第15話 「魔物、襲来」
馬の嘶きが騒々しい。
屋敷の中を、誰かが駆けまわる音が激しい。
怒声のような話し声が時折俺の耳に入り、愉快ではない。
部屋の外の物々しい様子を見れば、何か異変が起こっていることが容易に理解できる。
それはいつか母が死んだ時を想起させ、何とも言えない不安が押し寄せてくる。
俺の部屋はノックされ、俺が返事を売るとサルビアが入室する。
彼女は無表情だが、いつもより険しい表情をして見えるのは気のせいではないだろう。
そして銀髪のメイドは固い口調で告げる。
普段絶対にない、何かが起きたという確証を。
「坊ちゃま。前当主様がお呼びです」
大広間にはどこかで見たことのある顔ぶれが散見された。
幾度となく参加したパーティで顔を合わせた、アルコル家の郎党だ。
だがその顔つきは祝宴で見たような優雅さは欠片もなく。取り繕うともしない恐怖と不安が支配している。
俺が大広間に到着すると、皆俺に礼をする。
返礼すると何故ここに集まっているのか聞いてみた。
だが誰もが何も知らされず、お爺様より早馬で近隣の郎党の家族たちが呼ばれたようだ。
ここにいるすべての郎党の家の男たちが、父上の軍に参加しているという。
俺はその時当然言わなかった。
言えるはずもなかった。
ここにいる全てのものたちの脳裏を掠めているのだろうが、だれもが言い出そうとしない。
父上たちの身に何かあったのではないかと。
「――――――――!」
「――――――――」
大広間に控える二人の兵士たちが奥様方に詰め寄られ、怒涛の質問を受けている。
だが彼らも何も聞いてないようだ。
家族の身に何かあったのだろうかと思うと、気が気でないのだから。
思いつく限りの疑問を兵士にぶつけている。
それを呆れた目で見る者は少数で。
ほとんどの者が何か一つでも情報が入ればと、聞き耳を立てている。
そんな時、実に重苦しい重低音が地面を伝って俺の耳に届いてくる。
この音だ。
この脳を直接振るわせるかのような音で、誰もを息を詰まらせ。
襟を正し、恐れを持って視線を一点に集中させた。
大広間の2階のドアが開き、中央階段から杖を突く者が出てくる。
後ろにはいつも陰気な面をしている、アルコル家の家宰ザームエルが控えている。
杖を突いて来た者は、杖などいらないような確かな足取りで階段を降り。
段々と大きくなる足音から、自然と俺たち全員の頭は垂れ下がる。
杖を突いて来た老人は階段の踊り場に辿り着くと、厳かに俺たちにその意を表する。
「面を上げよ」
俺たちは恭しく無言で直立する。
今この屋敷で俺に命令することができる唯一の人物アルファルドは、俺たちを見下ろし。
大広間に反響する、腹に響く声で語りだす。
「招集にいち早く参じたこと、大義である。貴様たちをここまで呼びつけた用件を話そう」
雰囲気が一変したことが分かった。
誰もがお爺様の一挙手一投足に集中する。
「先のアルフェッカの命により魔物討伐に参陣した兵の一部が、昨夜この屋敷に到着し。ある情報を儂に知らせた」
猛烈に嫌な予感がした。
背筋を冷たい汗が流れたのがわかった。
それはまるで――――――
「軍の2割近くが壊滅状態にあるとのこと。接触した魔物は『魔将』である可能性が高い。いまだアルフェッカやアルビレオたちは国境付近で孤立しており、救援を待っている」
俺は眩暈がした。
なんだそれは?
心が理解を拒んでいる。
膝の力が抜けそうだが、お爺様の気迫で踏みとどまる。
「死亡が確定した騎士たちの名をこれより告げる。心せよ」
お爺様は未だ事態に追いつけない俺たちを意に介さず、無慈悲とも思える宣告を口にした。
大寒波が突然到来したような、そんな幻覚に襲われる。
「シュミット。メイヤー。ウェバー。ホフマン。リヒター」
お爺様は一枚の書状をザームエルから受け取り、淡々を読み上げていく。
淡々とした苗字の羅列。
この瞬間までは、死者は数でしかなかったというのに。
事実を受け入れた人間は、苦しむしかないのだ。
「ベッカー。シュルーダー。ミュラー。以上」
ある名前が読み上げられた瞬間、誰かが悲鳴のような息を漏らす。
だがそれを咎める者は、お爺様を含めて誰もいなかった。
何事もなかったかのようにお爺様は俺たち全員を見渡し、厳かに書状を閉じる。
「これだけの貴き命が既に失われた。儂が目を掛けた者たちも死んでおる。そして未だ助けを待つ者達がいる。ここにいる我らすべてが共有する一大事だと心得よ」
お爺様が俺たちの表情を、一人一人観察するように視線を動かす。
誰かの泣き声が聞こえ始まると、それに被せるように一段大きくなった声量で宣言する。
「この非常事態を踏まえ儂自ら兵を率い、明朝出陣する。我が孫アルタイルにも後方で戦傷者への治療をさせる」
お爺様は地面に杖を大きく一突きすると、誰もが一瞬押し黙り。
彼の声に耳を傾けることを強制される。
後方とはいえ、俺も戦争に行くことになるのかよ……
事態の中心に巻き込まれていく俺の胸に、不安と恐怖が実感として湧いてくる。
「火急の問題が迫っておる故、死んだ者たちの葬儀は戦いが終わってからとする。話は以上だ。皆、戦の支度をせよ」
そういってお爺様は階段を上り、扉の向こうに消えていった。
扉の閉まる音がすると、何人か糸が切れたように崩れ落ち悲愴な叫びをあげる。
誰もがその痛ましさに言葉を口にすることができず、長く長く残酷な時間が過ぎゆく。
まるでもうお通夜のような空気だ。俺は命じられた重荷に頭を抱えたくなる。
ふと泣き声がする方向を見やると、乳母が泣いていた。
ホフマンという名が挙がっていたが、まさか――――
「なんで!? 私の息子が!? まだ若いのに!!! 死ななければいけないのよぉぉぉぉ!!!!!」
ヘンリーケが蹲って泣いている。
女たちが涙を流しながらヘンリーケの背中をさすり、無言で寄り添っている。
あまりに残酷な結末に誰もが声を掛けられない。
俺も何もできなかった。だってそれは。その男は――――
そう。それはステラの兄だ。
俺も何度もあって、面倒を見てもらったあの快活で一生懸命に職務に励んでいた若者が死んだのだ。
俺は脳がかき混ぜられたような気持になった。
親しい人間が戦争で死んだ。
嘆き悲しむ遺族。
それに何もできない自分。
そんな戦争に自分も参加しなければならない恐怖。
家族の危機。
頭がどうにかなりそうだった。
俺はどうすればいい?
重い頭を抱え、自室に戻ろうとした。
いつもなら一分とかからない自室まで続く廊下が果てしなく長い。
俺は震える体を抱え、よろめきながら歩く。
そうだ。サルビアに会おう。
彼女ならいつも俺を優しく抱きしめて、俺の心を癒してくれる。
ずっと俺を見守ってくれていた女性のいう事を聞いていれば、俺は何も考えなくて済む。
今日はサルビアと寝よう。
何もかも明日からやればいい。
とても疲れた。
そう決めると楽になる。
汗ばむ額に前髪が張り付いて不快なことに気づくと、袖で汗を拭う。
いつの間にか壁に寄りかかっていたようだ。
俺は自室への足取りを再び進めた。
その時――――――
天が墜ちてきた――――――




