留学生と握手
父の後について階段を登る。
二階には子供部屋がある。登ってすぐの左手に智の、対面の右手には彰の部屋があり、その次の左手に瑞樹の部屋がある。瑞樹の部屋の向かい、彰の部屋の隣はほぼ同じような部屋だが、特に用途が無くて半ば物置になっていた。それが彼女の部屋になったらしい。
ドアの前には黒服が一人、父に軽く頭を下げる。父はそれには目も向けず、中に入った。
そこには母と彼女がいて、今も母が質問責めを受けていたらしい。母は明らかにほっとしたように彼女から離れ、父に頭を下げて部屋から出て行った。彼女も父に向き直り、軽く頭を下げた。
「どうかな、部屋の様子はわかったかい?」
「はい。特に扱うことが困難なものはないと考えます。可動部も駆動体も少ないのが安心です」
父の言葉に彼女はすらすらと応える。ただしその意味は今ひとつわからない。父はそれほど気にする様子もない。
「そうか、それはよかった。それでな、この彰が君の相談役になったんだ。よろしく頼む」
「『そ・う・だ・ん・や・く』は何かわからないです」
「ああ、つまり聞きたいこと、したいこと、行きたいことなどがあれば、こいつに相談するんだ。話をしてくれれば、こいつが答えたり手伝ってくれる、そう言うことなんだ」
彼女は両手を前に小さくあげた。喜びを示すポーズなのか、表情はとても嬉しそうだ。もっとも出てきた声は平坦だが。
「そうですか。それは助けられます。よろしくお願いします、あきら」
彼女はそう言ってその目をはっきりと彰に向けた。彼の方も彼女に向き直て頭を下げた。
「よろしく、マトアカルさん」
ところが彼女は強く否定するようにその手を左右に振った。
「それは違います。マトアカルの三ではありません。一二です」
どうやら名前につける『さん』を数字の三と混同したらしい。翻訳はどうなっているんだろう?
「いや、そうじゃなくてね。日本語では名前に『さん』や『君』をつけて親しみを示す言い方があるんだ。君の星ではそう言うのはないの?」
彼女は首をかしげて少し黙った。それからまた彰に目を向けた。
「サプツルには名前に別の言葉をつけるはしません。マトアカルの一二と呼ぶのが正しいと考えます」
名前の扱いには特に思い入れがあるようだった。それとも礼儀の問題なのだろうか?
第一、さっきは父が「さん」付けで呼んでいたはずだ。多分だが父が抗議をされても無視して「さん」付けを使い続けた結果だろうというのは想像がつく。
「でも、それじゃあ長いね。もう少し簡単に呼ぶ名前はないかな」
すると彼女はにこっと笑った。
「では、マトアカルがいいと考えます」
彰は諦めた。彼としては女の子を呼び捨てにするのは落ち着かないものを感じる。でもそれしか受け付けてくれないなら仕方がない。
「わかった。じゃあマトアカル、これからよろしく」
「あきら。よろしくお願いします」
彼女はすっと手を伸ばしてきた。その指は緩く広げれらていて、まるで握手を誘うようだった。
「これは……握手?」
恐る恐るの彰に、彼女はにっこり笑みを浮かべた。
「はい。ここに来る前、宇宙船で一週間の研修があり、地球のことも学びました。親愛になる礼儀と聞きました」
それを聞いて彼は感心すると共に不安も覚えた。確かに宇宙人達はそれなりに地球のことを調べて学んできてはいるのだ。しかしその上でこれだけ質問責めを受けるとなると、これから先、やはり大変なことが待っているに違いない。
とにかく待たせるわけにはいかない。彼がその手に自分の手を重ねて軽く力を入れると彼女も握り返してくる。とても細い指と柔らかな手応えが女の子であることを思い出させるが、意外に力はあるようだ。
そんな二人を横で見ていた父だったが、どうやら話が収まったと見たらしい。
「さて、それじゃ、後は彰にまかせる。マトアカルさん、聞きたいことがあるならこいつにしてくれ。それじゃ」
それだけ言うと、すぐさま部屋を出て行った。ドアを閉めていったので、これで完全に部屋に二人きりだ。
彼はそっと彼女を見たが、彼女は笑みを浮かべて彼を見返すだけだ。どうやらすぐに質問責めが来るのではなさそうだ。
彼は部屋の中を見渡した。もちろん昨日まで入っていた荷物は一切なく、それどころか壁や天井まで一新されている。多分今日の昼から一気に入れ替えたのだろう。その代わりに入っているのは彼女のための家具。とはいえそれらはいずれも質素なものだ。ごく機能的な机と椅子。それに本棚とベッドやタンス、カラーボックスや衣装ケースなど。
それらはいずれも地球のもののようだった。彼女自身のもの、あるいは彼女の星から来たものと思えるものはとても少ない。本棚には日本語の本が少しと、明らかに地球のものと思われない書籍が数冊、それだけだ。それはもちろん見えているのがそれだけ、と言うことなのかも知れない。翻訳機でさえイヤホンとマイクだけに見えるのだから、高度の機械はあってもごく小さくてどこかに収まっているのかも知れない。
それでも、と彰は思った。そうであったとしても、多分彼女はほんの少ししか自分のものを持ってこなかったのだ。それは地球に情報が流れることを避けるためなのか、それとも飛行機のように宇宙船にも持ち込める荷物に制約があるのか。
不意に彼女がひどく孤独な存在であることに気がついた。彼女の故郷は何百光年も彼方にあるという。父の話では日本に来たのは数人、それも他のものは近くにいるわけではなさそうだ。もちろん宇宙船にも仲間はいるが、それだってそう多くはないだろう。そんな状況でこうして異星人の家に一人で乗り込んで、寂しくはないのだろうか。怖さは感じないのだろうか。
そう思いながらもう一度彼女に目を向けた。そこにはさっきまでと同じに笑みを浮かべた綺麗な顔があった。そこからは恐怖も不安も感じられない。代わりに彼女にはひどく好奇心に満ちた目があり、それが今、彼に向けられているのがわかった。
「エーと、何かな?」
思わず中途半端に問いかける。返ってきたのはそれまで以上に楽しそうな返事だった。
「あきらを観察しています。私のことを一生懸命知ろうとしていると思います。それはとても大事なことと思います。互いのことを互いに見て、互いに知り合う。それが大事だと聞きました」
そこで彼女の表情に初めて影が差した。
「でも、星からは荷物をほとんど持ってきていないのです。あきらに見せることの出来るものはとても少ないです。それは残念です」
だが彼女の顔にはすぐに笑顔が戻った。
「それよりも今は、質問していいのです。えのきはらとしきはそう言いました。だから聞きます」
そうしていよいよ魔の質問タイムがやってきた。彼女の部屋にはごくありきたりの家具があるだけなのに、それだけで彼女には十分なのだった。彼女は布団や毛布を指さし、持ち上げ、その材質を、そのデザインを、その模様パターンを、その素材と製法を、と言う風に延々と質問が続くのだ。もちろん彰の知らないこと、想像も出来ないこともたくさんあったが、彼女にはそれでもかまわないらしい。彼女の質問はさらにベッドに向かい、その構造や仕組みなどを質問にしていく。彰にはそれをどう止めればいいのかもわからず、とにかくそれを受け止め続けるしかなかった。
それに彼にはもう一つ、出来る限りは答えてやろう、と言う意識が生まれていた。彼女の孤独に気づいたとき、それを押してやって来た彼女の勇気にも気がついたのだ。それがこんな風に知らないものを知る、というのが目的なのであれば、出来る限りかなえてやりたい、と思い始めたのだ。
彼女の方はいよいよ夢中で、しきりにベッドを点検し、観察しては質問を発する。そうして今度は床に膝を着き、ベッドの下を覗き込み始めた。彰の方も質問が出ればそこを覗かなければならないから、そばの床にしゃがんだ。だがそこで、彼女の様子がおかしいのに気がついた。
彼女は床に膝を着いて左手で床を押さえ、頭のてっぺんを床に当てるような格好をしていたが、気がつくと頭全体が床にぶつかっている。そう言えばさっきから声も聞いていない。
「マトアカル?」
思い切って声をかけてみたが、返事もなかった。それどころか、その身体がふらふらと揺れ始めた。
「おい、マトアカル?」
思い切って肩を軽く叩いた。すると彼女の身体はぐらりとかしいで、そのまま後ろに倒れてきた。気がつくと目が閉じられていて、全身から力が抜けているようだ。
「マトアカル! どうしたんだ?」
声を高めた彰だったが、その途端にドアが開いて黒服が二人飛び込んできた。部屋の中の光景を目にすると、滑るような動きであっという間に彰を羽交い締めにして壁まで引きずり下がった。
「おいお前、彼女に何したんだ?」
黒服の緊迫した声に、彼は抵抗をやめた。
「何もしていない。急に倒れたんだ!」
もう一人の黒服は彼女のそばに膝を着いて素早く携帯端末を取り出し、操作を始めた。そんな騒ぎを聞きつけたらしく、階下から父達も上がってきた。
「彰、お前何をした?」
あわてふためく父の言葉に、彼を抱え込んだ黒服が応えた。
「いや、ご子息の犯行ではないようです」
「じゃあ、その子、どうして倒れてるんだ?」
「それをこれから調べますので、しばらく下がっていて頂けませんか?」
父が不満たらたらな様子で、それでも部屋を出た。そこへ入れ替わるように入ってきたのは白衣を着た美女だった。ウェーブのかかった栗色の髪が白衣の背中に流れている。彼女は黒服と入れ替わりに彼女のそばにしゃがむと、これまた携帯端末を取り出し、それと話をしてはマトアカルの身体にかざす、ということを繰り返す。カメラで様子を伝えているのかも知れない。
彰を捕らえた黒服は捕まえる力を緩めてくれたが、彰を後ろから抱える腕はそのままで放してくれる気はないらしい。彰はやむを得ずそのまま様子を見守る。
数分がそんな風に経過し、そこで白衣の女は端末を仕舞い込んで立ち上がった。
「大丈夫ですわ」
「何が大丈夫なんだ? 全然動かないじゃないか!」
入り口から顔を出した父が声を荒らげる。
「いえ、眠っているようです」
それから彼女は異星人から知ったらしい情報を伝えてくれた。それによると、マトアカルの容態は単に意識を失っただけで健康そのものだそうだ。彼女のような好奇心が特に旺盛なサプツル人が、知らないものだらけの場に入り、そこで探索する機会を得たことで異常な興奮状態となり、言ってみれば電池切れの状態に陥った、ということらしい。
「ですから、そのまま寝かせてあげるといいそうです」
それでようやくその場に安堵の空気が広がった。彰も解放された。黒服は深々と頭を下げた。
「先ほどは失礼しました」
「いえ、大丈夫ですから」
それでどうやらこの日の騒動は終わった。後には母が残り、彼女を着替えさせて寝かせたようだ。
夕食が終わり、家族の就寝時間が迫ってもマトアカルは起きてこなかった。彰はベッドに仰向けになり、壁一つ向こうで眠っているはずの、当分お世話をする相手のことを考えた。
もっとも今のところわかっているのは明日学校へ一緒に行く、ということだけだ。しかしそれが順風満帆に進むことは絶対に考えられず、どこから考えても山盛りの難題に出くわすに違いない。
「しょうがないんだよな」
部屋の中なら家族に聞かれなくてすむので口に出しては見たが、それで誰か聞いていそうで声を小さくする彰だった。
彼は溜息をつき、寝返りをすると目を閉じた。何とか騒動が少なければいい、それだけを願って息を沈めていった。