第153話 「暗雲」
その日の空は、暗く分厚い雲に覆われていたことを覚えている。
花の都から発ち、原野や耕地を駆け抜ける。
王都周辺であるから広々と平らな土地を進むので、しばらくは揺れも少ないだろう。
普段なら派閥内の貴族と同行して道中の安全は確保するところだが、なぜかアルコル家に寄り付く貴族はいない。
だからこそ時間をずらして出立することとなった。
ちんたらした速度を合わせることもないので、おかげ様で早く帰れるが。
俺らの後から間をおいて、続々と出ていくらしい。
帰投直前の土壇場での勧めだったが、早く帰りたいから予定を都合してくれて嬉しいね。
譲ってくれたことに、偶には連中もいいことをするではないかと機嫌をよくする。
父上たちは喜ぶどころか難しい顔してたけど、なんでだろうか?
話を戻すが、公爵家たちくらいか。
爵位的に、俺たちより早く出立するのは。
封建社会なので、厳格な席次みたいなものはある。
爵位が上のものが退室するまで、下の者は退室できないみたいな。
とは言っても、いつの時代もそんな空気あるよな。
おれは上の方の階級に生まれてよかったわ。それでも肩が凝って仕方ねーよ。
「いや~だるかったけど終わってみれば、なんてことありませんでしたね! らくしょーらくしょー!」
「そうか。私は疲れたよ。本当に疲れた…………」
目に隈を作りながら、遠い目をする父上。
連日寝る間もない仕事の数々であったらしい。
死神みたいな面をしている。
俺はそんなことを思うと、思わずおかしくなってしまった。
「フフフッ……♪」
「……お前は図太くて何よりだ。私は今回の式がどうなるのかと本当にずっと心底心配していたが、案外うまくやっていけるのかもしれない。繊細過ぎる子だったら大変だと思うし、喜ばしいはずのことなんだが……うーん…………」
父上は何かを考えこみながら、渋い表情で唸り始めた。
なんだよ結果が良ければいいじゃんかよ。
こうなると長いのだ。
俺は暇を持て余して、窓から外を眺める。
「――――――なんだろ……? なんか来てる……あ……行っちゃった……」
「はぁ……休みたい……遊びたい……もうどれだけ働き詰めなんだ私は…………新種の報告に、貴族社交に、官僚や教会への根回しに……………心労も多いし、この当主の仕事もう辞めたい。絶対向いてないし…………でもそうしたらアルタイルが……ナターリエ。私めっちゃ頑張ってるよね? …………帰ったら、溜まった書類を片付けて……アルデバランたちの社交デビューの準備に……キララウス山脈攻略のための作戦と――――――」
耳障りな恨み言をつらつらと愚痴る父上を無視して、外を見続ける。
砂煙が視界の奥で、いくつか見えた。
でもあんまり人影とかが見えないな?
馬とかもギリギリ判別つくだろう距離なのに。
まさか一人であんなに煙出るほど土を踏みしめるなんて、物理的に不可能だろうし……
しかし相当急いでいるのか?
かなり遠くだが、俺たちの横を通り過ぎて行った。
凄いもんだ。鍛え抜かれたアルコル家の馬と御者に、本気じゃないにしても追い抜くなんて。
強化魔法を使ったうちの兵士が、瞬間的にできるくらいじゃないか?
そしてそれらは、そのまま彼方へと消えていった。
俺は窓の淵にもたれかかり、それを観察していた。
何か面白いものでもないものか。
変わり映えのない景色だと、この時までは不満に感じていた。
「……………………っ!?」
いや……違う……!?
程なくして窓の外から、前方で何かが騒いでいる一団が見えた。
馬車が横転し、砂煙が充満している。
それと共に黒煙が、天へと立ち昇っている。
その元に目を向けると、赤々とした光が。
明らかな凶兆。
「―――――父上……父上!!! 外の様子がおかしいです!?!?!?」
「…………どうした? あれは……何か起きたな。 『総員傾注!!! 直ちに戦闘配置に着け!!! 速やかに状況報告をせよ!!!』」
俺が慌てて腕を揺さぶった様子を見るや否や、父上は外の景色を見る。
その目を細めると御者に合図を送り、風魔法が起動される。
アルコル家当主の命令により即座に厳戒体制に移行し、調査のための意思伝達が為される。
そして程なくするとヤンが現れる。
おかしい。
普段のふざけた様子が一切見えない。
こいつがこんな様子を見せたことなんて、そうそうない。
何かあったのだ。
俺は何が起きても精神の安静を保てるように、心構えを新たにする。
「前方のシファー公爵たちが襲われているようだ。そして…………」
「なんだ?」
「――――――敵の姿が判別できない。アルビレオの目で確認もさせた。『新種の魔物』たちのように、影も形も見えない」
珍しくも固い口調で言い淀むヤン。
その報告は、絶大なる衝撃をもたらした。
護衛たちを含めたその場すべての人間の絶句により、馬車が回る音だけがやけに空しく鳴り響く。
不気味な静寂。
心の隅に、泥の如くへばりついた記憶が蘇る。
あってはならないもの。忘れていたかった心の傷跡を刻んだ、忌まわしい存在。
父上は今まで見たことのなかったぐらいに、驚く表情を見せた。
確実に初めて見た表情だ。
母上が死んだ時以来、このような感情を露わにしたところなど見たこともなかった。
俺たちに不安を抱かせないように、当主としての威厳を保つために、気丈に振る舞っていたのだろう。
漠々とした、だが大きな焦燥感が生じる。
そしてそれは恐怖へと変わった。
「――――――――――――!!!!!!!!!」
あまりにも長く感じられた数秒後。
一瞬での変化。
父上は地獄の悪鬼のような憤怒の形相で目を剥いて、何もかも射殺しそうな眼孔を外へと向けた――――――――――