第176話 「車椅子から」
どれほど感傷に浸っていたことだろう。
俺たちは奇妙な、しかし心地よい雰囲気の中に暫し漂っていた。
時刻を告げる鐘が鳴らされるとともに、全員が我に返る。
時を同じくしてノックの音が聞こえると、サルビアがお茶の交換に来たようだ。
「失礼いたします。お茶の交換に参り………失礼いたしました。お邪魔をしてしまったようで……」
「いえ、そのようなことはございません。お疲れのところ長居してしまい、申し訳ございませんでした。私どもはこの辺で失礼させて頂きます」
「長居などということは、ございません! 体調は既に、なんてことありませんよ!」
部屋内の様子を窺い、空気を察して退出しようとしたサルビア。
俺の専属メイドである彼女を見やると、緑髪の美青年は気遣ったのか。
たおやかな外見を正しながらセギヌス殿は、遠慮がちに辞意を申し出た。
礼儀として、彼の言葉を否定する。
だが、ここらが解散の潮時だろう。
教会も忙しい時分であるので、引き留めるのも忍びない。
「流石は英雄です。しかしご自愛ください。あなたが少しでも心安らかであることを、私たちは願っています」
「お心遣い、誠にありがたく」
俺たちは頭を下げ合い、気遣いあった。
シスターのベラさんも、追従して頭を下げる。
和やかな空気のまま、別れる流れとなった。
「それでは本日はお時間を頂きまして、ありがとうございました。ベラさん。お願いしま…………くっ!?」
「はい。セギヌス様…………セギヌス様? お体が優れないのですか?」
車椅子を押すと、セギヌス殿が痛々しく身を捩って呻いた。
俺は何事かと、少し体を寝台から起こした。
見れば彼は背中に手を当てて、呼吸を乱している。
細身の体を震わせ、気の毒にも必死に痛みを耐えている様子だ。
車椅子を押される衝撃も耐えきれないほどに身悶えするセギヌス殿に、俺は声をかけた。
ある提案のためだ。
セギヌス殿は額に汗を湿らせながら、気丈に空元気の言葉を述べた。
しかし俺には理解できる。
病に長く苦しんでいたこの身には、その上辺だけ取り繕った気遣いの虚勢が。
「…………グッ……あぁ……すみません。気候や時季が悪いと、古傷が痛むのです。今も心休まらないアルタイルの前で、醜態を晒すこと。なにとぞご容赦ください」
「いえ! そんなことはございません! よろしければ私の再生魔法で、お体が少しでもよくなればと思うのですが……」
「そこまでしてもらうのは……今は持ち合わせも、心もとなく……」
「遠慮など申されないでください! 命の恩人であるセギヌス殿のためなら、私は無償であっても労を惜しみません!」
「……それでは申し訳ありませんが、お願いできますでしょうか」
困った表情で、控えめに断りを入れる聖職者の男。
あまり期待はしていないのだろう。
俺がこれを申し出るまで、様々な医者にかかったはずだ。
しかし有意な結果は得られていないのだろうと、彼の現状の姿から推察できる。
だが俺には自信がある。
それを俺は今から証明する。
「…………………」
巨大なる魔法陣が起動し、部屋を燐光が満たす。
回復魔法の副次効果として、大体の身体構造における状態は理解できるのだ。
魔力を腰の背部に集中させ、患部を特定する。
…………脊髄損傷か。
神経を繋げるのは骨が折れるが、過去の治療において何回もやったことだ。
あとはそれを再現するだけ。
「『Redi ad originale』」
初めは困ったように苦笑していたセギヌス殿、
しかし次第にその表情を懐疑、そして驚愕へと忙しなく変えていった。
自覚できたのだろう。
その体に在った違和感が消えていき、下半身に触覚が戻っていく感覚を。
「治療完了です。いかがでしょうか? 確かに完治したはずですが…………」
「………………………」
俺は言葉を書けたが、返答はない。
もしや聞こえなかったと思い再度言い直そうとしたら、目の前の景色が変動した。
セギヌス殿は震える足で一瞬立ち上がるが、よろめいて車椅子から倒れこむ。
ベラさんはそれに、飛びつくように支える。
彼女も信じられないといった顔つきだ。
この美しい長髪の青年は、床を見つめながら呆然としている。
余りの衝撃に、言葉も失っている様子。
突如として彼の目元から、滂沱として涙が溢れた。
「………………私の………足が…………今……動いて……? グッ………!」
常日頃より悠々と落ち着いていた、この司教が感涙にむせび泣く。
ここまで感情を乱した、彼の情態を初めて見た。
それほどまでに信じられない程の、突然の出来事だったのだろう。
よかった。成功したようだ。
これでだめなら、肉体情報改変魔法しかないからな。
オーフェルヴェーク侯爵戦後に、俺の遺伝子異常を治した魔法だ。
でもなんか父上は、この魔法はまだ隠せって言ってるんだよな。
危険が伴う緊急事態以外の場合だとは、言い含められているけど。でも、なんで……?
「…………アルタイル殿…………ありがとうございます…………本当にありがとうございました」
「いえ。これもまた天の配剤でしょう。リハビリも必要となりますが身体構造に問題はないので、恐らくは歩けるようになるはずです。日頃より人のために身を粉にしていた、セギヌス殿が報われる時が来た。それだけの話です」
「いえ………………あなたは誠の英雄です……………あなたこそ神の定める勇者に相応しい………………感謝しても、しきれません…………ですが、こればかりは言わせてください…………本当に、ありがとうございます………!」
「セギヌス様。よかった。よかった……! 本当に良かったです……」
惜しみのない感謝と賛辞に、むず痒くなる。
でも歓喜に打ち震える彼らを見ると、治療できて本当に喜ばしく思う。
涙を流して喜びを表する態度を目前にて確かめると、俺まで目頭が熱くなる。
横を見ると、父上も大泣きしている。
本当にうるさい。
「うぉぉぉぉぉん!!! セギヌス殿!!! 本当に良かった!!! アルタイル!!! 立派になって!!! ナターリエも喜んでいるよ!!! 生きててよかった!!! これ見れてよかった!!! 尊すぎる!!! 尊みいと深し!!!!!」
「はぁ……身内の恥を晒すことになる、こっちの身にもなってくださいよ父上。見苦しいものをお見せしてしまい、申し訳ございませんセギヌス殿」
「ハハハ……いえいえ……ご立派なご子息がいらっしゃり、羨ましい限りで……」
ったく聞いちゃいねぇ……
自分の泣き声で、俺たちの声がシャットアウトされてしまっているようだ。
こうなっては、成す術なし。
やれやれ。始末に負えない親父の無様を、完全無欠のイケメン様が後始末してやるか。
まぁこれも人々を導く、英雄の定めか。
こんなにも称賛されて……こんなんじゃ俺、新時代の救世主になっちまうよ……
仕方ねぇ奴らだ。俺の出番だな!
ならニューエイジ爆誕させて見せるぜ。みんな俺の虜にしてやるよ☆
泣きながらも笑うセギヌス殿。
その顔は苦笑していたが、次第に柔らかく微笑んでいった。
でも満足そうに上機嫌だ。
明るく声も弾み、心の底から喜んでいることが見て取れる。
最初は自分が助かるために取った、回復魔法。
それが役に立つのだと思うと、運命とは不思議なものだ。
でもこうやって幸福感を他人に与えられるなら、取得して一番よかったのかもしれない。
俺を取り巻く環境は、困難の極地と評せるだろう。
しかしこの人たちとなら、乗り越えることができる。
そう心の底から信じられるのであった。