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君の隣に  作者: 素元 珪
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留学生の初めての授業

 そんなわけで彰とマトアカルはその時間終了寸前までを保健室で過ごした。

 彼女はもう一度中庭に出たがったが、沢本が許さなかった。保健室の中にも様々なものがあるので彼女はそれについて質問したが、沢本は言葉少なであまり答えようとしなかった。沢本は始終笑顔ではいたが、その目には一種の威圧感があり、マトアカルは次第に無口になった。彼女がそんなに長く口を閉じたままなのを見たのは、これまでになかったのではないだろうか。

 それもあって、彰はその時間の終わりより先に彼女を廊下に連れ出した。保健室が見えなくなった途端、彼女は大きくため息をついてその笑顔から緊張がとれた。

「あきら、多量に感謝を……」

 だがそこで彰は唇に指を当てて見せた。それから手のひらで口を塞いで見せた。それで彼女は静かにするようにとの指示を理解したらしい。彼女が口を閉じると、彰は指を伸ばして周りをぐるっと指さした。学校の中の雰囲気を感じて欲しかったのだ。

 黙っていれば周囲の音が聞こえてくる。沢山の人間が入っているはずなのに驚くほどに静かなこと。それに少数の人間の声と、鉛筆やノートの音。彰は彼女の顔を見た。そこには確かに何かに気づいた表情があった。それは間違いなく彼が期待したものだった。

 彼女はようやく声を潜めた。

「つまり、この場所では会話することは禁じられている、ということで正しいですか?」

「そう。今は授業中だからね」

 それから彼はそっと彼女の前に立つと自分たちの教室の方へ足を進める。もちろん足音を立てないように忍び足で。マトアカルもそれを真似してくれ、すると彼女の方が足音がずっと静かだった。

 彰は教室の並んだ廊下の途中でもう一度立ち止まった。もちろん彼女も立ち止まる。それから彼は一番近くの教室にそっと近寄った。幸いに廊下側の窓が半分開いている。

 彰はそっと覗き込み、振り向いて手真似でマトアカルを呼ぶ。彼女はすぐにそばに来て一緒に中をのぞき込んだ。

 ずらりと並んだ机にぎっしりと座った男女の生徒達。全員が静かなまま、教科書を読んではノートをとる。正面では教師が一人、何かを話しては黒板に板書をしている。それはありふれた授業の風景だった。しかしマトアカルは初めて見るものだろうし、これを見ればおおよそのことはわかるだろう。

 その時、チャイムが鳴り響いた。全員が号令の元に立ち上がって挨拶する。そして教室は騒がしくなった。片づけと次の授業の準備が始まる。

 その変化にマトアカルがとまどっているのがよくわかる。が今はクラスに戻るのが先だ。

「行こう」

「わかります」

 彼女の返事はごく素直なものだった。


 二人が教室に戻ったとき、クラスのあちこちから声がかかった。

「あ、お帰り!」「宇宙美少女!」

 とはいえ全員が好意的なわけではない。困惑の表情で見るもの、出来るだけ見ないようにしているらしいものも。そんな中、二人を認めるなり立ち上がり、決然とやってきた姿があった。もちろんクラス委員の榊原美鈴だ。

 彼女はマトアカルの席に来ると、彼女の目をまっすぐに見た。

「こんにちは。私は榊原美鈴というの」

「さかきばらみすずです。覚えます」

「それで、マトアカルさんと呼んでいいかしら?」

 マトアカルの笑顔には緊張が見える。美鈴の迫力に押されているようだ。だが出てきた声は平静だ。

「マトアカルサンは違う名前です。マトアカルが正しい名前だと判断します」

「わかった。じゃあ、マトアカルと呼ぶわ。私のことは美鈴でいいから」

「それでは、さかきばらみすずのさかきばらが姓で、名前がみすずと判断していいですか?」

 これには榊原が面食らって彰を見る。しかし彰は昨日からのやりとりですぐにわかった。

「そうだよ、それで正しい。榊原が姓で、美鈴が名前」

「わかります」

 マトアカルの方はそれで納得したようだ。美鈴もほっとした様子を見せたが、すぐにその表情が引き締まる。彼女にとってはこれからが本番だ。

「それでマトアカル、私はクラス委員をしているの」

「『くらすいいん』は何かわからないです」

 榊原はすぐさま彰に目線を集める。同時にマトアカルも彼を見る。

 クラスの視線も集まっていた。何しろ美人のクラス委員と宇宙美少女の対決なのだ。

 そんな中彰は困惑していた。学校すら知らない宇宙人に、どうやってクラス委員を説明すればいいんだ?

「クラス委員というのはね、クラスをまとめる仕事をする係で、たとえば挨拶の号令をかけたり、連絡事項を伝えたり」

「???」

 マトアカルはそのどれもが理解不能らしい。明らかにきょとんとした顔になっている。

「あとはだんだんわかってくると思う。とにかく、クラスにいるときは、榊原さんに言われたことはしっかり聞くのが大事なんだ」

 彰はそれだけ言うと向きを変え、美鈴に向かって素早く小声で伝えた。

「彼女の国、学校がないらしいんだ。それを前提に話してやって欲しい」

「え?」

 彼女は驚愕の顔だ。やはり予想外だったのだろう。それを聞いたらしい周囲の何人かも目を丸くしていた。そんな中で榊原は考え込み、でもそれはごく短かった。

「それで聞きたいんだけど、さっきは授業の途中でどうして飛び出していったの?」

 マトアカルははっきりと申し訳なさそうな顔をした。

「美しい花が多量にあり、それを近くで見たいと考えました。授業の終了がチャイムで伝えられることは、それはあの時は知らないでありました。今はあきらに聞き、理解します」

「ごめん、あの時は僕がちゃんと教えてなかったんだ。ごめん」

「ああそう、それなら仕方ないわね」

 榊原はそう言うと、改めてマトアカルをまっすぐに見た。

「授業の始まりと終了の挨拶は、私が合図するの。周りの人に合わせてちょうだい。わかるかしら?」

「わかります」

 彼女の返事は正直なものに聞こえた。榊原も気をよくしたようだ。

「それから、教室からの出入りはあの入り口からよ。窓からじゃないの。それともあなたのところでは窓からも出入りするの?」

 その言葉にマトアカルの表情ははっきり変わった。ひどく恥ずかしそうに、それに慌てたように両手を上に上げて左右に振ったり上下にぱたつかせたり、何とも意味不明な動きに見えた。彼女はそうしながら頭を下げた。

「それは違うのです。サプツルでも入り口と窓は別にあります。窓は出入りに使うことはありません」

「じゃあ、どうして?」

「これはこの部分の固有の性質に依るのです。好奇心が抑えられなくて、そうすると夢中でしてしまうのです」

 これもまたよくわからない言葉だった。榊原にとってもそのようで、眉を寄せ、マトアカルと彰を交互に見ていた。もちろん彰にも何と言っていいのかわからない。

「よくわからないけど、悪いと思ってはいるみたいだから、いいんじゃないかな」

 榊原もそう考えたらしい。

「わかったわ。これからも色々あると思うけど、わからないことなんか気軽に相談してちょうだい」

 だがマトアカルは驚いたように手を振った。

「相談はあきらにすることになっているのです」

 これには彰の方が慌てる。

「違うんだよ。もちろん僕に相談してくれるのはいいんだけど、他の人に相談してはいけないなんて事はないんだ」

「そうですか、わかります」

 榊原もここはひとまず撤退と決めたようだ、

「そう言うことだから、マトアカル、今後もよろしくね」

 そう言うと自分の席に戻っていった。

 程なく次の授業開始のチャイムが鳴った。教師の入室に合わせて榊原の号令が響く。

「起立、礼、着席!」

 全員がそれに合わせて立ち上がり、一礼して座る中、マトアカルも様子を見ながらそれに合わせていた。着席の後、榊原はマトアカルの方に向けて頷いて見せた。

 六限目の授業は世界史だった。

 担当教師は中年男で、少々嫌味な性格で知られていた。彼は前回の授業のまとめから話し始めた。

 彰はマトアカルに教科書を出してやった。

「これが世界史の教科書だから」

「あきら」

 彼女は礼のアイピースを通して教科書を見ていた。

「何だ?」

「この世界史はわかります。世界の歴史です。その次のBは何を指しますか?」

「それは教科の名前だから気にしないで」

 彼女の声は少しは抑えたものだったが、それでも静かな教室にはよく響く。それに言葉を止めた先生は、彼女に目を向けた。

「ああ、君が宇宙人留学生のマトアカルだな。地球の場合、さっきも言ってたんだが、文明の始まりはだいたい五千年前くらいまでさかのぼれるんだ。君の星ではどうなのかな?」

 マトアカルは自分にクラス中の目が集まったのにとまどっているのか、きょろきょろと頭を動かすばかりだ。そこに榊原の声が飛んだ。

「マトアカル、先生に指名されたら、立ちなさい」

 その声に彼女は立ち上がり、机に膝をぶつけそうになった。

「まず横に出て、そこで立つの」

 すぐに次の教育的指導が入り、それで彼女はようやく普通に立った。でも何も言わずに何度も彰の方を見る。

「どうしたんだ?」

「質問が何であるかわからないです。何かを逆流すると聞いたのです」

 どうやら『さかのぼる』だけ聞いたようだ。

「いや、先生が聞いたのは、歴史のことだよ。サプツルの歴史のことを教えて欲しいって」

 彼女の顔に、ようやく納得と安堵が浮かぶが、それでも彰から目を離さない。

「それはあまりに大きい話題なのです。話が多量にあって混乱するのです」

「それはそうだけど、今はただどれくらい時間があったかだけ言ってくれればいいよ。たとえば文字が始まったのは何千年前とか、国が出来たのは何千年前とかさ」

「ああ、それならわかります」

 それから彼女は顔を正面に向けて、普段のよく通る声で答えた。

「サプツルで遺跡に文字が発見されるのは五万年前、国家が最初に形成されたのは四万年前とされるのです」

 クラス中がざわめいた。彰だって驚いた。何しろ地球より進んだ文明なのだ。大きな数字が出るとは予想していた。でもこれだと地球のほぼ十倍じゃないか。

 世界史の先生も驚いたようだ。

「それはすごいな。文明が高いわけだ。そんなところから来て、こんな遅れた文明を見ると、さぞかしみすぼらしいんだろうね」

 それはどこか意地の悪い、棘のある言葉だった。

 彰は身構えた。彼女の答え次第ではクラスの連中や先生が悪い感情を持つかも知れないし、彼女自身の反応も心配だったのだ。

 ところが彼女は驚くほど落ち着いていた。

「時間の長さはこの問題を考える上で尺度にしてはいけないと、サプツルでは学びました。確かにサプツルの方が進んでいる分野は多くありますが、それほど大きな段差は無いと判断されます。ここに来た感覚でも、家の構造など多量に違いますが、水準が異なるとの感覚は持ちません」

 クラスの中がまた違った風にざわめいた。先生の表情もつっかえ棒を外されたような、中途半端なものになっている。

「そ、そんなものなのか?」

 マトアカルは続ける。

「ここに来る時の研修で学びました。サプツルと地球では、宇宙航行技術レベルに於いて三段階の差があります。ですが、地球が今の段階に達するより、サプツルではもっと多くの時間が必要とされました」

 つまり技術の進歩は地球の方が早い、というのだろう。レベルの差はあるが、才能では決して負けていない、ということか。先生もその言葉にずいぶん救われた、というのか、悪感情を緩めてくれたようだ。

「そうなのか。そんな地球の歴史がこれだ。地球の歴史については学んだかな?」

「それはほんのわずかしか学びませんでした」

 彼は教科書を手に取り、持ち上げて見せた。

「歴史には世界の成り立ちやその過程、とにかく大事なことが詰まっているんだ。授業の方はこれまで通りのペースで進めるが、君はこれを最初から読んでみるといいかも知れないね」

「わかります。『読む』は技術的困難のレベルが大きく、時間を多量に必要としますが、努力を注ぐのです」

 また言葉がややこしくなっているが、先生は考えないことにしたようだ。

「まあ、しっかりやってくれ」

 先生はそう言うと授業を再開した。

 だがマトアカルは立ったまま。すると榊原の指示が飛ぶ。

「マトアカル、もう座っていいのよ」

 その声で授業はまた止まるが、それはほんの瞬間のことですぐに流れ出す。彰はマトアカルが席に着いたのを横目に見て、当然のように教科書とノートを広げる。それからもう一度横を見ると、彼女は教科書を広げると熱心に目をページに走らせている。

 これなら授業もやっていけそうだな、と彰が考えたが、その安心は二分も保たなかった。

「あきら」

 彼女が小声で呼びかけてきたのだ。もちろん周りのものは驚いて振り向き、先生も板書の手を止める。彰は腰を上げ小さく頭を下げる。

 それで授業が再開されるが、その間に彰はマトアカルの机のそばにしゃがんでいた。

「何かな?」

「この字は読み方がわからないです」

 ページを見ると、なんとまだ最初のページの数行目。指さされたのは『洞窟』という字だった。

「これは『どうくつ』と読む。岩に出来た穴のことだね」

「岩に出来た穴とは、トンネルのことですか?」

「いや、そうじゃなくて、自然に出来たもの」

 するとマトアカルは首をひねった。

「自然に出来た穴は『洞穴』と言うとの情報があります」

 彰はようやく問題がわかり始めた。

「どちらも似たような意味なんだ。それでいいかな?」

 それでもう一度席に戻ったが、やはり何分もたたずに呼ばれ、それを三度繰り返した時点で彼は授業を受けるのをあきらめた。その代わりに彼はそっと椅子をずらしてマトアカルの席に寄せた。これでひそひそ声のままでやりとりが出来る。授業への迷惑はかからなくなるだろう(と思いたい)。

 もちろん目立つという問題はある。だが役目の上ではやむを得ない。

(仕方ないんだよなあ)

 どうやらサプツルの翻訳機は、未だに漢字や熟語の意味を網羅し切れていないらしいのだ。漢字は読みも色々、意味もその時その時で変わるから扱いづらいのかも知れない。あるいは英語のような世界的な言語が優先で日本語の翻訳機能は後回しになったとか、そういう事情もありそうだ。

 いずれにせよ、彼女の日本語は会話なら何とか意思疎通できるが、書き文字ではまだまだ実用にはほど遠いようなのだ。当面は付きっきりで読み方を教える必要がある、と彰は悟らざるを得なかった。

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