第203話 「託された希望」
死の間際における衝撃の捨て台詞。
蛇は完全に沈黙した。
しかし混乱の極致にあった俺は、しばらく四肢を地面に縛り付けられたように動けなかった。
それを周りの兵たちは訝し気にしていたようだが、警戒活動に忙しいからか、疲れ切った小さな英雄へと気を使ったからか。
俺に声をかけることはなかった。
「――――――――バジリスク……死亡確認……! 我々の勝利だっっっっっ!!!!!」
「「「「「「「「「「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっ!!!!!!!!!!」」」」」」」」」
絶望の淵にあった俺は、意識が再起動する。
ダーヴィトやアルビレオ叔父上たちが再び声を上げたことに、気づいたからだ。
よろめくように立ち上がると喜び合う兵士たちの合間をすり抜け、一人ある方向へと向かう。
重体であった者たちは救命したとはいえ、取り残してしまっただろう負傷者たちの治療に赴かねばならない。
まだ続々と運び込まれているかもしれないのだから。
バジリスクを中心とした兵士たちの集団から、逃げ出すように遠ざかる。
素直に喜びきれない俺がいても邪魔だろうし、何か気を紛らわさねば気が狂いそうだった。
「…………ぁあ……もう……疲れた。疲れたんだ………………っ!?」
ぶつぶつと呟きつつ先ほどの一件から、自己催眠するように意識を逸らす。
負傷兵たちの下へと、無意識的に走っていた。
すると眼前には、それらの狼狽と煩悶すら吹き飛ばす光景が広がっていた。
四肢欠損していない者が見当たらないくらい。死屍累々のありさま。
肉と石の間が痛々しく鬱血している。
血の送り先をなくした血管から、今も血が体内で噴出しているのだろう。
「………………は? これ……まだ全然……重傷の奴が残ってるじゃねぇかよっ!?!?!?!?!?」
治療が完了したという報告を受けるが、まだ治療していない一団が残っている。
ほとんど放置されているといっても、過言ではない兵士たち。
どう見ても彼らは重体だ。
割合も更に、意識不明者の方が多いくらいだ。
なぜ最優先で俺に言わなかったのかと、手近にいる兵士に激しく問い詰める。
「お前ら!!! なんで俺にすぐ知らせなかっ―――――!?」
「…………」
唇を固く噛みしめ、俺の叱責を甘んじて受ける騎士。
視線を伏せた彼の目元には涙が浮かび、苦悩と無力感などの感情が垣間見えた。
なぜ報告しなかった?
なぜ優先的に運んでこなかった。
数多の戦友が今も死にかけているというのに。
しかしながら、『死にかけてというのに』。
その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、俺はすぐ思い至った。
トリアージ。
命の選別。
治療して助かる命と、助からない命をより分け、多数の命を救うためにする行為。
「――――――――くっっっそぉぉぉぉぉ!!!!!」
ここにいる救護兵たちが俺に診せようとしなかったのは、もう間に合わないと悟っていたから。
悔しさと共に、躓きながら駆け出す。
己の至らなさに、深く恥いる。
悔しさに震える部下に、八つ当たりをした自分に。
命を救えなかった自分に。
バジリスクに後れを取った、弱い自分に。
「…………………」
「……………ぅ……」
「『Medicus curat, natura sanat.』!!! 『Medicus curat, natura sanat.』!!!『Medicus curat, natura sanat.』!!!」
どこを見ても死屍累々。
片っ端から回復魔法を乱射するも、有意な反応は見えない。
横たわる兵たちは先ほどまでに、俺の記憶へ鮮烈に刻まれた顔によく似ていた。
いや違う。
俺を護るために特攻した兵士たち、その顔そのものだった。
そうだ。今更なんだ。
もうここまで時間が経って、そもそも最初から回復は見込めなかったのだから。
すべてがもう、遅かったのだ。
「こんな…………!? なんで守ってっ!!! なんで俺のためにっっっ!?!?!?」
「――――――――あなたが……希望だから……です……」
どこかから聞いたことがある男の声。
しかしか細く今にも途切れそうな音に、俺は振り向く。
俺を庇った兵の一人が倒れている。
ステラがやられてから、特攻した兵の一人だ。
そこに倒れ込むように跪いて、震える声で語り掛ける。
右上半身と、下半身はもう石化しきっていて、あまりに酷過ぎる容体。
切り離せない。
その瞬間、こいつは死ぬだろう。
徐々に回復させたところで手遅れで、体力を失ったこいつは息を吹き返すことはない。
死を看取るしかない。
頭の中がごちゃごちゃで、かけてやるべき言葉が見つからなかった。
「…………希望……って……」
「…………聞いて……ください。アルタイル様…………ゴハッ……!」
青年は懇願しながら、吐血を繰り返す。
俺は涙を堪えながら、何回も頷く。
だがもう既に彼の目は、何も見えていないのだろう。
眼球は虚ろで、俺の顔とは微妙に異なる位置を向いている。
「私の家族は……全員魔物に殺されました。生まれたばかりの子供も、妻たちも……!」
思い出したくもない記憶の追憶をしているのか、涙を流して訴えかける。
その唇はかさついて干からびているようにも見えるのに、それでも体中の水分を使い切るかのように。
多くの感情が入り混じる、悲痛極まる零れ話の数々。
とても口を挟めない。
この土壇場で情けないが、何かを言わなければならないのだとしても声にならない。
悲劇的な人生を送り、死に瀕する彼を救える言葉など、そもそもあるのだろうか?
「だからあなたを守らなければならない。そんな悲劇を止められるあなたを……!」
涙腺が決壊する。
以前俺を庇って死んだ騎士の姿と、コイツの姿が重なる。
そして脳内を駆け巡ったのは、ある予想。
これからも、このような光景を見るのではないか?
猛烈な吐き気と嫌悪感に襲われ、返答は涙声になる。
「…………グスッ…………だ……からって……」
「…………どうか……お泣きにならないでください。こんな復讐鬼が最後に英雄を助けられたなど、望外の誉れにございます」
とめどなく涙が溢れる。
こいつは幸せを掴むべき存在だったのに。
それを捨ててまで、未来を俺へと託したのだ。
「…………お願いです……勝利を…………」
「……え?」
血の泡を吹きながら。
咳き込みながらも、必死に伝えようとしている。
遺言。
自らが守り切った英雄への、最期の言葉を放つ。
力を振り絞り、人生最後の願いを。
「約束……して……くだ…………」
「うん。わかった。わかってるから、もう喋らなくていい」
話すだけで辛いはず。
最後の力を振り絞って、俺に想いを伝えた。
人生を賭けて託した。
もう彼は俺の言葉も聞こえないのかもしれない。
だが触覚はまだ残っているのだろう。
震える手を俺の方へと伸ばした。
それを両手で受け止め、強く握り返した。
そうすると暖かさが失われつつある体温が如実に伝わり、俺の心を更に掻き乱して鬱屈させた。
「人類にぃっ……! 勝利を…………!」
「わかった。わかったから。約束するから…………絶対…………勝つから…………!」
俺が力を込めて彼の左手を握り締める。
安心したのだろうか。
俺の手を握る力が途端に弱まった。
俺の想いが、返事が通じたのだ。
そう思いたい。
安らかに。英雄の言葉を聞いて、安堵して。
そして息を吸い込み、壮絶な表情で腕を掲げた。
「――――――――英雄に栄光あれ!!!!! 人類に希望あれ!!!!! 世界に未来あれ!!!!!」
最後の力を振り絞って、狂おしい想念を世界に残した。
この兵士の拳は、地面に落ちた。
それをスローモーションの中で見送っていく。
ある確信の中で、寂寞の念と後悔が押し寄せていった。
再度、彼の手を取った。
冷たくなった体。
息を引き取った。
名もなき英雄がまた一人、満足したように永い眠りについたのだ。
「…………………グスッ」
「…………クソっ……! いつまで……続くんだよぉ……!?」
「…………こんなの……あんまりだろうがよっ……!? ………もう……嫌だっ……!」
「…………ちくしょう…………ちくしょうっ…………!」
いつの間にか俺たち二人を、囲んでいる兵士たちがいた。
彼らの親しい者たちだろうか。
泣いている。
顔を覆って号泣する者。
魔物たちへと憎しみを新たにする者。
無言ながら、唇を噛みしめ、拳を握り締め、血を流す者。
様々な感情の表現があった。
二度と見たくない光景だった。
こんなにも泣いてるんだ。お前が泣かせたんだよ。
だから起きろ。
こんなところで、負けてるわけにはいかねぇぞ。
生き残った方が勝ちなんだよ。
死んだら……終わりなんだよ……!
「俺は…………俺は……なんで……?」
涙が溢れる。
無力なガキは俯きながら、地面に向けて絶叫した。
雨が降り始めた。
涙と雨粒が混じり合い、地面へと流れ落ちる。
「――――――――勝つって、何なんだよ。こんなに死んで勝ったって。勝つって何なんだよぉぉぉぉ!?!?!?!?!?」
轟く雷雨。
星も見えない。月明かりもない。
先ほどまでは生きていて、確かに話していた者たちの命は、こんなにも容易く奪われた。
あっけない。
命の重さが、こんなにも軽かった。
尊いはずだ。尊いはずなんだ。
なのになんで、人は死ぬ。
命の有無にかかわらず、誰の頭上にも雨は等しく降り続け。
しかし生死という絶対的な断絶が存在していた。
生者と死者の境界は、あまりに薄いものなのかもしれない。




