留学生の起床と初登校
翌朝、いつも通りに起きた彰は一階に降りて顔を洗った。
台所では母が朝食の準備をしていた。それに珍しく父もいて、テーブルに新聞を広げていた。父は彰を目にすると声を上げた。
「おい、マトアカルさんを起こして来てくれ」
それも自分の仕事なのか? 出来れば寝ている女の子の部屋に入るのは避けたい。だが母は明らかに手が離せない。妹はたぶんシャワーを浴びている。
(しょうがないのかなあ)
ため息をついて階段を上る。途中で兄とすれ違ったが、彼は彰に目を向けようともしなかった。
自室の前を通り過ぎて彼女の部屋の前に立つ。ドアの横には相変わらず黒服が張り付いている。
「起きてるかな?」
そう尋ねてみると、彼はにっと笑って頷いてくれた。それで多少は安心できる。
一つ深呼吸をして、それからノックした。同時に大きめに声をかける。
「マトアカル、起きてる? 入っていいかな?」
するとドア越しに声が聞こえた。
「その声はあきらです。入るのは可能だと判断します」
その声を確かめ、彼はドアノブに手をかけた。そのまま開けて入ろうとして。
そして凍り付いた。
部屋の真ん中に彼女は立っていた。ただし、半裸で。
パジャマのズボンは脱いであった。上半身は黄色いパジャマに包まれてはいたが、その半分くらいまでボタンが外してあり、そこに開いた布地の間には白い膚が見えるだけだが、裾の辺りの腰の位置では淡いブルーの布地が見える。
つまり彼女はパジャマを脱ぎかけたところだ。それはわかる。それはわかるけど。
彼女の方は特に何の印象も持っていない様子だ。むしろ彰の態度に異常を感じたらしい。軽く眉を寄せて言った。
「あの、あきら? 時間が早いです」
それでようやく彼は自分が破廉恥なまねをしているのに気がついた。
「ごめん、間違えた!」
彼は足をもつれさせそうになりながら飛び出し、慌ててドアを閉めた。
おかしい。さっきは確かに入室の許可を取ったはずだ。それとも今のは幻覚か何かで……そう言えば来るのが早すぎるようなことを言っていた気も……?
彼は胸を軽く押さえて呼吸を整え、もう一度ドアに向かった。ノックをして、それから声をかける。
「マトアカル、入ってもいいかな?」
「あきらです。部屋に入る許可はすでに確認します」
彼はもう一度ドアを開け、そっと覗き込んだ。
彼女はやっぱり部屋の真ん中に立っていた。ただし今度はパジャマの前が全開だった。その間から淡いブルーのパンツと、それから小さめのおへそと、わずかに膨らんだ胸には桜色の何か。
まさかとは思いながらも警戒をしていた彼は、何が見えたかの判断をするより早くにドアを閉めた。横ではドアを開けたり閉じたりしている彼を、黒服が不思議そうに見ている。
彼は今度こそとドアに向かった。
「マトアカル。着替えがすんだら言ってくれるか?」
「わかります」
それでようやく大きく息を吐いて、それから彼は待った。程なく返事が聞こえた。
「準備が出来ます」
そろそろとドアを開けてそこに昨日と同じ姿の彼女を見つけた。それで彼は中に入った。
「どうかな、昨日は急に倒れたから心配したよ。身体の調子は?」
「わかります。正常にあります」
確かに顔色もいいようだ。もちろん彼らの顔色の悪い状態などは知らないが。それでも彼女は確かに元気そうに見えた。
「それじゃ、そろそろ朝食だから、行こうか」
「わかります」
それでようやく彼は彼女を呼びに行くという使命を終え、二人で階段を下りることになった。
テーブルには家族全員がそろっていた。長方形の短い辺に両親が向かい合い、長い辺の片方に智と瑞樹、智の向かいが彰の席だ。そしてその隣にマトアカルの席が設けられた。
この家の朝食はパンとオムレツにベーコン、それにサラダといった洋食タイプだ。
「マトアカルさん、パンはわかるのかな?」
父の伺うような言葉に、彼女ははっきりと頷いた。
「パンは小麦の粉を発酵させて焼いたものです。オムレツは鶏の卵を攪拌して焼いたものです。研修で学びました」
それを聞いて彰は納得した。日常生活については学んできたのだ。逆に言えばそれが研修で得た知識の限界なのだ。だが少なくとも食卓での質問攻めは厳しいものにはならないようだ。
実際、彼女はフォークやスプーンも使ったし、食品についてはあまり質問もなかった。ただしサラダの野菜はいくつか尋ねられた。カイワレや赤タマネギは知らなかったようなのだ。それでも主な野菜は知っていたから、説明は難しくなかった。
その後で出発となったが、ある程度は予想したとおり、黒服付きの車で登校となった。二人の乗った車の前後には同じような車が一台ずつ。
「昨日はすまなかったね」
助手席に乗った黒服は、昨日彰を羽交い締めにした人だった。彼は渡辺和生と名乗った。どうやらSPの中でもリーダーのような位置にいるようだった。彼は『しばらくはこの状態だが、もう少しで監視と守備の体制を整えて、そうするともう少し自由に動けるようになる』と説明した。
「とにかく誰かは近くにいます。必要があれば呼んでください」
彼は携帯端末を貸してくれた。本当は学校ではスマフォなどは所持を禁止されているが、これは特別許可だそうで、それに見たところは普通のものだが、緊急連絡ボタンなども付いていた。
ところでそんな説明の時間がどうして持てたか。その間、マトアカルはひと言も発さなかったからだ。彼女は車が走り出した時点で窓に張り付き、ちょうど『初めて電車に乗った幼稚園児』状態になっていたのだ。
それは確かに見るものすべて珍しくはあるだろう。質問が出ないのは多分目新しいものが次々に出るので、質問を発する暇がないのだ。彼女の分の携帯電話は彰が預かった。ちなみに車での通学時間は十分足らず、普段は自転車で十五分、歩いて通うのもさほど困難ではない。
車が学校の正面に乗り付けると、そこには先生方が沢山来ていて、その周りには生徒の山。車を降りると校長と教頭が出迎え。そのまま二人に連れられて校長室へ。渡辺氏ともう一人の黒服が二人の後に付いてきた。
少し説明を受けて、今度は体育館へ移動。そこには緊急アセンブリーと称して全校生徒が集められていた。二人は当然のように舞台の上に立たされ、彰も彼女のそばで生徒会長の歓迎の辞を聞く羽目になった。もっともそれらはすべて短時間で終了したのが何よりだ。
その後もう一度校長室で、校長と教頭の話を聞くことに。それに彰のクラス担任の盛岡先生からも。国語担当の温厚なおばさんだ。
その場でマトアカルの待遇も聞かされた。要するに聴講生であり、彰のクラスに便宜上は入って貰うが、授業への参加やテストを受ける受けないは自由。もちろん受ければ採点はするが、成績は正式には出さないとのこと。
ついでに彰にもそれなりの特別待遇があるそうだ。彼女の相談役となったことがちゃんと伝えられていて、彼女がどこかに行きたい、あるいは授業と別のことがしたいとなったときには、その介助をするために授業を抜けてもいいとのこと。
「榎原君が相談役なんだってね。わからないことは彼に聞くといい」
校長は改めてそう言った上で、彰にも言い足した。
「しっかりお世話をするようにな」
もちろんするつもりはあるが、よけいなお世話だと思う。その上授業を抜けるのは許されるけれど、かといって授業への参加を免除されるわけではないようだし、試験だって受けなければならない。これでは単に負担が増えるだけの気がした。
(しょうがないよなあ)
さすがにここで口にすることは出来なかった。
「それじゃあ、クラスへ向かいます。榎原君には驚かせることがあるわよ」
盛岡先生はいたずらっぽく笑って、二人の先導に立った。時間は一時間目の半ばくらい。
盛岡先生の言った『驚かせること』の意味はすぐわかった。彼は二年C組で、教室は校舎の一階、奥の方がA組で、C組は三番目だ。だが、その教室の前を先生は素通りしたのだ。驚いてクラスの表示を見ると、『二年A組』に変わっていた。
そして、廊下の突き当たりには地学教室と準備室で、その隣の教室、昨日まではA組だったはずのところに『二年C組』の看板があった。
先生はドアを開けて中に入り、マトアカルと彰に手招きした。彼女が教室にはいると、渡辺氏ともう一人は隣の地学準備室に入っていった。入る直前、渡辺氏は彰に向かって小さく頭を下げてくれた。ここに待機している、ということなのだろう。
つまり彼女の入る教室を一番端に置いて、なおかつ隣の準備室にSPが待機するのだ。警備をしやすいための教室変更らしい。
それだけ確認すると、彼はマトアカルの後を追った。教室では授業を止めて、急遽ホームルームとなる。
「さっきも言ったように、このマトアカルさんが一年間の予定で留学生としてこのクラスに来てくれました。榎原君のところにホームステイするとのことです。皆さんも協力してあげてね」
彰は教室内を見渡した。見慣れた顔ばかりだが、普段より緊張した様子や、好奇心をむき出しにした顔も見える。泰司は彼の方に皮肉な笑い方をして見せた。唯花はただただ嬉しそうだ。
先生はマトアカルに向かって言った。
「じゃあまず、自己紹介してくださいな」
マトアカルは珍しく不安げな顔を彰に向けた。
「これは、何を求められていますか?」
彼は短く言った。
「自己紹介、自分のことを説明するんだ。名前くらいでいいけど」
「はい。わかります」
彼女は明るい笑みを浮かべ、まっすぐにみんなに向かった。
「地球人の人に。時間が早いです。私はサプツルから来ました。マトアカルの十二です。彰はマトアカルと呼びます。地球のこと、情報を多量に知ることを求めています。皆さんのことも知りたいと思います。感謝を差し上げます」
みんなはさぞかし驚いたのだろう。とまどう顔、笑いそうな顔、むっつりと黙り込むものも。意味がわからなくはないが、前回よりもう少しややこしい言い方になっている。緊張しているのだろうか。
不意に最前列の男が彰に声をかけてきた。
「なあ、情報を大量にって、何のことだ?」
その言葉に、周りのもの達も何人か頷いている。言われてみれば、確かに不自然な表現だ。だがそれについては昨日からのやりとりで、彰にはある程度わかる。
「いや、だから、お互いのことをよく知りたい、ということだと思う。何しろそれぞれ相手のことは全然知らないんだから、自分のことを教えあって、よく知り合っていこう、というか」
彰の言葉に、みんなもそれぞれに納得の様子を見せる。
すると、そこで先生が拍手を始め、みんなもまばらながら拍手を始めた。どうやらひとまずは受け入れの空気になったらしい。
先生はその手を止め、もう一度マトアカルの方に目を向けた。
「それで、何しろこんなことは初めてですから、みんなもわからないことが多いと思うんです。少し質問させていただいてもいいかしら」
ところがマトアカルは奇妙に怯えた表情になった。不安をはっきりと顔に浮かべ、何度も彰の方を見る。
「マトアカル、どうした?」
「質問を強いて、なおかつ要求すると言います。何かしてはならないことがありますか? 不安を起こさせることがありますか?」
どうやら先生の婉曲な言い方が変な形で翻訳されたらしい。言葉って難しいもんだ。彰は何となく感心した。
「そうじゃないよ。みんなはマトアカルのこと、サプツルのことが知りたいって言ってるんだ。僕らは君たちのことは全然知らない。だから、みんなも知りたいんだよ」
マトアカルは目を見開いた。
「お互いのことを、多量に知る。それは大事です。私はそのためにここに来ました」
「そうだろう? だから、みんなが質問して、君は答えて欲しい。答えられないのは答えなくていいんだ。答えられる範囲で答えてくれればいい。それならどうかな?」
彰の言葉に、彼女はようやく安堵の様子を見せた。
「答えるのが可能な質問に答える。はい。わかります」
彰は先生に頭を下げた。
「わかってくれたみたいです」
先生もようやくほっとした顔で、改めて教室を見渡した。
「それじゃ、質問のある方は?」
みんなは目の前で繰り広げられるどこか頓珍漢なやりとりを、息を詰めるように見ていた。だからそれが終わったことで緊張もほぐれたようだ。三々五々にではあるが、手が上がる。
先生がそれを順番に当て、マトアカルがそれに答える。ときおりその間に彰が割って入る。質問を言い直したり、あるいは彼女の答えを言い換えたりするのだ。もっとも、それでも物事がなめらかには進まない。たとえばこんな感じだ。
質問「地球の印象は?」
彰「地球に来て、感じたこと、気がついたこと、思ったこと、そんなのはある?」
マ「地球に降りたのが昨日で、それから今日の今までだけ地球を知ります。不思議なこと、知らないこと、見たこと聞いたこと、多量にあります。もっと多量に知りたいと考えます」
彰「昨日から、家でも沢山質問を受けたよ。何もかもが珍しいみたいで」
「あなたの星とどこが違いますか? 同じところはありますか?」
マ「違うところ、多量にあります。今までに見たものは、どれも違います。これから多様にそれを知ることを求めるのです。同じところは、物理化学的性質は同じと研修しました。ここに来てみると、空の様子はほとんど同じです」
ほーっ、とため息が何人かから同時に漏れた。彰も少しだが感動した。向こうの星のことは具体的にはわからないけれど、たとえそれが空の見かけだとしても、同じ景色を共有していると考えるのは感慨深いものだ。
質問「あなたの家族、兄弟は?」
マ「家族とは新しい個人を生じる関係のことと知ります。マトアカルはハイムクスとアカルヒクから生まれて、独立しました。兄妹は同じ親から生まれたものです。それは三つあるのです」
確かに、そう聞こえた。しかし、独立するという言葉が混じっていたのは何だろう?
質問「どうやって地球に来たの?」
マ「五二日前にはサプツルの住居に立ちました。次元接続ゲートを使うのは惑星のある範囲を超えて中継宇宙船で移動して、そこで発動したのです。でも、地球の環境に関する二週間の研修を宇宙船の中で持ち、それから地球の地上に来ました」
質問「どうして地球に来ようと思ったんですか?」
マ「サプツルが地球を知ったのは五年の前にあります。交流する価値がある星との判断があって、今回の留学生の募集を受けました。私は地球に興味深いものが極めて多数存在するとの情報を知りました。私が参加するなら一二なのは当然なのです」
質問「怖くなかったですか?」
マ「恐怖や不安を感じたのかという質問です。それはあります。今もあるのです。でも、知っていないことを知りたい、という関心が強い力で存在するのです。この時間までにもそれは多数の興味深い存在があり、知ることは沢山あります。それに、あきらが手助けすると協力すると言ってくれました」
クラス内におおおっというどよめきが湧き上がった。その視線は彰に向かう。それはまあ、美少女留学生と彼女に協力を申し入れた同級生男子、となれば冷やかしたくもなるだろう。
ついでに、泰司はその中で一番にやついていた。その口は、『予想が当たってよかったな』とでも言いたげだ。
そのあたりで盛岡先生も二人を前で立たせておくわけに行かないと判断したらしい。二人に席に着くように指示してくれた。
彼女の席は窓際の一番後ろ、他の生徒の邪魔にならず、好きなようにしていいように、だろう。ついでに、彼の席はその隣にされていた。
(これも、しょうがないのかなあ)
先生は教壇からみんなを見回した。
「さあ、それじゃ、残りは少しだけど、教科書を開けて。榎原君は彼女のこと見てあげてね」
みんなが教科書を広げ始めた中、彼はマトアカルの机に手を入れた。そこに教科書が準備されている。
「これ、現代国語の教科書だから」
「現代国語は、日本語のことです。わかります」
彼女の声は普段通りの音量で、だからみんなは驚いて振り返った。彰が首をすくめて謝ると、みんなくすくす笑いながら顔を戻した。
「今はしゃべっちゃ駄目だから」
彰の言葉にマトアカルは小さく頭を下げた。それから教科書を手に取り、右手を挙げてヘッドセットに触れた。するとどこにあったのか透明な片眼鏡のようなものが出てきて、それを動かすと右目を覆うような位置に来る。どうやら視覚用の翻訳機らしい。
感心して見ていると、彼女はそんな彰の顔をちらりと見て、かすかに笑った。それは確かに自慢げな笑みだった。
ところが彼女はその視線を教科書に降ろしかけて、不意に外を見た。そしてそのまま動かなくなった。彼女の視線の向こうには中庭があり、花壇がある。どうやら彼女はそれに心惹かれたようだ。
彼女は教室内を見回し、それから彰を見て、先生を見て、また窓の外を見た。
どうやら早く外に出たいが、今は出られない状況だと考えているらしい。もちろんその通りで、もう少しで休憩時間だ。でも彼女はその時間を知らない。どうしたものかと考えていると、彼女の方が我慢できなくなったようだ。
「あきら」
小声で呼んできたので、少し顔を寄せた。
「何かな」
「この部屋から出る事が可能になるには、どれだけ時間が経過しますか」
彼は教室の時計を確かめた。
「あと二分だね」
彼女は素早く携帯端末らしいものを取り出すと指先でささっと触れた。それからまた、さっきまでのようないかにもじれったそうな動きを続けた。
あきらはそれに呆れながらも感心もした。一応は場の空気も読むし、我慢も出来るのだ。
ところがそれから二分後。不意に彼女の方からピン!というような機械音がした。一種のアラームらしかった。
そしてその瞬間、彼女は立ち上がったのだ。
「二分です。あきら、あれを見に行くのです。ついてくることを希望します」
彼女はそう言い捨てるなり、椅子から降りると窓の前に立ち、ぽんと窓を飛び出していたのだ。それはひどく身軽な動きで、準備動作一つ無く飛び上がり、同時に柔らかいスカートが膨らんで、白い素足と、一瞬だけ青い布地が見えた。気がついたときはもう、彼女は中庭を駆けていた。
彰は思わず立ち上がり、それからため息をついた。かすかに頭痛がした。
教室の中に呆然とした空気が広がる中、彰はつぶやいた。
「しょうがないんだよな」
それからおろおろしている先生に向かってひと言。
「すみません、行ってきます」
そう言って教室のドアを開け、廊下を走った。