第8話 「雨と死」
その日は一年と少し前のある日と同じくらい、人々が忙しなく行動していた。
冬も深まり、屋敷の外は雨が土砂降りで。
彼らの心中を表しているような暗く、寒々しい景色であった。
屋敷の中も湿気のせいか、暗い雰囲気のせいかどんよりとして空気が漂う。
屋敷の奥には部屋の広さからは考えられないほど、異様な白衣の集団が存在した。
白衣の集団は10数人ごとに交代しながら、ある一人の人物に魔法をかけている。
魔法をかけられているのは金髪の美女。ナターリエだった。
その傍にはアルコル家当主アルフェッカが祈るように手を握り、励ましの言葉をかけている。
しかしナターリエには、その言葉が届いているかも怪しかった。
隣には赤子が入ったベッドがあり、赤子は場違いなほど元気に泣きわめいている。
対照的にナターリエにはほとんど反応がない。
あまりにもその面貌は青白く、健康を害していることが一目で理解できた。
「ナターリエ! よく頑張ったね! 私たちの子は元気に泣いているよ! アルデバランは間違いなく健康体だって!」
アルフェッカの空元気とは裏腹に、重苦しい雰囲気は濃くなる。
それを振り払うように懸命にこの貴公子は、言葉虚しくも叫び続ける。
「ナターリエ! 君の体力が戻ったら家族で出かけよう! 最近はアルタイルの調子もよくなってきたんだ! 今日は調子が悪いみたいだけど……すぐ元気になるって! ……だから」
一瞬アルフェッカは口を噤み、泣きそうな表情をする。
アルタイルの乳母は今にも泣きそうな顔をこらえているのか、顔をクシャリと歪めてその様子を見守っている。
「……ナターリエ! 君と出会った場所に行くなんてどうだい!? アルタイルとアルデバランに紹介するのは恥ずかしいかもしれないけど、いい場所だろう! 花が咲いていて……とても綺麗で……それで……!」
アルファルドと老婦人、そしてアルフェッカによく似た、だがかなり年若い男が連れ立って部 屋の中に静かに入ってくる。
誰もが深々と一瞬礼をするが、アルファルドはそれを無言で手で制し。
ある程度アルフェッカたちに近づくと立ち止まり、壁際で立つばかりであった。
アルフェッカはそれに気づかないのだろう。
妻に懸命に声をかけ続けている。
するとナターリエの手がわずかに動き、金髪の青年貴族の手を握る。
彼はそれに気づくと嬉しそうに手を握り返す。
「……ナターリエ!」
「あなた……この子たちをお願いね」
「……そんなのあたりまえじゃないか! 二人で育て上げるんだ! 立派に! 何を習わせようか!?」
「この子は……アルデバランは母の顔を知らずに育つ」
ナターリエの言葉にアルフェッカは言葉に詰まり、喉に息が詰まった音がした。
彼女の言葉を否定するべく、反論しようとする。
「何をっ…「アルタイルは……明日生きられるかわからない、病んだ体を抱えて生きていく」
ナターリエはアルフェッカの言葉を遮るように語り続ける。
いや。もう彼女の耳は、もはや何も聞こえていないのだろう。
薄々彼もそれをわかっているのだ。
だから妻の出した声を一字一句聞き漏らすまいと、彼女の話に黙って耳を傾ける。
本当は愛する女性と言葉を交わしたいのであろう。
だが現実は非情であった。
「碌に母の愛も知らずに育つなんて惨すぎる。この子たちが大きくなって、言葉を覚えて、学校に通って、成人して、結婚して、孫が生まれて、辛いときに悲しいときに傍にいてあげられないなんて……」
希望に満ちた将来を予感し、絶望に満ちた現実を呪う。
彼女は自らの身体を理解していたからであろう。
子を想う気持ちだけが募っていた。
「もっと生きていたい……」
彼女は年若く、心残りばかり。
必死に命を繋ごうとするも、現実は非情であった。
「まだ死にたくない……死ねない……」
ナターリエのアルフェッカの手を握る力は強くなる。
それは命の蝋燭が消える前の、最後の瞬きであったのだろう。
「あなただけにそれを背負わせてしまうなんて」
アルフェッカは言葉を紡げず、ただただ涙ぐむ。
死に瀕する女性の手を掴む力だけが強まっていく。
「あなた、ごめんなさい」
ナターリエの手の力は程なくしてなくなった。
アルフェッカは信じられないように冷たい彼女の手を握り。
顔に手を添え、体を揺らす。
誰もそれを止めようとしない。
アルファルドすら声を掛けようともしなかった。
「…………」
白衣の老人の眼は絶望的な色に染まり、魔法をかけていた白衣の集団に緩慢とした手ぶりで合図をした。
緑の発光は止み、部屋は一気に暗くなってゆく。
白髪頭の医師は断腸の思いからか振り絞るような声を出し、白頭巾を片手に頭を深々と下げた。
それにつられて白衣の集団も首を揃えて、言外に謝罪の意を述べた。
誰かの泣き声が静かに木霊する。
アルフェッカは英明な頭脳を持つ男だ。
どんなことがあろうと取り乱し、その理性を失うことなどそれまでそうなかった。
だから彼は妻の体に顔を埋め、声もなく身を震わせた。
その日俺は久しぶりに高熱に魘され、俺はベッドから動くことができなかった。
こんな時は養生するしかない。
だが母上が出産している時に、何の声もかけられなかったのはもどかしかった。
昨日からずっと産気づいているが、なかなか生まれないらしい。
全然縁がない事だったから詳しくないけど、かなり大変なことじゃないのか?
母上体が弱いし……
サルビアに聞いてみるか。
「サルビア? 母上は今どうなの?」
「……何も心配することはございませんよ。坊ちゃまは早く寝て風邪を治しましょうね」
うーんわからん……サルビア無表情なんだもんな。
一年以上は一緒にいるが、顔にわかりやすく表情がのっているところをあまり見たことがない。
仕方ないか……サルビアに本を読んでもらって暇をつぶそう。
今後の布石にもなるしな。
「なら本を読んで! 魔法の本! 魔法で母上の体を治してあげるから!」
「坊ちゃまはお利口さんですね。でも今日は早く寝ましょうね。寝ないと大きくなれませんよ」
サルビアは薄く微笑んで俺の頭を撫でる。
あ~クールな子がたまに笑うと威力高いんじゃ~~~寝る寝る~~~~
「――――――――――!」
突然扉が開かれる。
ノックもしないなんて誰が来たのだろうと寝ぼけた頭で考えていたが、すぐにわかった。
父上だ。だが……
「…………父上?」
父上は異様な雰囲気で、まるで幽鬼のように不気味にふらつきながら俺に近づいてくる。
何かよくない気配を感じる。
「ナターリエが」
父上は血を吐くように言葉をだす。
俺はその言葉に続く何か恐ろしい言葉を、その時点で薄々幻視していた。
「ナターリエが死んだ」
嫌な予感がしていたがそれは当たっていた。
俺は突然の話に理解が及ばなかった。
サルビアも信じられないからか、目を見開いている。
しかし俺たちの反応を予測していたのだろう。
父上は残酷にその先を続けた。
「もう会えないんだ」
わかったからやめてくれ。
「会いたくてもどうやっても会えないんだ」
聞きたくない。胸が痛いんだ。
「もう会えないんだよっっっ!!!!!!!!!!!」
しばらく間をおいて、自分に言い聞かせるように静かな声で語る。
その目は虚ろで焦点が合っていない。
「アルタイル……お前は私を置いていかないでくれ。なんでもするから……だから……」
父上の声はもはや言葉になっていない。
譫言のようにぶつぶつと呟く。
俺は何も言葉を出せなかった。
どうしたらいいのかわからなかった。
サルビアのくぐもった嗚咽だけが部屋に鳴り響く。
俺が声が出なかったのは、父上のように現実を認めたくなかったからかもしれない。
外を見るとさっきより強く雨が降っていた。
葬儀は翌日執り行われた。
その日のことはよく覚えていない。
思い出したくもなかった。
でもその日も雨は止まなかったことだけは覚えている。
何故もっと母上とよく話をしなかったのかという後悔が、冬の間しばらく俺を苛んでいた。