第100話 悪魔に魂を売る勇気
唇を震わせてそう呟いたルキアを見つめる。
獣人は純人に比べて基礎的な身体能力がずば抜けて高い。
走力、体力、瞬発力、腕力──そして視力や嗅覚まで。
ただの純人に過ぎない私の考えと、獣人のルキアが見た現実。どちらが信憑性があるかなんてのは言うまでも無いだろう。
「(いや、いやいや……まさかね)」
そこまでは理解できていても脳はその事実を否定しようとした。肯定したくなかったからかもしれない。
例えネロと対峙しているのが総長でもグレン様だったとしても、どちらにせよ辻褄が合わない。けれどそこに総長がいると考えるよりはよっぽど辻褄が合うような気もする。
解し難いものに対する、得も言われぬ恐怖が喉元まで競り上がってきた。
「(私は本当にグレン様のことを知らない……)」
彼の人が今までどういう人生を歩んできて、何を思い、何を負い、そしてこれからどんな人生を歩んでいくのか。──何時、何処でその生を終えるのかも。本当に、何も知らないのだ。
先ほどまで激しく響いていたはずの金属音が静まり返っていく。それは、激戦を繰り広げていた賊達が1人また1人と取り抑えられていったからなのか、はたまたこの異様な空気に気圧されてしまったからなのか。肺が潰れてしまいそうなほど重苦しいこの空気の中で、ある1つの音が戸口より響く。ヒールで大理石の床を打ち鳴らす、この場にはそぐわぬ酷く軽やかな音だった。
「よぉ、お嬢さん。数ヶ月ぶりじゃん、元気にしてた?」
「え? あ、えっと……どなた?」
そこに佇んでいたのは1人のメイドだった。
彼女はしゃがみ込んでいた私に、まるで覗き込むように腰を折り曲げた姿勢で挨拶をする。
モブキャップから零れた一房の栗色の毛が揺れる。よく整った顔立ちは、しかし宮廷でメイドとして仕えているにしては少し幼いようにも感じられた。
そして何より、そんな美少女の口から零れたのは、声変わりを終えた後の低い男性の声だった。
えっ……と、目の前にいるのは美少女だよな、うん。
声を発することなく小首を傾げた姿は誰がどう見ても美少女そのものだった。外見年齢的には微少女というべきなのかもしれないが。
目の前で乱闘が繰り広げられていたこと、向こうでは何やら不穏な雰囲気が漂っていること、そしてこの現状を前に、処理しきれなくなった脳が白旗を挙げた。
俗に言うところの処理落ちなるものである。
とんでもないシリアスブレイクだ。
「えぇ……忘れちまったわけ? そりゃひでぇや、なんて薄情なお嬢さんだ。あんな風に狭い室内を追いかけっこしたり、毒を盛ったり飲んだりするってのはそうそう無いと思うんだけど?」
追いかけっこに毒ってことは……。
成人後の人生ではそうそう起こりえない2つの出来事をあげられ、処理落ちしていた脳が何とか正解を手繰り寄せる。
「あ、アーチ、さん……?」
まさか、まさかね?
だってアーチは旅芸人達に紛れ込んでいた密偵の“少女”だ。確かに目の前で芝居染みた表情を浮かべてみせるメイドは女性らしい姿をしているが、声は間違いなく男。
顔も似ているような気もしなくはないが……まさか、ねぇ?
外れていて欲しいと私が願う中で、無情にも目の前のメイドの姿をした男は満面の笑みを浮かべて見せたのだった。
「そう、ご名答! 旅する芸人一座に紛れ込んでいた可憐なる密偵、アーチちゃんでーす」
「い、いや! いやいやいや! だって貴方、男性じゃない!」
「密偵が変装もせずに潜入してるわけないだろ。変声器を使って声を変えてたんだよ。それに、女の方が一座の中では何かと都合が良かったしな。中々良い性能だったろ? ……まあ生憎ネロに壊されちゃったけど」
「気に入ってたんだけどなぁ」などと呟きながら、アーチは襟元のリボンを指先に絡め弄ぶ。突然の告白に私は声を失った。
男……男……!? あの可愛くて、人懐っこく、元気溌剌そうな少女が男!?
そこまで考えて私は1度考えることを辞めた。
まあ人生長いものだし、逆行する令嬢が居るのなら、女装をする密偵がいてもおかしくはない……か?
少女の姿の方が都合が良いというのもわかるし、身元特定を遅らせるにはむしろ最適なのかもしれない。そうなると、今メイドの格好をしているのもきっと同様の理由なのだろう。
「そ、それで。密偵の貴方が何かご用かしら? 残念だけれどめぼしい物は持ってないわよ。人質にも向いてないと思うし……」
「いやいや、そう言うのじゃ無くてさ。今日は嫌がらせに来たんだよね。……ああ、安心して! お嬢さんやヴィレーリアの皆さんに対してとかじゃないから」
私やヴィレーリア国側の人間にではなく……? では一体誰に? ますます意味がわからない。
私が無意識に首を傾げると、アーチは意気揚々と語り始めた。
「オレの所属している組織……正確にはオレのご主人が属している組織ってのは中々デカくてさ。一応1つにはまとまってるけど、一枚岩じゃない。保守派と革新派とか、反対派と親密派とか……まあ色々あるわけよ。例えばあそこで戦闘している連中は革新派で、オレとご主人達が属しているのは保守派」
「オレ達の間では“北翼”と“南翼”なんて言ったりするけどね」とアーチはあどけなく微笑む。
「目標が一緒だったら協力するけど、どちらかに先を越されるのは困る。今回の襲撃で“北翼”の奴らの目論見なんてのが成功しちまうと、“南翼”のオレたちも困っちゃうのよ。ということで革新派の皆様に対して嫌がらせ、もとい足止めをしに来たってわけよ!」
な、なるほど。確かに同じ目標を掲げる1つの組織があったとしても、必ずしもやり方が一致するとは限らない。どちらが飛び抜けて成果を上げるのも困る──だから今回は敵陣営に味方する、と。
中々に信じ固い話だが、残念ながら信じる他ない。
「あれ以来ちょっとばかしアンタのことが気になって調べさせて貰ったよ、セレナ・アーシェンハイドさん。ヴィレーリア王国の名門侯爵家の娘で、父親は外交を一手に握るやり手、母親は王妃からの信頼も厚い元近衛騎士。兄君は王宮魔導師……だっけ? 王太子の婚約者候補の1人だったけど、12の時に一目惚れしたとか何とかでブライアント辺境伯家の長男坊を──」
「待って、隣にその人の弟居るから。流石に恥ずかしいから黙ってちょうだい」
「お、そりゃ悪かったな」
上っ面では謝罪しているがこれは間違いなく確信犯である。
私以上に状況が飲み込めず、困ったように眉を顰めていたルキアが何かを諦めたかのように肩を落とした。
ルキアさんそれちょっとどういう意味ですか??
「本当は別にオレ達が邪魔しなくてもヴィレーリアの有能な騎士様方が収めてくれるだろうから良かったんだけどさ。でもオレはアンタとネロのことを結構気に入ってんの。毒を進んで飲む狂人なんて中々いないし!」
「……セレナ、どういうことだ?」
「もう終わったことだから気にしなくていいよ!!」
アーチめ、余計なことを言いやがって……!
それに後でしっかりルキアを買収しなくては。
今すぐその身包みを剥いでやろうかという衝動を必死に抑えつつ、話の続きを促す。
「……まあそれにアンタにはこれからも何かと縁があるだろうし? ちょっとくらい恩を売るのも悪くないよなぁって思ってさ。……ということで、アンタにこれを贈呈!」
ごそごそとエプロンドレスのポケットから取り出したのは、透明な小瓶に入った液体だった。
透き通るような青い色をした液体は、いかにも薬品と言った風体である。
「な、何? これ」
「……うーん、教えてやりたいけどあんまり喋りすぎるのもなぁ」
私の問いかけにアーチは笑いながらそうはぐらかす。
緊急時ではあるが、流石にこれを安易にグレン様に盛るほど私もぶっ飛んではない。
口を割る素振りもないので──仕方がない。強行突破に取りかかることにした。
私は先ほどお兄様から渡された銀杖を取り上げると、ぴっとアーチの喉元に突きつける。後ろに飛び退いて避けようとしたアーチを、見事な瞬発力でルキアが羽交い締めにした。
「脅しちゃう感じ? ドキドキするな。……でもオレ魔法を無効化する魔道具を使ってるから意味ないと思うよ」
「いや、刺す」
「ほーん、なるほどねぇ、うんうん…………は、刺す!? 物理攻撃!?」
「刺す」
1度は納得した素振りを見せたアーチが目を剥く。
私は感情を取り落とした真顔で復唱した。
魔法が効かないのなら仕方がない。正直な話、制服を汚したくはないが……まあ背に腹は代えられない。
本当は、強化魔法なら効くのでは……? と思ってはいる。
雷魔法の強化魔法というのは効果が大きい分、代償──即ち体への負担も大きい。私は強化魔法が下手クソなので、強化魔法で相手を消し炭にするという荒技も出来たりする。……が、これは最終手段だ。
私の淡々とした受け答えに何を想像したのか、アーチは顔を青ざめさせる。そしてそう暫くしないうちに目を逸らしながらも口を開いた。
「ちょっと前に“北翼”の奴らがネロに薬を盛ろうとしたんだ。少量でも粘膜に触れればたちまち効果を現す劇薬を。それをアンタの婚約者が庇った。北翼の奴らは、正直誰にそれが行き渡っても問題ないと思ってるから失敗ってわけじゃない……むしろ成功したんだけどさ」
「劇薬って?」
「端的に言うと身体強化ポーション……の、亜種だな。肉体や攻撃力を強化し、人間誰しもが持ちうる衝動を引き出した上で正気を失わせる薬。対象を“狂戦士”化させるって言ったらわかりやすいか? 有事の戦乱に合わせて開発した最新の薬なんだ」
ちゃぷ、とアーチの右手の中で青い液体が揺らめく。
「これはその解毒薬。といっても北翼の奴らが使った薬も、この解毒薬も完成品じゃない。これを使っても完全に劇薬の効果を断ち切れるわけじゃないんだ。暫くは平常通りになるが、いつまたスイッチが入るかはわからない。……けど、このままだと死ぬまで見境無く人を殺し続けるぞ。運が良ければ、これを使わずとも薬の効果が切れて平常通りになるかもしれないが、元に戻るってことはないだろうな」
「……なんて事を。悪魔だな」
「オレもそう思うよ、でもそれが戦争さ。オレだって今北翼の奴らに首を切られるギリギリのことをしてる」
そんな新薬の話は聞いたことがない……があってもおかしくはない代物だ。
戦争は人の感性を狂わせる。倫理性や道徳性なんてのもまた然りだ。きっとこの騒動も私が知らないだけで、前回も起きていたのだろう。
「(不運にも“狂戦士”化してしまった騎士がこの後どうなるか……)」
秘密裏に処分される?
それとも戦場で“有効活用”される?
いずれにせよ明るい未来が待っているわけがない。
ぐずぐすしていた脳が、不意にすうっと熱を失った。
「さあ、可哀想な侯爵家のお嬢さん。アンタは愛しの婚約者様のために、悪魔に魂を売れるか?」
青ざめたアーチの問いかけに、私が躊躇うことはなかった。
祝 第100話!!!
ここまで長い間お付き合いいただきありがとうございます!!沢山の方に読んでいただけて本当に嬉しいです!!
この祝いの折に内容が大変重苦しいものとなってしまい申し訳ないです……。もう暫くお付き合いいただけますと幸いです……!!