留学生の初飛び出し
彰がようやく中庭に出たとき、彼女は中央の花壇の前にしゃがみ込んで花をじっと見つめていた。すぐに注意をしようと思っていた彼だったが、近寄ってその顔を見たとき何も言えなくなった。
彼女は、それは本当に真剣に花を見つめていたのだ。
それもただじっと見つめるのではなく、ときおり角度を変え、花を覗き込み、あるいは横から見つめ、あるいはほとんど這いつくばるようにして見上げたりもしている。それに葉にも目を向け、飛んでくる昆虫にも気を配っていた。ときおり風が吹いて彼女の髪を揺らせる。もちろん短いのでさほど揺れないが、頭のてっぺんの数本が跳ね上がって、それがまるで触角のように震えた。
それを見ているうちに彰は注意すべきと思っていたことなどどうでもよくなってきた。彼女は遙か宇宙からこういうものを探しに来たのだ。彰の目から見ればどこにでもある花壇だが、彼女の瞳にそれはどんな風に写っているのだろう?
ようやく顔を横に向けて彰を見た彼女に、彼はそっと囁いた。
「花が好きなんだ?」
「はい。私は、いつでも花がそこにあることが望ましいと考えます」
「こんな花、サプツルにはないの?」
「似た種類があるものもあります。これとこれ」
彼女はヒャクニチソウとマリーゴールドを指さした。
「はキク科の植物と判断します。それに属する種類はサプツルにも多数の種があります。でも、花の色の種類はここの方が多いのです」
それに、と彼女は花にとまる虫も指さす。それもまた、地球の方がずっと豊富なのだそうだ。
そのころには本当の休憩時間が始まっていた。中庭にはあちこちのクラスの生徒がやってきて、二人を遠巻きにしていた。
そんな中、マトアカルは花の名前を尋ね始めた。一つ一つの花の種類、花の色や形の名前、それに飛んでくる虫の名前、その生活のこと。そう、魔の質問タイムが始まったのだ。
質問はいつまでも続いた。周囲の観客がいなくなり、次の授業スタートを知らせるチャイムが鳴り、それでも質問が続いた。そしてその授業も終わるのではないかと思われた頃、彼女の身体がぐらりと揺れた。
彰は慌てたが、前回と同じだとすぐに知れる。急いで彼女の背中を手で支え倒れてしまわないようにした。
「誰か……」
彼がそう声を上げる前に、そこには渡辺黒服氏がいた。
「はい、そのまま」
彼はそう言うなり携帯端末を操作し始めた。何か話していたかと思うと、すぐにそれを片づけた。
「それじゃ、彼女を保健室に連れて行く」
彼はそれだけ言うと立ち上がった。宇宙少女は未だに彰の腕の中だ。
「あの、僕が運ぶんですか?」
そんな彰の声に、彼は振り返った。
「だって、世話係なんだろう、彰君?」
それだけ言い捨てると、さっさと歩き始めた。
彰はマトアカルを背負って保健室に向かった。背中に当たる感触は骨が多めだが、それでも女の子らしい身体の柔らかさはあるし、胸のところは軟らかさにほんの少しのボリュームもある。それに長身だからそれなりには重い。息を荒くしながら保健室に入ると、黒服はすでに椅子の上でくつろいでいた。
同時に綺麗な声が聞こえた。
「ご苦労様。そこのベッドに寝かせてあげて」
それは昨日に倒れたマトアカルを診断した白衣の美人だった。いつも保健室にいるのは初老のおばさんだ。そのおばさんは黒服氏と談笑している。
白衣美人の方は彰を先導するようにしてベッドのそばに立ち、彼がマトアカルを寝かせるのを手伝ってくれた。彼女は昨日のように端末を取り出し、手早くベッドに寝かされたマトアカルの様子をチェックしてゆく。
「大丈夫、昨日と同じね。どうやら世界中どこでもこんな調子らしいのよ」
彼女は笑みを浮かべてはいるが、嬉しいとか楽しいとかの感情は伺えない。いかにも営業用の笑みだ。医者のようでもあるが、昨日からの様子を見れば政府の関係者のようでもある。そんな疑問を彰の顔から読み取ったのか、彼女は彼に向かって大きく微笑んだ。
「ああ、自己紹介しておくわね。私、この子の医療担当になったの。沢本茜というの。これからもずっと張り付くから、よろしくね」
つまり黒服と同様に彼女を守る役割を担っているのだろう。だがそれより、問題はマトアカルだ。
「彼女の様子はどうなんですか?」
沢本女医は相変わらずの営業スマイルだ。
「だから昨日と同じよ。単なる電池切れ。寝かせておけばいいそうよ」
「そうですか」
それで彼はひとまず安心できた。だが同時に頭痛が治まらないことにも気がついた。何しろ朝からまだ三時間ほどで、すっかりくたくたなのだ。こんな事でこれからやっていけるんだろうか?
そんなことを考えているのがわかったのか、彼女はまた婉然と微笑んだ。
「昼間だと何時間かで目を覚ますそうだから、また迎えに来てちょうだい。彼女のことは私たちで見ているから、今は授業に戻っていいわよ」
あまりにありがたい言葉に彼はすぐに頭を下げた。
「お願いします」
教室に戻ったのは三時間目がもうすぐ終わる頃だった。
そっと入り口から入ると、授業をしていた数学の中年男性教師は黙って頷いただけだった。クラスの知った顔は、ちらちらと彼の方を見ては小さく手を挙げたり目で合図を送ったりしてくる。彼はそれに小さく肯いて答えた。
席に着くとようやく普段の授業風景に入れた。それはまるでさっきまでの騒動が嘘のように思える時間だった。だが左の空席がそうでないという現実を突きつけている。
授業終了を知らせるチャイムはすぐに鳴った。
休憩時間に、クラスのメンバーの半分くらいが彼の周りに寄ってきた。先頭には例の二人がいる。それぞれに挨拶を口にする。
「よっ、彰。お勤めご苦労様」
「あっくん、お帰り」
真っ先にそう言ってきたのはいつも通りに泰司と唯花だ。でも今日は普段はあまり話をしないメンバーも集まっている。
特に身を乗り出しているのは榊原美鈴。大柄な眼鏡美人だが、頭のてっぺんから少し横に髪をまとめてお団子をのせているのがユーモラスだ。彼女はクラス委員をしているので、単なる興味以上にクラスをまとめる立場として話を聞きたいのだろう。
それにもう一人、強い目で見つめている痩せた男は……誰だっけ?
他のものもそれぞれに疑問を口にする。求めるのは宇宙人に関する情報だ。さっき本人から話を聞いたわけだが、それを彼の口からも聞きたい、というわけだ。
だが彼に言えることはほとんど無い。
「無理言うなよ。さっきみんなが聞いたような話だって、俺、今日初めて聞いたくらいなんだぞ」
そう言いながらも昨日から見聞きしたことをかいつまんで説明する。何しろ同じクラスにいるのだ。いつどんな風に迷惑をかけるか、あるいは助けて貰うことになるかもわからない。
「それで、彼女は今、どうしてるの?」
榊原の問いに、彼女が保健室にいること、関係者が見てくれていることなどを告げる。
「じゃあさっきはどうして飛び出したのかしら?」
「たぶんだけど、授業の開始や終了のこと、知らなかったんじゃないかな」
「あーなるほどね」
美鈴は納得顔で頷いた。
「じゃあ榎原、時間割とかのこと、教えておいてくれる? それとも、私が説明しようか?」
彰は考えた。自分で話をしてもいいが、確かに彼女に話して貰うのもいい。クラス委員だから当然でもあるし、彼女を沢山の人で見て貰うという点でもいいことだ。美鈴なら頼れる味方になってくれそうだ。
「わかった。教えて貰えると助かるよ」
「そう。いいわ。私、ちょっと興味あるのよ」
彼女は小さくガッツポーズをしていた。
そのとき、あの痩せた男がすっと前に出てきた。
「それで、宇宙人の意図は何だ?」
「え?」
彰は彼の顔を見直し、それで思い出した。確か名前は高岡研人、目立たない男だったはずだ。こんな風に話しかけてきたのも初めてだ。あまりよく覚えてはいないが、普段は大人しい、と言うか地味な印象しか持っていなかった。それが今、妙に情熱の籠もったぎらぎらした目で彰を見つめている。今までこんな顔をしていたのだろうか? 彰は思い出そうとするが、記憶には何もない。
「さあ。でも、要するに人的交流なんだろう?」
「そんな表層の話ではないんだ」
彰は聞いた通りを口にはしたが、彼は素っ気なく切り捨てた。それから再び彰に目を向ける。
「宇宙人は何か言っていなかったか? 彼らの意図は、本当の目的はどこにあるんだ?」
彰は戸惑うしかない。彼が求めているものそのものがわからないからだ。
「いったい何の話をしてるんだ?」
いつの間にか、他の連中は高岡から少し距離を取り始めていた。彰も、彼に不安なものを感じ始めた。
「とにかく、宇宙人は本当の意図を隠しているよ。はっきりとはわからない。だが、俺はそれを感じざるをえない。何かあるんだ……」
彼は相変わらずよくわからないことを言って、それからふらりと自分の席へと戻っていった。それで熱が冷めたように、他の連中も席に戻った。