛ろうと思います!」などと正直に宣言することは出来ないので、少しぼかして報告する。
しかしサイラス団長は私の表情から、解毒薬が正規の方法で入手したわけではないことを悟ったのであろう。その人懐っこい顔にはいつものような快活な笑顔はなく、依然険しいままだった。
ほんの少しの沈黙の後、「わかったッス」と呟きサイラス団長は道を空けてくれる。
ルーナの左手を握りルキアが左手で剣を構えながらグレン様との間合いを詰める。
その間口元が微かに震え、次の瞬間、黄金に煌めく光の輪が彼とルーナの体を取り巻くように踊った。
詠唱完了の合図である。
それに合わせて、私は左手に握り締めていた中和剤のコルク栓を親指で押し上げた。きゅぽん、と小気味よい音と共にコルク栓が床に転がる。
そして中の液体を口に流し込もうとした瞬間、私の目は捉えてしまった。
──ルキアが背後よりグレン様に掴み掛かり、全力の頭突きをお見舞いする、恐ろしい奇行を。
「る、る、る、ルキアサンッ……!?!?」
ゴン、と鈍い音が周囲に響き、グレン様の体がぐらつく。
2人の頭部が接触したその瞬間、グレン様の体を薄紫色の煙──恐らく幻覚魔法の類が取り巻いた。
魔法はしっかりと、寸分の間違いもなく発動している……しているけれども!! 貴方あまりにも自分の兄の扱いが雑じゃない!?
全ての問題が“気合い”で解決した瞬間だった。
1つ幸運だったことはまだ中和剤を口にしていなかったことである。口に含んでたら、間違いなく色々な理由で噴き出してた。十数秒前の自分を賞賛し喝采したい。
とにもかくにもここからはスピードが命。
2人の魔法が発動している間に中和剤を飲んでいただかなくてはならない。
私は動揺を抑えつつ、勢いよく小瓶の中身を口内に流し込んだ。
どろりとした奇妙の甘味の直後に、思わず顔を顰めたくなるような苦味が舌を刺す。
「(ま、不味い! 不味い、不味い、不味い……!!)」
思わず床を転げ回りたくなるほどの不味さだ。これを飲み込むだなんてとんでもない!
一滴程度とは言えペロリと簡単に舐めて見せたアーチに敬意を抱くレベルである。
そんな思いが脳を駆けた刹那、ふとある懸念が浮かび上がってくる。
果たしてグレン様はこれを飲み込むことが出来るだろうか……? と。
その疑問のままに、私はグレン様の様子を思い返す。
既に何発も攻撃を食らっているだろうに、未だ軽々と戦闘を続行できているのは、本人の実力もあるだろうが、おおかた薬の影響で痛覚が鈍っているというのが正解だろう。でなければ、いくら身体能力の秀でた獣人とは言え、これほどまでに激しい戦闘を長時間に渡り行うことなど不可能だ。
逆に、次々と迫り来る斬擊を見切り、最小限の動きで躱せているのは視覚や聴覚が鋭くなっているからだろうと推測できる。
つまりあの薬は、戦闘のために痛覚などの枷に成り得る感覚を麻痺させ、逆に戦闘に必要な技能──視覚や聴覚の感度を増長させているわけだ。
……では、味覚は?
味覚は、視覚や聴覚ほど戦闘に必要なわけではないが、痛覚ほど枷になるわけでもない。確かに相手は半狂乱の状態だが、味覚が機能してないと言い切ることは出来ない。むしろ戦闘能力と共に跳ね上がっている可能性だって充分あり得る。
特に影響はないという可能性も当然あるだろうが、手元にある薬はこれ1つのみ。念には念を入れ、常に最悪のケースを想定しながら行動しなくてはならない。
……要は恥ずかしいからと言って横着してはならないと言うこと!
「(潰したい……この場にいる全員の目を潰したい……!)」
やり方によっては、先に「目を瞑っていて下さい!」と宣言することも出来ただろうが、時既に遅し。
周囲の騎士達や友人達の視線は、有事の際に手早く対応できるよう私やグレン様に集中している。
この大広間にいる殆どの人物がこちらの様子を窺っているので、むしろヴィレーリア国内で今1番注目されているかもしれない。
「(ご、ごめんなさい、グレン様……!! 責任は取ります!!)」
私からすれば役得でしかないが、自分の制御の及ばないところでキスされたら何だか複雑な気分にもなるだろう。
万全な状態に戻ったら、煮るなり焼くなり逆さ磔にするなり石打にするなり処刑するなり好きにして貰う覚悟だ。
グレン様との身長差が災いして、このままだとキスするにはほど遠い──がしかし覚悟を決めた乙女は強かった。
己でも驚くほどの速さでグレン様の胸倉を掴み、勢いよく引き寄せる。
ぎゅっと目を瞑り、一拍置いた後、ふにっと柔らかい何かが唇に触れる。
懐かしい甘い花の香りが鼻腔をくすぐった。
口内の液体をとにかく全て渡した後、体勢を崩したグレン様を支える事は私には出来ず。そのまま私はグレン様に抱きかかえられるように床に倒れこんだ。
強く瞑った瞳を恐る恐る開けると、目と鼻の先には美しいグレン様の顔が。
ああ、なんて長い睫毛、白磁のごとく美しい肌、端整な顔立ち、うっすら口紅の移った唇──
「か、勘弁してぇ……」
そう言い残し、床に頭を強く打ち付けていた私は意識を手放した。