第165話 「子の呪縛 父の慟哭」
革命軍が王国にとっての暴挙を振り撒いていた時と、同じ形をした月の元。
この男は王都に存在する大邸宅の一室に、夜が更けても留まり続けていた。
ベッドの横に座り込み、項垂れるその男。
一国家の中でも巨大なる領地を預かるはずの貴族とは思えない、物寂しく頼りなさげな背中。
その後ろに親族や家人たちが控えているが、その雰囲気に声を出すことを躊躇っている。
それでも熟練のメイド長であるヘンリーケは、心配の声をかける。
彼の子どもたちの乳母であるこの女性の言葉に、ようやくアルコル侯爵家当主は有意な反応を返した。
「当主様……お体に障ります……」
「……あぁ済まない」
彼の目の前には、美しく幼い顔立ちがある。
眠り姫のように蒼白な肌で横たわる、年齢に比しても小さな子供。
愛らしい瓜実顔はあどけない。
その黄金の髪はベットに広げられ、人形のような顔立ちは生気を感じない。
呼吸も弱弱しく、この子供のかつての姿を誰もに想起された。
「…………………」
時代の寵児と世界で称されて尚、一つの幼い生命に過ぎない。
死毒に冒された英雄は、末期的な姿を周囲に晒していた。
尋常でない数の医者たちが、多く行き交う。
彼らは魔法を数十人体制で扱い、魔力切れしたと思しき者は青ざめた姿で同僚に肩を貸されて退出していく。
そこにまた調子の悪そうな白ローブを着た若い回復魔法使いが現れ、新たに魔法を起動する。
悲鳴すらあげられぬ我が子を慮ってか、平然を装おうとぎこちなく表情を取り繕う父親。
その片手に収まるほどの小さな頭を、壊れモノを扱うかのように撫でる。
何の反応も返さない我が子。
その温もりを感じたいからそうしたのに、掻き乱される心。
すぐにその手を放して、握り拳を固くつくった。
「――――――この子は体が弱くて、長くは生きていられないと言われていたんだ」
譫言のように放たれた言葉は、静かな部屋だからこそ響き渡った。
だが誰も返答できなかった。
何と答えればいいか、わからなかったから。
何を言っても、気休めにもならないと理解していたから。
「生まれてくれた時は嬉しかった。初めての子だったから感動もひとしおだ。でも世界はこの子に過酷な宿命を背負わせた。生まれついた時の報告を受けて、私とナターリエは悲しみと絶望に暮れた。アルタイルは余命宣告を受けていたからだ。愛する妻との子供が、そんな目にあってしまった。私は運命を呪った……」
不条理をぽつりと漏らすと、堰を切って遣り切れない感情が流れ出す。
胸が張り裂けそうなほどの、湿っぽい声。
揺れ動く感情に耐えられないから、震える肩。
「それでも生きて、こうして元気になってくれたんだ。私はそれだけでよかった。例え貴族として生きられなくとも、笑顔でいてくれさえすればよかった。しかし運命はそれを許さなかった。神々はアルタイルに、溢れるばかりの才能をお与えになってしまった」
精神の均衡が失われて、後悔の念が噴き出た。
目の中に入れても痛くない、最愛の妻の残した遺児。
愛しい我が子を想う、痛切な親心。
傷心の言葉には病床の家族に向けた、悲嘆という情感が籠っていた。
過去を偲べば否応なく想起される、亡き妻への誓い。
それを裏切る形となってしまった男は、耐え難い無力感に苛まれた。
「ナターリエに守ると誓ったのに。私はこの子に負担ばかり背負わせてしまった。英雄だなんて…………最悪だ」
国家に期待された、軍人として果たしている責務。
それを実感し続けたこの男は、誰よりもこの小さな背中に背負わされた重荷を理解している。
恥を忍ぶこと。その行き着く先が己を責めることだった。
自己嫌悪が流れ出すかのように呟かれた。
「この子には友達がいない。病に蝕まれた体で、他の元気な子供と会わせられなかったからだ。アルデバランとカレンデュラから引き離して育て、ノジシャと早く引き合わせなかったのも…………いつ死ぬかわからないこの子に外の世界を教えて、自分の人生に絶望させたくなかったからだ。いつか死ぬ定めなら残酷なこの子を取り巻く状況を知らないままで。黒い感情を知らず無垢なまま死ぬことが幸福だと思ったからだ」
アルタイルはアルコル領には同い年の男がいないと思いこんでいるが、そんなことはいくら何でもありえない。
病弱なアルタイルと友達にしないようにするべく、アルコル家傘下の郎党たちの子どもは一つ年齢が下だと設定された。
これはアルフェッカの我儘によってである。
それで彼の息子は同年代の子どもたちと親しくなる機会を、身勝手でもある親心によって奪われた。
それを命じたエゴイストは目元から流れゆく雫を交えて、歯を食いしばる。
バキリと嫌な音がすると、口の端から血が流れ出た。
メイド長であり、アルコル家の子どもたちの乳母。
つまり母亡き後のアルタイルを育てた女であるヘンリーケは悲鳴を上げて、ハンカチを添える。
しかし彼は奥歯が砕けてもなお、それでも独白を続けていた。
壊れたオルゴールのように彼の口から奏でられた文字列は、哀愁と憐憫を誘う。
何度も詰まり、抑揚は失われ、不協和音が生じてゆく。
「旦那様!? 血が!?」
「病が治った時は本当に嬉しかった。神々の加護なんて、本当は信じていなかった。いくら祈っても無情な戦場で、戦友は何人も命を散らせていった。我が子の死の運命も同じことなのだと呪いつつも、諦めを振り払うようにあらゆる手立てを講じた。そうしていないと、気がおかしくなりそうだった…………だから、その時ばかりは恥知らずにもそれまでの自分を翻し、無様にも神々に祈りを捧げたんだ。セギヌス殿にはその時から世話になって、何度も話を聞いてもらった。寄付もその時行ったんだ。懐かしい……」
現実から逃げるように、思い出話を語り続ける父。
だんだんと理性と感情の天秤は、塞ぐ一方へと傾いていく。
いつも悠然と構えていた態度は、震えた声からは見る影もなくなっている。
閉塞した、陰鬱とした空気が立ち込める。
誰もの心が凍てつき、深く沈んでいく。
「なのに――――――」
憔悴しながらも力強く、声低く叫ぶ。
下睫毛に涙を湿らせ、自棄を起こすように癇癪を起した。
冷静沈着なアルフェッカらしくない、投げやりな行動。
それが彼の心境を、如実に表していた。
「――――――私がふがいないせいで、無力なせいで、幼い身で戦場に送り込んでしまった。父親の私が!?!?!? 子供がするべきことを何も知らないまま。今のアルデバランやカレンデュラより小さい時にだ。アルタイルは魔法が好きで、それでばかり遊んでいたが、私はそれを止められなかった。アルコル領の次期当主として、戦力を得るには都合がいいと考えてしまった卑怯な人間だからだ……! 自分の心の弱さを、都合のいい正論にすり替えて! 自分の忙しさを言い訳にして! この子から絆を育む時間すら、手前勝手に取り上げて!?!?!?」
親としての責務。
自らはそれを果たしていなかったという、割り切れなさ。
それまでは忙しさや、アルタイルの能天気な性格などから目を逸らしていた事実。
此度の陰謀によって彼の頭脳は自己分析をした結果、その心は著しく掻き混ぜられていた。
「だから人として大切なことを、親の私は何も教えてあげられなかった。先々代のようにはなるまいと、アルコル家の宿業からだけは、私がナターリエを連れて逃げ出したことから、この子は解放したいと、あの時あれほど想っていたの……に…………!」
心に去来するものは。
深淵から響くような、自己嫌悪の怨嗟。
哀しみだけに染められた水滴。
手の甲に悲嘆の雫が垂れる。
震える手の上でそれは持ち主の心を映すかのように、ゆらゆらと揺れ、床へと落ちていく。
絨毯へとその色を濃くする波紋を、次々と広げていく。
「私はアルタイルに何をしてあげられた!!!!! この子の人生をどれだけ捻じ曲げてしまったんだ!!! 英雄などに祭り上げられて! 死と隣り合わせの世界に束縛させて! 何もかも責任を押し付けて!!! 選択肢を奪ったのは私! 私だったんだ!!! ほかの誰でもなくこの私が!?!?!?!?!?」
眠り続ける我が子に向けて、そして自戒するため。
自らの罪を告解する。
その中で彼は気づいたことがあった。
後悔しても遅いこと。
正しくても、犠牲となったもの。
「この子を孤独にしたのは、私だったんだ――――――――――」




