あとはお父さんだけなんだ
「おとうさんかくれんぼしよう!」
ここ数日、仕事から家に帰ると毎日「おかえり」ではなくこの言葉が待っている。幼稚園に通い始めたばかりの健吾は最近かくれんぼにハマっているらしい。
「きょうはタケルくんとユミちゃんとかくれんぼしてあそんだの。おとうさんもあそぼ!」
「お父さんがご飯食べてからな」
「はーい」
パジャマ姿の健吾は元気に返事をして廊下を走っていった。きっとおれがご飯を食べ終える頃には疲れて先に寝ているだろう。これもいつものことだ。
「おかえりなさい」
リビングに行くと妻がおれの分の夕飯の支度をしてくれていた。ここのところ残業ばかりで夕飯はおれ一人で食べることが多い。
「ただいま。夕飯ありがとう」
「いいのいいの。遅くまでお疲れ様」
「麗美は?」
「自分の部屋で宿題してるわ」
「流石お姉ちゃん、ちゃんと勉強してるんだな」
「そうね、毎日学校が楽しいみたいよ」
「それはよかった。後で話を聞いてみようかな」
「そうしてあげて」
妻は話しながらてきぱきと支度を済ませてくれた。おれは自室にカバンを置きに行き、部屋着に着替えてリビングに戻る。夕飯は中華だった。温かい酢豚と八宝菜が疲れた体に染み渡る。
夕飯を食べ終えて冷えた缶ビールを飲んでいると小学一年生の麗美が眠たそうな顔でやってきた。
「宿題終わった?」
「おわった! つかれたー!」
麗美はそう言いながら冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを取り出してコップに注いだ。欠伸をしながらジュースを注ぐ娘を見てヒヤヒヤするのは心配のしすぎだろうか……
「今日は学校どうだった?」
「たのしかったー! きょうはしーちゃんとふたりでとしょしつでえほんよんでたー」
「何を読んだの?」
「なんだっけ、のはらでいぬとねこがかくれんぼするおはなし」
「かわいいお話だね」
「そ! かわいかった! かりるのわすれちゃったからあしたかりてくるね! おとうさんにもみせてあげる」
「おお、そうか。じゃあ楽しみにしてるな」
「うん! じゃあおやすみー」
麗美はそう言うと「はみがきはみがき」と言いながら洗面所へ走っていった。おれはかわいらしい背中を見送りながら二本目の缶ビールをあけた。
ビールを飲んでいると妻が眠たそうな顔をしながらやってきた。
「健吾、もう寝ちゃってるから明日早く帰れたらかくれんぼしてあげてね」
「うん、わかった」
そう言いながらおれは残っていたビールを飲み干した。三本目は……やめておこう。妻を見ると目が少し怖かった。
平和だ。なんの変哲もない日本中どこにでもありそうな日常だと思う。でもそれがおれは好きだ。仕事は辛いが家族のためなら頑張れる。どんなに疲れていても妻や子どもたちの顔を見ればそれだけで元気になれる。家に帰れば家族がいる。それだけでいい。それがおれの全てだ。
そう、本当にそれが全てだったのだ……
昨日と同じく残業のせいで帰るのが遅くなった。今日も健吾とかくれんぼをするのは難しそうだ。
昨日と同じように帰り、昨日と同じように家のドアを開けるとやはり健吾が走ってきた。
「お父さんかくれんぼしよう!」
「ただいま。お父さんお腹がぺこぺこだからご飯の後でな」
「嫌だ! かくれんぼしてよ」
「嫌だって言ってもな、もうお父さんは本当にぺこぺこなんだよ。食べたらかくれんぼちゃんとするから。な?」
どうしたんだろう、何か昨日と違う気がする。昨日というより今までと何かが違う。健吾が駄々をこねるなんて珍しい。いや、それだけじゃない、何だろう何かが引っかかる。
「ご飯の前に少しでいいの。早くかくれんぼしてよ!」
駄々をこねる健吾の頭を撫でてやりながら靴を脱いで家に上がると違和感の原因に気付いた。家の中が暗いのだ。廊下から先の部屋の電気がついていないし物音もない。嫌な予感がする。
「……なあ、健吾。お母さんと麗美はどうした?」
震えそうになる声をなんとか我慢して真っ暗な廊下の先を見ながら健吾に問いかける。
「ねえ、そんなことより早くかくれんぼしようよ」
いつもより大人びた声色だった。そっと健吾を見ると何とも言えない顔をしていた。うまく言えないが4歳の子どもがする表情ではない。悪意のある狡猾な笑み……という表現が相応しいかもしれない。
「……お前、誰だ?」
本来自分の子どもに問いかけるような質問ではない。そんなことはわかっている。ただ、今目の前にいる息子が息子ではないと思った。理由なんてない、ただの直感だ。でもわかる。こいつは絶対に健吾ではない。
「…………バレちゃった」
わざとらしく右手で頭をかき、屈託のない笑顔をおれにむける息子の姿をした何か。おれはゆっくりとそれから距離を置いた。
「焦ったのがいけなかったのかなあ……お母さんとお姉ちゃんは簡単に騙されたのに」
つまらなそうに話す口調はいつもの息子のものとはかけ離れたものだった。
「……お前、二人をどうした!」
「知りたい? ならかくれんぼをしようよ。勝ったら教えてあげる。鬼はぼく。お父さんは早く隠れてね」
「ふざけているのか?」
「ふざけてないよ。ぼくは真剣そのものさ。お父さんこそ家族を助けたくないの? 助けたいならぼくの言うことに従うのが無難だと思うけど」
息子の姿をした何かは愉快そうに笑った。嫌な笑顔だ。聞かなくてもわかる。『従ったところでもう誰も助からない』と言いたくて言いたくてたまらない、そんな顔だ。隠す気もないらしい。こいつはきっと人の命を弄ぶのが楽しくて仕方がないのだ。
そう思った時だ。おれの中で麻紐が引きちぎれるような音がした。何かが切れた。
「さあ、遊ぼうよ。100秒数えるから隠れてよ。ぼくに見つかったらお父さんの負け。一時間隠れ切ったらお父さんの勝ち。さあ、二人を助けられるかな……ん? ちょっと近づいて来ないでよ。何する気?」
怪訝な顔でおれを見上げる息子みたいな何か。ああ、やはりこれは息子じゃない。よく見ると全く顔が違うじゃないか。気づいた途端楽になった。
「おい、近づくなって! あんた家族を助けたいん……」
言い切らせなかった。
おれはぴーぴーと大きな声を出すそいつの顔にそっと右手を添えた。
「五月蝿い」
熟したトマトが潰れるような音が玄関に響いた。
せっかくうまく暮らしていたのに……
家の無いおれは昔からいろんなところを転々としてきた。ふらふらと生活するのは悪くない。ただ、少し飽きてきたなと思っていたある日、たまたま公園で幸せそうな家族を見かけた。
いつもはなんとも思わないがその時はその家族がすごく羨ましく見えた。それでおれはその家族をおれの居場所にすることにした。
お人好しで間抜けそうな父親の影に潜み一か月かけて家族の生活パターンを覚えた。そして家族にバレないように父親を始末して入れ替わった。入れ替わってからもう二年が経つ。
楽しく平和な家族ごっこをしていたというのに、三下の人外にこんなにもあっさり壊されてしまうなんて。ああ、嫌になる。完全に油断していた。
臭い。
腐った生ゴミのような、髪のつまった排水溝のような嫌な匂いが家を満たしている。床にはおれが顔をつぶした子どものような死体がころがっていて、その周りにはどす黒い液体が広がっている。黒い液体は玄関照明の光をぬらぬらと鈍く反射している。
「ああ、また一からやり直さないといけないのか……」
思わず声が漏れ出た。本当に迷惑なことをしてくれたものだ。でもここでうだうだしていても仕方がない。
おれは床に転がった死体を廊下の奥に向かって力一杯蹴り飛ばした。死体は真っ直ぐ飛んで暗闇に紛れていき鈍い音を立てた。部屋の壁にでも当たったのだろう。履いていたズボンが黒く汚れたがもやもやした気持ちが少し晴れたのでおれは満足して家を出た。
さあ、新しい家族を探しに行こう。