第170話 「永い眠りに」
視点は王都のアルコル邸へと戻る。
英雄アルタイルが今も寝るベッドを挟み、その父親と医師が談話している。
その横には豪奢な造りの小瓶があり、分厚く頑丈そうな材質が目立っていた。
周りには聖職者と思われる一団が、額に汗を滲ませている。
彼らは回復魔法を、一身に発動していた。
この小さな美少年を助けるため、教会より派遣されたのだろう。
「万策を尽くしました。何とか教会からの支援である薬も間に合い、手遅れとなる前に投与することも叶いました」
診療結果の報告において、この年老いた医師は手を尽くしたと伝える。
だが歯切れが悪く言い淀む。
それは伝えにくい報告事項があるという事。
「しかし…………その……………運命は、神々の手に委ねられております……………申し訳………ございません……」
絞り出すように発した言葉は、神頼み。
悔し気に、彼は深く頭を下げた。
項垂れた父親は反応を返さない。
絶望に染まった顔は、地面ばかり見つめている。
「…………………そう……か………あぁ。わかった……」
「…………………」
振り絞るように、なんとか返答をした。
その様子がよほどに痛ましかったのか、医者は一瞬立派な髭を動かしたが深く黙礼をした。
かける言葉が見つからなかったのであろう。
アルフェッカは瞳孔が開ききった青の双眼を、息子へと向ける。
そして身じろぎ一つせず、ずっとその顔を見つめていた。
愛らしい寝顔。
いつまで寝顔で済むのであろうか。
卑劣なる策謀に堕ちた幼児は、目を覚ます気配はまだなかった。
残酷な静けさが満ちた。
「――――――――――ん…………ぅ………」
この場において、それまで聞こえるはずのなかった鈴の鳴るような高い音。
幻聴か疑ったのか、父親は一瞬首を上げかけた。
しかしすぐに首を横に振って、深く俯いた。
「…………う……ぐ…………『Redi ad originale』……」
蚊の鳴くような声で詠唱されると、巨大な魔法陣がベッドを覆う。
その溢れる燐光が、アルフェッカに確信させた。
待ち望んでいた復活を。
彼は首を緩やかに持ち上げ、唇を震わせながらそれを仰いだ。
膨大な魔力に、精緻な魔法起動。
それは目の前に横たわる幼子しか、ありえない奇跡。
視界がぼやけているのか。
光刺激へ反射から瞼を瞬かせたと思うと、だんだん彼の世界が戻っていったようだ。
視線が外界の存在をしっかりと捉えて、動いている。
しかしまだ朦朧としているからか。
体は起こせない様子だ。
それでも必死の治療が功を奏したのか、呼吸は見違えたように安らいでいる。
「めっっっちゃ痛ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ主に内臓が痛ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
「…………おぉ!?」
「英雄様が起き上がってくださったぞ!!!」
「なんという魔法……あの状態から、一瞬でここまで回復したのか……?」
「神々よ……奇跡に深く感謝いたします……」
苦しげに呻きながらも、ついにアルタイルが起きる。
しかし未だ満身創痍。
ベッドから離れることすら、できない模様だ。
毒のダメージからか内臓が痛み、体の節々が固定されているのかのごとく軋んでいる様子である。
なんとか回復魔法を唱える。
その顔色は劇的によくなったが、脂汗が浮かぶ。
マヒしていた感覚が戻るにつれ疲労感と苦痛が意識され、その身を苛んでいるのか。
まるで彼の赤子時代に戻ったかのように、苦痛に身を悶えていた。
あの経験がなかったら、再生魔法を唱えることすら叶わず死に瀕していたかもしれない。
前世からの苦痛耐性が、皮肉にも功を成したと言えよう。
そして彼がステータスで取得している毒耐性、倒れる間際にはなった回復魔法、間に合った薬。
どれが欠けても今の彼は、ここにいなかっただろう。
彼にとっては、微塵も嬉しくもない経験ではあるが。
喜びが爆発して彼を抱きしめた父を、この美少年は見返した。
可愛らしい寝ぼけまなこを、驚愕に見開く。
「もう起きないかと思ったんだ…….」
柄でもない泣き言を言う、大貴族の家長である男。
声は湿っぽく弱弱しい。
肩が震えながら、それでも力なく微笑む.
「苦しかったよな……今までも苦しかったんだよな…………代わってあげられなくてごめん……弱くてごめん……ごめんなぁ…………」
「……父……上…………」
見慣れたはずの顔が、別人のように感じたのかもしれない。
病み上がりで回らない頭でも、その様子に吃驚しているようだ。
弱り切ったその姿は、普段の余裕ある姿とはかけ離れている。
この男も、ただの一人の人間。
他の誰とも変わりない、親なのだ。
平穏は戻ったことに安堵し、緊張が切れると同時に涙腺も緩んでしまったようだ。
ようやく愁眉を開かれた。
「…………俺は……あの時、血を吐いて……」
「毒を盛られたんだ。目覚めてくれてよかった……! みんな喜ぶよ絶対」
「なんか俺、死地に赴き過ぎじゃね? いつか世間の荒波に飲まれて、頓死しそう」
「よかった~! いつものアルタイルだー!!!」
「どういう意味ですか?????」
手と手を取り合って喜ぶ回復術師たちを眺めながら、ぼそりと恨み言を呟いたこの少女と見紛う程に可愛らしい少年。
その父親の無体ともいえる発言に、激しく戸惑いの言葉を呈していた。
「なんかド失礼なことを言っているけど、それは静寂を嫌ったんだろうな。そうに違いない……それか疲れているんだな。聞き間違いだ。きっと」
「ああ。今はゆっくり休みなさい」
「はい…………」
体調を慮って、アルフェッカは再びの休息を勧める。
永い眠りから覚めたが、この小さな英雄の疲労は溜まっているはず。
父の言葉に従って、アルタイルは目を閉じてそのまま寝た。
その体に再び回復魔法がかけられ、医者たちはその体の状況を魔法陣越しに確かめる。
診断結果がまとまると、アルフェッカへ向けて報告をする。
「診察の結果、快方に向かっております。もう命に別状はないでしょう」
「そうか……よかった…本当に………」
胸をなでおろしたアルフェッカは、顔が綻んでいた。
一方で医師の顔は、硬いままである。
ある報告書を手に取ると、それを見ながら重々しく告げる。
「それと…………ようやく毒物が特定できました。バジリスク。その毒です」
「…………」
その言葉と共に、アルフェッカの雰囲気を鋭いものへと一変させる。
目を細めたこの男は、無言で思考を高速で巡らせているのだろう。
疑問は尽きない。
何故、そのような伝説上の猛毒が。
それが何故、暗殺者の手の元に。
そして何故、アルタイルを狙ったのか。
本来、腕がちぎれて回復魔法を使えること自体が異常。
例えば王国魔道院長の戦いという、尋常でないプレッシャーと苦痛を齎された際での話であるが。
その中で再生魔法が使えるアルタイルは、苦痛耐性が尋常でなく高い。
繊細極まりない肉体を再構成するという再生魔法は、多大なる集中力を要するのだ。
それができるアルタイルは、どんな状況でも魔法が扱えると評するに等しい。
それでもバジリスクという存在の毒は、あり得ない貫通力でそれを打ち破った。
この寝息を立てている少年が、一瞬で昏倒する程の。
「神話のバケモノの毒と、類似しておりました。教会からの支援がなければ、今頃は…………そして薬が到着するまで命脈を保ったのは、アルタイル様の生存本能による、回復魔法の使用としか考えれません。この毒は生半可な耐性などで、防御できるものではない。微量でも体内へ侵入すれば、致死間違いなしの猛毒です。言い訳にしかなりませんが…………」
「いや。よくやってくれた。あなたのおかげだ。息子を助けてくれたこと、心から感謝する。あなたがいたおかげで、今もアルタイルは生きている。本当にありがとう」
アルコル家の家長は、改まって頭を下げて礼を取った。
侯爵という貴族でも最上位近くに位置する存在が、このようなことをすることは早々ない。
王に対してくらいしかありえないその姿勢は、その深い感謝を表していた。
「侯爵様! 頭をお上げください!? 私など、何も……! 医者として悔しい限りですが、本当に碌な治療ができず…………」
「ありがとう。私の一番大切なものを守ってくれて、ありがとう。ありがとう…………」
対抗するように医者は、無言で頭を深々と下げた。
彼は赤子であったアルタイルを、出産時に取り上げた医者だ。
昔にも増して老いさばらえたその姿は、もはや生命力がさほど感じられないくらいに疲弊しているようだ。
皴がより深く刻まれた面貌は、老いでもそうだが疲れによる衰えが顕著となっている。
それもそのはず。今と昔では訳が違う。
人類を守護する英雄を治療するにあたって、白羽の矢が立ったのはこの医者だ。
すでに引退の身であったが、誰もが責任問題を恐れるところを。
アルコル家の脅しともとれる要求により、急遽治療に当たったのが彼である。
国内最高峰の名医として、名を馳せたこの人物をして、非常な困難を伴う施術であったことだろう。
老体にとっては著しいストレスによるダメージが、堪えたのだろう。
英雄を治療するために徹夜し、心労と疲れで顔が青ざめ、ついに倒れるように座りこんでしまった。
アルフェッカはそれを見て、休むように指示する。
若い医師たちに連れられて、彼は退室していった。
「…………すぅ……すぅ……」
「…………」
紆余曲折を経たが、無事英雄はこの世界に留まることができた。
父親の顔をした男は、安らかに寝息を立てる我が子の表情を確認して、安心したように微笑むのであった。




