第205話 「小さな勇気」
「―――――――――っ」
自分が危篤状態だったというのに、俺を慈しむ彼女。
とうとう涙腺を完全に堪えきれなくなる。
滝のように流れゆく涙。
肩を掴んでいた彼女の胸に、顔を押し付けて温もりを確かめる。
胸の鼓動が確かに聞こえる。
生きている。
ステラも目尻に涙を浮かべ、そっと雫が顎へ、そして顎に伝った。
彼女の肩を掴んでいた俺の白い掌に、それが流れ落ちた感触がした。
「ごめんね。心配かけちゃった」
「当り前だろっ!? お前、なんで俺を庇って……!」
「……………」
顔を上げた俺は半ば怒りながら、ステラの発言を否定する。
彼女の顔を見れば、表情をなくして答えないまま沈黙している。
わからない。
乳姉弟であるこの女の子はいったい、何を考えているのだろう。
思えばこいつと、真剣な話をしたことはほとんどない。
あったとするなら感情に任せたモノ。
まだ幼いコイツはそれを制御しながら、淡々と胸中を明かすという事はなかった。
ステラは俺をじっと見つめると、静かに語り始めた。
それは言い訳でなく、他愛もない雑談でもなく。
己の父親に関すること。
滅多にないステラの真面目な言葉。
それに吸い込まれるかのように怒りの念は収まり、彼女の話に聞き入っていた。
「……………わたし、お父さんの顔もわからない。小さい頃に死んじゃったってお母さんから聞いた」
「……ヘンリーケが言ってたけど」
「戦争で。私が生まれてすぐ行ったっきり、帰ってこなかったんだって」
乳母から聞いたことがある。
もう一人の母ともいえる、あの女性。
自らの息子、ステラの兄が死んでも、気丈に仕事をしている。
しかし俺が毒を受けてから、死にかける姿を見ながら、泣きながら祈っていたと父上に聞かされた。
神々だけではない。
ステラの父と兄。その名にも。
「お父さんが帰ってこないから、そのことがショックでお母さんは流産しちゃったんだって。だから命日には、お父さんと一緒のお墓にお祈りしてる」
この話を聞いても、俺は驚かない。
今まで何百回と聞かされたからだ。
アルコル軍の兵士たちから。領民から。
悲しみ、怒り、嘆き、恨み、憎しみ。
それらと共に、俺は何度も聞かされた。
家族、友人、恋人、親しき者の死。
「だからアルデバラン様におっぱいを、お母さんはあげられたんだけどね。だからお母さんは本当の子どもみたいに、アル様たちを可愛がってる…………ステラの弟か妹の代わりに」
今もここに、いたかもしれない命。
俺か、それともアルデバランたちの専属メイド、あるいは執事なんかに。
そんなことを考えれば考える程、やるせない。
幼過ぎる魂は、この世に生まれることもできずに奪われた。
死んだ子の年を数えることの虚しさ。
そのどうしようもなさに切なくなり、そしてやってしまう事に苦しくなるほど共感できた。
「お兄ちゃんが生きていた頃、アル様と一緒にたくさん遊んでもらったね。そのことを夢に見たの。さっきまで」
「…………そうか」
彼の兄はこいつに似て、快活で気のいい奴だった。
まだ少年と言っても、差し支えない年齢だった。
まだ新兵だった。
まだ死んでいい奴じゃ、決してなかった。
だがトロル戦で無残にもその命を落とした。
彼の遺体は損壊が酷く、見るに堪えない有様だった。
もしかすると魔物たちに弄ばれながら、殺されたのかもしれない。
「きっとお兄ちゃんもステラと同じで、アル様たちを弟みたいに思っていたんだろうなぁ」
それを直視したステラとヘンリーケ親子は、見ていられない泣き様だった。
悲惨な証が残った、しかしその顔を見れば彼らの彼女だと判別できる、苦悶に満ちた死に顔。
それが尚更、悲嘆を増長させたのだろう。
あの金切り声のような号哭は忘れられない。
絶対に俺は忘れてはいけない過去。
忘れられない現実。
「わたし、初めて戦争に来たけど、無我夢中で戦ってたけど……わかったの」
自らの小さな手のひらを見つめながら、徐々に形を変えさせた。
それを握りしめて拳にして、しみじみと語る。
「わたし、きっとお兄ちゃんが死んじゃって、悔しかった。このままじゃいけないと思った」
ステラ自身に問いかけるように、
彼女は過去の出来事から、生まれた想いを語りだす。
俺も思い起こす。
楽しかっただけだった、あの頃を。
辛いことを知らなかった、幼き自分を。
「だけど……わたし何をしたらいいか、わかんなかった。だからアル様が師匠と御稽古していた時に、ピンと来たの! わたしも戦おうって!」
「みんなビックリしてたっけな。お前が本気だってわかった時には、ヘンリーケもマジで怒り出したっけ」
雷が落ちて、拳骨を頭に何回落とされても。
ステラは頑固に訓練に邁進し、決してくじけなかった。
こいつはめげなかった。
師匠であるダーヴィトの課した厳しい修行にも、根を挙げなかったし。
怪我を何回しても、辛くて泣いても、訓練に着いて行った。
沈んでいた感情が、あの思い出を思い出すとだんだんと沸き立ってくる。
病に蝕まれた俺も、愚直に努力を続けるお前に勇気を貰ったんだ。
あの頃は本当に苦しかったんだ。
二度と同じ目に遭いたくない、終わりの見えない病魔の苦痛の中で。
前世から痛みに慣れていた俺も、気が滅入ることも度々あったから。
「お母さんは止めたけど……わたし、決めてた―――――――――」
その理由は単純明快。
俺たちのことを、その手で守りたかったのだ。
二度と自分の力の及ばないところで、大切な者が失われたくないと。
尊き想い。
恨みでもなく自暴自棄でもない、大切なものを守りたいという純な願い。
「―――――――――ステラ、勇者になりたい。昔からずっと、憧れてた」
「ステラ……」
辛いのは、家族だけじゃない。仲間だけじゃない。
この世界には多くの悲劇がある。
だからこそ誰もが願ったこと。
狂おしいほどに希っても、今までの歴史で果たせなかったこと。
魔王の打倒。
その道標となる偉業。
英雄として、俺は成し遂げていたのだ。
この体にこそ、万民の希望は集まっている。
「わたし、お兄ちゃんも弟か妹もお父さんも、大切な人をもう死なせたくない。わたしが絶対に守るの! だから勇者になる」
トロルは魔将ではない。
バジリスクすら魔将ではない。
それでも俺という幻想に、民衆は縋る。
魔将を打倒した、幼き少年。
将来の勇者として。
勝てなければ、誰も希望がなければ、生きてはいけない。
悲しみに思考は押し潰され、絶望は体を起こす気力を鈍らせる。
「俺は―――――――――」
そんな誰かの涙を止めるべく、俺は英雄として在り続けるんだ。
死ぬまできっと、誰もがそう思い込むのだ。
おとぎ話の勇者は、一体どんな気持ちだったのだろうか。
本の中の登場人物は答えてくれない。
でもどんなに高潔でも、人格者でも、勇敢でも。
人間なら怖かったと思うし、苦しかったと思う。
皆、辛いんだ。
皆、嫌なんだ。
「ステラ」
「なぁに?」
月明かりに可愛らしい容貌が照らされるステラ。
その顔は、瞳は月光を反射し、柔らかく煌めく。
紫がかかったピンク色の髪は腰まで届く長さで、ベットに流れ落ちている。
失いたくないと思った。
もう二度とこんな思いをしたくないと思った。
心の底から、守りたいと思ったんだ。
「俺…………俺――――――――――!」
小さな勇気。
小さな誓い。
小さな約束。
まだちっぽけなものでしかない。
でも眼前の愛する家族に向けて、宣言した。
その小さな姿を見据えて、守ろうと誓った。
彼女はそっと微笑んだ。
俺を祝福して。
自らも揺るがぬ決意を、柔らかく細められた目に秘めて。
「俺、英雄になりたい。みんなを守れる本当の英雄に」
「きっとなれるよ。ステラも勇者になって、アル様を助けてあげる!」




