第166話 「涙の理由」
惨めな存在だと、自らを貶める中で。
しばらくアルコル家現当主は、思い悩んで固まっていた。
そして頭を振り乱して、苦し気に瞠目する。
目の前の認めたくない事実から思考を背けたいからか、自らの目を両手で覆い隠す。
「少しでも舵取りを間違えたら世界を終わらせかねない、アルコル家の立場。まだ終わったことに気づいてないだけ。もう詰んでいることに気づかないだけなのかも…………それを直視するのが、みんなに伝えなくてはいけない時が来てしまうかもしれないことが、私はいつも恐ろしい。そんな世界にお前を……! こんなに小さなお前を、私は引きずり込んで……!!!」
自らの震える両手を見据え、恐怖に染まった声で慟哭する。
誰も見たことのないこの男の弱音に衝撃を受けているのか、此処にいるすべての者たちが呆然と身じろぎすらできない。
「最低だ……! お前には、お前にだけは尊敬されていいような男じゃないんだ。私は……いつも不安で、逃げ出したくて、そんな卑怯な惨めな男なんだ――――――――」
唸りながら頭を抱えて、ベッドに顔を押し付ける。
純白のシーツに手のひらから流れた血、そして涙の痕がシミを作る。
心の中で反芻されるものは、黒い感情だけ。
息子が起きない限り、彼の心は晴れることはない。
自責の念は無限であるかのごとく、飽き足りることはない。
「――――――――もう皆、限界なんだ。情けないことは誰もがわかっているのに、お前に頼らざるを得ないんだ。そんな…………」
例え断罪の言葉を向けられようとも、アルフェッカは自分を許せないだろう。
息子が許そうと、神が許そうと、誰が許そうと、彼は彼自身が最も憎いのだ。
心乱されたアルフェッカは、天を仰いで咆哮する。
瞳孔は収縮を繰り返し、半狂乱の様相である。
今まで目を逸らしていたこと。
失いつつある何よりも大切な存在。
追い込まれたこの男は自責の念を深め、咀嚼しきれない感情を吐露している。
現実から逃げない理性。今まで折れることのなかった強い心。
それが自覚させてしまったのだ。
自らに言い訳をして自己を慰めるために、自分の子供を使ってしまったことを。
「…………………………」
彼の弟であるアルビレオはそれを聞くと息をのみ、茫然とする。
この青年も思い当たる節があったようだ。
兄の言葉を聞いて自らを省みた結果、彼の知性はある結論を導き出してしまった。
それきりアルタイルの叔父である彼は、大した反応を示すことはなかった。
何かが折れてしまったような、惨めな濁りきった目つきで自分の殻に閉じこもってしまった。
「もっと穏やかな世界に、産んであげられれば良かったのに。こんな残酷なことにお前をさらして…………いや……生まれた時からずっと…………ごめん。ごめん……ごめんな…………!」
アルフェッカの目から滂沱として流れゆく水滴が、アルタイルの顔に滴り落ちる。
涙を落とされた顔は、微動だにしない。
とても折り合いをつけることはできない。
我が子に負担を課してきた、あげくの果てにこの結果だ。
気持ちを静めるには、とても耐えがたい苦痛と自責の念があるのだろう。
「弱くて……………ごめん…………いまさらそんなことに気づいた、馬鹿な父親でごめん」
悲痛な声はアルタイルに届かない。
昏睡状態にあるこの少年は生死の境を彷徨い、ようやく死の淵から這い上がろうかとしているところだ。
アルフェッカが許しを請おうと、答えは返ってこない。
己が望む言葉が一文違わずに返ってきたとしても、彼自身が自らを許せないだろう。
己が守護すると誓ったものを、失いつつある無力感。
親として生きるための縁を零れ落としてしまった悲嘆から、心は乱れ滂沱として流れゆく涙。
意味がないと知っていても、精神の均衡を保つために吐き出される懺悔。
「ナターリエに会わせる顔がない。アルタイルに謝る資格がない。自分の汚い性に気づいた今、そんなことができるわけがない」
苦悩に満ちた表情で、頭を何度も振るアルフェッカ。
誰もかける言葉が見つからない。
ヘンリーケは否定するべく首を激しく横に振るが、それは届かない。
アルタイルの乳姉弟であるステラは無言で涙を拭き続け、気丈に嗚咽をこらえている。
涙を拭えど拭えど、嘆き余る。
見るに堪えないと誰もがアルタイルの姿を、まともに見ることができない。
正視できないから、その姿から顔を背けた。
この金髪の幼子をここまで育て上げていたからこそ、耐え難い心理的影響を受ける銀髪のメイド。
憔悴したサルビアは死んだような目で、涙が零れ続けるのを拭き取ろうともしない。
諦めきった絶望の表情で、深く項垂れている。
「この子がもしここで死んでしまったなら、私はもう死んでしまいたい……愛したすべてにした誓いを、何も果たせないまま終わるくらいなら、消えてしまいたい。何もかも未練になる前に…………」
幽鬼のような形相で自棄を起こしかねないほどに、取り乱したこの男。
誰にも見せてはならない狼狽えた姿を、家人に晒してまで。
侯爵家当主としては、不格好に過ぎる姿。
それでも誰も彼もが慮って、触れようとしない。
無様など瑣末なことであると、意思を汲んだからだ。
最後になるかもしれない二人の時間を、邪魔するわけにはいかなかったから。
「お前はもっと苦しいのだろう。応えてくれ……いつも私を困らせる我儘でもいい…………恨み言でもいいから……私を糾弾してくれて、裁いてくれていいから……そうでもなければ、私はきっと二度と笑えない………次に会うとき、会えなかったとき、私はどんな顔をすればいい――――――――――」
アルフェッカは顔を覆うと、寂しげに背中を丸めて縮こまる。
もう大切なものを失うことから、目を背けたいのだと。
この世界の残酷さを二度と、思い知らせられたくないのだと。
誰もが懸命に生きている。
それを無にするようなことがあるのは、人が懸命に自分のことだけを考えているから。
自分の行いが、誰かの涙を生むのだと目に入れない、気に留めないから。
人類の守護者であるアルタイル・アルコルの暗殺劇。
タコが自分の足を食っているような、寸毫の思慮もない破局的行動。
それすら幾度となく歴史に繰り返される、史書に記されたインクの染みとなる愚行の一つに過ぎないのかもしれない。
無情に無思慮に犠牲を省みないのは、人の宿痾なのか。
「誰か…………何でもするから…………誰か…………私の息子を…………助けてくれよ…………」
まとまりなく呂律も回っていない、弱弱しい父親の発した文字列は尻すぼみとなる。
それは途切れ途切れの情けない嗚咽となって、虚空へと消えた。
小さな子供の隣に背中を縮みこめて蹲った男は、ひどく矮小なものに見えた。
命が尽きるその時まで、最も愛する者に寄り添っていたかったから。
その温もりが消えるその時まで、悲しみを忘れていたかったから。
そんな一つの領地の支配者とは思えない姿が、死にゆく子供に縋る在り来たりな父親の姿があった。
「――――――――――笑ってたんだ……アルタイル。私の、愛しい子……少し前までは、確かに……まるで、天使みたいに、笑って……なのに…………なんで…………な…………ん……で……っ――――――――」
この部屋において希望の明かりは潰え、絶望の無明に閉す。
魔王のもたらす暗黒の闇に支配されたような、これは世界のどこにでもある現実。
あまりに見つけることが簡単な、陳腐な悲劇――――――――――