第61話 「狂気の神」
意識は空に浮かび、体は地に囚われず揺蕩う。
俺の瞳には闇と光の混沌が映り、生命が誕生する前の原始の時代と邂逅していた。
プラネタリウムや夜空では到底表現できない満天の星々が、近くで遠くで輝いて。
宝石を閉じ込めた箱の中にいるような錯覚を覚えさせる。
色取り取りの星々は幽玄な空間を彩り、まるで天球儀の中にいるみたいだ。
頭上と足元。
俺の体をすべての方向から取り囲む星雲の神秘的な揺らめきは、壮大かつ深遠な筆舌に尽くしがたい絶景であった。
人のみでは計り知れないどこまでも続く銀河は、有限性が存在しないような錯覚を覚えさせる。
膨張し続けるという宇宙の果ては、人間の思考すら引き離し続ける。
この景色の前ではどれほどの人間が、無限の概念を否定できるのだろうか。
言葉に尽くせないほどの美しさへの審美とは、どう評するのが適当なのだろうか。
人間の無尽蔵の探求心をくすぐるこの分野は、理解不能だからこそ虜となるのだろうか。
雄大な情景は、いつの間にか俺の恐怖や不安を吹き飛ばしていた。
宇宙の魅力に憑りつかれた人間を、今後俺は否定できないだろう。
それほどまでにそれは神々しく美しかったのだ。
そんな時、宇宙は割れた。
『――――――――――おまえ』
突如降臨したのは宇宙のような深く、吸い込まれるような暗くも燦爛と光る髪。
星々の煌めきのような輝きを湛える、玲瓏たる瞳。
生まれたばかりの星のような、煌々と無限の成長の可能性に満ち溢れた肢体。
服にピタリと密着した透き通る薄いドレス。
これがその総身の眩い美しさを余すことなく引き立てている。
この世全ての美をすべて集めてもなお比類ない、残酷なまでの美貌がそこにあった。
『あのゴミの道具。ふぅん…………ずいぶんとまぁ……悪趣味ね』
あらゆるものを超越した密度を持った存在だと、一瞬で理解できた。
この少女は、俺の魂が悲鳴を上げるほど綺麗で。
その美声は聞くだけで、俺という存在を消し飛ばす重圧を伴っていた。
絶対に逆らえない。
逆らえば死、あるのみ。
本能でも理性でもそれが理解できた。
俺という存在の根源的な部分から、この少女に抵抗することなど考えることすら馬鹿らしいと悟る。
『あのカスの道具をするなら、私の道具になりなさい。ありがたく思うのよ?おまえは本来ゴミ同然に都合よく捨てられていたのだから」
少女は光り輝く目を細めて、こちらを睥睨する。
彼女が不快だと感じたなら、視線だけで惨たらしく殺せるだろう。
俺は何でもすると、だから見逃してほしいと肯定の念を送り続ける。
体感的に数秒ほど、少女は口を噤んでいたが。
そのどんな芸術も霞む麗しき紅唇を、気だるげに開いた。
『おまえ。あのカスに唆されているんでしょう? どんな甘言に乗せられたのか、知らないけれど……』
背筋が凍る残酷な笑みを浮かべて少女は囁いた。
その微かな音は、俺の鼓膜から脳へとダイレクトに直撃し。
脳から痛いほど発令された、生存本能が警鐘を鳴らす。
『逆らえば殺す。覚えておきなさい。おまえの命は、わたしが握っていることを理解しなさい。おまえはこれから、わたしの意のままに動くのよ』
俺は無我夢中で肯定する。
そうします。
絶対にそうします。
だから命だけは助けてください。
何でもやりますから、どうか魂だけは壊さないでください。
プライドを捨てて縋りつく俺に、彼女は満足そうにする。
恐怖心を持ってもなお心を奪いさる、ゾッとする微笑みを美麗な顔に乗せて。
『この会話は誰にも聞こえないわ。わたしの権能でね。何が起きたのかあらゆる存在が知ることすらできない。あいつに助けなんか求めないことね。魔道具を捨てたら殺す。体から外して同じ場所に置き続けたら殺す。当然魔導具に魔法を掛けたり、破壊しようとしても殺すわ。下手な真似はしないことね?』
俺は感涙に咽び泣きながら、感謝と隷従の意を表する。
これは身の程にそぐわない慈悲を頂いたのだ。
この少女の気まぐれで、俺は奇跡的に助かったのだ。
『わたしに服従しなさい。それがおまえの幸せなのよ』
恐れつつも、俺の視線を惹きつけてやまない絶世の美少女。
肩下で切り揃えられた艶めいた黒髪を靡かせ、俺に手を差し伸べて命ずる。
『チッ…………巫覡を見つけるまで長い長い時間がかかった。そう簡単には捨てないから、わたしのためにその身を尽くしなさい。わたしはしばらくは力を貯めなければならないわ。今あったことは辻褄が合うように改竄しておく。おまえはあの神を僭称するカスの目論見通りに動きなさい。いいわね』
少女は不快そうに舌打ちすると、矢継ぎ早に言葉を投げつける。
俺は伏し拝んで全面肯定する。
すると彼女は俺に手をかざし、黒い布を出現させた。
それはたちまち俺の首に纏わりつき、見えなくなった。
少女は体を翻すと段々と透けていき、姿を消した。
俺は命を長らえたことに安堵するが、これからの事を思うと暗澹たる思いだ。
あのお方のために動くことで、俺はいったいどうなってしまうのか。
おそらくトート様のことを言っていたのだろうが、あのお方とは不倶戴天の敵である様子だ。
これから板挟みとなる俺は、俺はどう立ち回ればよいのか。
宇宙が目まぐるしく回転し、白い光と黒い闇が混じり合って俺を飲み込んでゆく。
ゆっくりとだが少しずつ俺の意識は溶けていった。




