第175話 「過去の痛み 折れない信念 英雄の宣誓」
そんな時に、彼の口が開かれる。
セギヌス殿は微笑みながら、首を横に振った。
俺の言いたいことを、察したのだろう。
きっと彼は今までも、同じことを質問されたのかもしれない。
なけなしの良心が痛んだ。
「しかし私は、獣人を恨んでいません。無辜の獣人も、反乱とその後の鎮圧という名の弾圧により大勢死んだ。幼き頃のリハビリの間より、私より不幸と言える過酷な弾圧を見てきた私は、とても彼らを憎み切れなかった…………」
遠い目で優し気な、しかし儚げな笑みで過去を思い返す聖職者。
彼は今に至るまでの記憶を、思い起こしていたのだろう。
回想される思い出の数々に浸れば、様々な感情があるに違いない。
「当時は我が身を悲観しました。幼き身で動けなくなってしまった体に、絶望することもありました。しかしこんな私を、助けてくれた種族を問わない方々がいた。彼らもその日を生きていくのにも苦労している身でありながら、荒れる私を気遣い助けてくれた…………だから私はそのような恵まれぬ人々を少しでも救えればと、この座についています。少しでも恩返しできればと言うのは、私如きが傲慢な物言いでしたかね」
「いえ。ご立派な志です。私もあなたのように在れれば。そう心から感じます。」
「そんな……アルタイル殿のような尊きお方に、そのように言って頂くほどの者ではございません。ですが嬉しいです……とても……」
セギヌス殿は手の平を見つめながら、自嘲気味に。
だが照れが入り混じりながら答える。
俯いたその美しい面貌に、思わず見惚れた。
顔立ちそのものの造形美ではなく、彼の経験によって形成された表情が。
何にも代えがたい、綺麗なものに見えたから。
その口ぶりから察するだけで、辛い過去が伺える。
才能豊かな彼にも手に負えないような苦い経験は、山のように在ったのだろう。
そうでなければ、こんな言葉は口にしない。
できないはずだ。
「私の力は小さく、手のひらから零れ落ちゆくものばかり。戦乱で人心は荒廃し、多くの悲嘆と絶望が生まれた……私は私のようなことを、誰にも味合わせたくない」
彼は何を見てきたのだろうか。
おそらくは醜悪で、目も背けたくなるような、数々の悲劇があったのだろう。
人格が歪んだとしても、おかしくはない。
そうならなかったこの聖職者は、本当に立派な人物なのだ。
体が不自由な身でその地位に至るには、並大抵の苦労ではなかったはず。
…………心無い差別という侮辱をされることも、多かったはずだ。
「本当に尊敬します。セギヌス殿。誰もがあなたのようにはなれないと、私でも理解できます。とても立派な方であると、心の底から思います」
「いえ。アルタイル殿も幼少のみぎりには、大病で動くことすらままならなかったと、父君よりお聞きしております…………そのせいでアルタイル殿に、広い世界で生きる喜びを教えてあげられなかったと、今でも後悔なさっておられます」
俺を持ち上げることで、謙虚にも自身への賛美を躱す。
だが本心であるのだろう。
侮蔑と嘲笑に慣れていた俺には、悪意ある皮肉には聞こえない。
しかし次第に苦し気な語気に、その美声は変貌していった。
名前を挙げられても沈黙する父上へと、気づかわし気に視線を送るセギヌス殿。
つられて俺も父上を見ると、彼は曇った表情で視線を落としていた。
…………そんなことを相談していたのか……
美しい教会の特使はいったん口火を切ると、迷いつつも言葉を紡ぐ。
未来の予測だ。
そして現在においても、確かに起こっていること。
「私などよりも、誰よりも、あなたは過酷な生を歩んでいる…………どうかお気になさらず。あなたに頼らざるを得ない無力な民たちを、どうかお恨みにならないでください。皆、自分が生きることだけで、精一杯なのです…………」
それは俺の気遣うもの。
辛い境遇にあった彼は、だからこそ人を思いやり労わることができる。
他者の苦しい人生を、想像することができる。
それが俺を憐れむ、痛みと苦しみの先達としての忠告として表れた。
きっと俺は弱者たちに、今後の人生で幾度となく救済を迫られるだろう。
アルタイル・アルコルという英雄の気持ちなど考えず、無垢に純粋に。
「それほど、この世界は残酷なのです」
この世界は残酷だ。
弱い者は、死ぬ。
過酷な歴史が、それを強いるしかないのだ。
今までどれほどの屍が、嘆き悲しみが積みあがってきたのだろう。
だが俺は、それに抗う。
自分の命は大事だ。
そして多くの大切なものができた。
こんなに大切なものがあるのに、それら全部を抱えて逃げられるはずもない。
人類の最前線で、俺たちは生活している。
自分一人で逃げたところで、いつまでも逃げ切れる保証なんてないのだ。
恐らく魔将は、俺が想像できない程に強い。
トロルですらあそこまでの暴威を振るったのだから、魔将であればアルコル領など数日で陥落させられても何らおかしくはないのだ。
だから抗い続ける。
全部、守るために。
「それでも俺は生き抜いて見せます。絶対に俺の大切なものを、何にも傷つけさせない。勝って見せる。この世界で、みんなと生き抜いて見せる――――――――」
セギヌス殿はその目を見開いて、言葉をなくした。
眩しそうに俺を見つめる。
その穏やかな目元は揺れ、震える声で天へと祈る。
目の前にした俺に、情景を抱いているように。
アルタイル・アルコルの姿に何かを映し出しているかのように、恍惚とした何かを漂わせた。
その様子に、思わずゾクリと背筋に冷たいものが昇った。
「――――――――あぁ。我が至高の英雄よ。あなたにルキナ様の祝福が厚きことを。あなたが勝利することを。あなたに救済が訪れることを祈ります」
「ありがとうございます。必ずや人類に勝利を」
決意する。
これは宣誓だ。
この世界で生き抜くため。
みんなを守るための、誓いだ。
「俺は勝ちます。永遠に。絶対に…………破れることのない決意を、ここに誓う――――――――」
その言葉を放った瞬間、誰もが無言で俺を見つめていた。
みな激しく心が打たれたからか、息を飲んで呆然としている。
ベラさんも感涙をポロポロと流しながら、俺に祈りだす。
へへへ。モテてしまってすまん。
ベッドに寝転んでいても凛々しさの極みに位置する俺の前には、流石のセギヌス殿も霞むか。
この清らかな魂から漏れだした言葉は、ひとりでに女性たちを魅了してしまうものなのだな。
父上は、さっきから無言で号泣している。
あまりの感動に、言葉も出ない様子だ。
息子である俺が、空前絶後の名台詞を言ってしまったわけだ。
親心としては子の成長を実感して、熱い感情がこみ上げてしまったろうよ。
これからも俺の活躍から、目を逸らさなくてもいいぜ……
「おお、神よ。この英雄に、厚き加護を与えたまえ。この者の苦しみを取り除き、勝利の栄光を授けたまえ」
手印を結び、祈祷文を唱える。
彼が朗々と諳んじる祝詞は、その美声によって部屋中に響き渡る。
祈りを捧げる父上は嗚咽を噛み殺しながら、深く恭しく拝礼する。
ベラさんも並んで、神への賛美の言葉を小声で暗唱した。
経文を誦する声は、少し涙に湿って揺れている。
だが淀みなく流れる言葉は、彼女の信心深さを感じさせた。
「福音をこの者へ。祝福を与えたまえ。いと高き神の御旨がおこなわれますように。子羊を守護する、信仰の体現者たる英雄へと。神の御業を配したまえ――――――――」




