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短短編  作者: 林 広正
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クッキー

 日本人が、大好きです。いいえ、あなたが大好きなだけです。子供達も大好きです。もちろん、あなたの家族も大好きです。

 私はベトナムで生まれました。貧乏でではありません。お金持ちの時代も、苦しかった時代も経験しています。両親の商売が成功していた時は、好きな物をなんでも買えました。とても楽しい毎日でした。お父さんが交通事故で亡くなり、商売を辞めてからは、それまでのようになんでも好きな物を買えることはありませんでした。けれど、家族が一緒にいるだけで幸せを感じます。母は親戚などを頼りにしながらも必死に働き、家族を育ててくれました。

 日本人を好きになった理由は、特にはありません。大学の授業で二カ国の外国語を学ぶ必要があり、英語ともう一つと考えた結果です。当時はまだ少なかったですが、日本人を街で見かけたことがあったのです。その時の印象は悪くも良くもありませんでした。専攻科目に日本語の文字を見つけ、その時の日本人を思い出しました。それからドラえもんやセーラームーン。ホンダやトヨタ。JVCやソニー。サッポロにアサヒ。メイジやモリナガ。シセイドウにカオー。私たちの生活には多くの日本が紛れ込んでいることに気がつきました。

 日本語は、とても難しいです。はとかもとかがとかの助詞がいっぱいです。動詞の変化も面倒臭いです。けれど、その響きは好きです。スシ、カモメ、カンコンソウサイ。意味は分からなくても口に出したくなる言葉です。意味が分かると嬉しいこともありますが、知らなければよかったと思うこともありました。

 私が日本語に夢中になっている姿を見て、お姉さんが動き出しました。いつでもそうです。私が楽しそうにしていると、それを真似るのです。しかも、必ず私を飛び越えていきます。お姉さんは突然、日本への留学を決めました。

 お姉さんは一人で日本に行き、日本語を勉強しました。政府が募集した語学留学の試験に受かったのです。そして日本の大学院に入りました。横浜の国立大学です。二年間の勉強をして、日本の企業に就職しました。

 お姉さんはすぐに日本人になりました。そして私を呼びました。私は家族を置いて日本に行くことに少しの抵抗はありましたが、どうしても行かなければいけないとの思いが働いたのです。その理由は、一本の映画でした。男子高校生がプールの中でダンスをします。とても可愛くて、こんな日本人の恋人が欲しいと思ったのです。

 私もお姉さんと同じように日本語学校に通いました。アルバイトもしました。金銭的な理由からと言うよりも、暇だったからです。学校で知り合った友達にはみんな恋人か家族がいます。お姉さんは仕事で夜遅くにならないと帰って来ません。退屈を凌げるし、日本語の勉強にもなります。そしてお金までもらえます。最高に楽しい時間だと感じました。おまけに恋人も作れました。それが今の主人です。

 私が始めたアルバイトは、居酒屋の店員です。お姉さんと暮らしていたアパートから歩いて十分の駅前にあります。オーナーが作った料理やお酒を運びます。注文も受け付けます。始めはそれだけでした。時間も短かったです。五時から九時までです。週に三回程度でした。それがいつの日にか、週五回に増えました。夜も遅くまで残って欲しいと言われましたが、それは断りました。最初はお姉さんのためで、その次は主人のためで、今では家族みんなのためです。一家団欒の時間は、とても大事ですから。

 なにか料理は出来るの? なんてオーナーに言われました。私は正直に、多分出来ますと言いました。するとオーナーは、口を閉じたままにっこりとして、じゃあなにか作ってみてよと言ったのです。私は苦笑いで冷蔵庫を開けました。ヌックマムはありますか? そう尋ねると、おっ、流石はアジアンだね。意味不明なことを言いながら調味料置き場の奥から取り出してくれました。興味があって買ったんだが、使い道に困っていたんだ。そんなことを言います。

 私は適当なおかずを二品作りました。鶏肉のサラダと、空心菜の炒め物です。サラダは茹でた鶏肉を細切りにして、千切りキャベツと混ぜるだけです。味付けにはヌックマムを使います。唐辛子とニンニクがポイントです。空心菜は適当に切ってニンニクと一緒にバターで炒めます。最後にちょっと醤油を垂らしました。本当はベトナムの醤油が良かったのですが、この時はなかったので仕方ありません。

 私の料理を、オーナーは喜んで食べてくれました。こいつは美味いな。ビールにすごく合う。そう言いながら生ビールを二杯注ぎました。一緒に乾杯しよう。これは店からのサービスだ。

 日本風の乾杯をして、美味しくビールを頂きました。一口飲んだ後、冷凍庫から氷を取り出してビールに入れます。ベトナムでは当たり前のことです。オーナーはとても驚いていましたが、そう言えば・・・・ なんて言葉を漏らしました。それから少しの沈黙です。おかずを二度、口に運びました。私はその期待に応えるために、どうかしたんですかの言葉を使いました。日本でもビールに氷を入れて飲むことがあるんだ。オーナーがそう言います。正確にはビールテイストの飲み物なんだけどな。ホッピーって言うんだ。俺はあの薄味が好きなんだよな。そう言いながらまた、おかずを二度口に運びました。私はオーナーにベトナム式の乾杯でビールを飲むよう促しました。ベトナムでは、口に運ぶ度に乾杯をします。ジョッキを持ち上げ、ヨォー! と叫びます。グラスを当てる時もあれば当てない時もあります。それは日本式と変わりません。オーナーは初めてのベトナム式の乾杯に大喜びでした。今でもオーナーは一緒に飲みに行くとヨォーヨォー叫んでいます。

 後から知った事実ですが、ホッピーは氷なしの方が美味しいです。それは邪道だそうです。ホッピー好きの主人がオーナーを叱っていました。オーナーとビールを飲んだその翌週から、店ではホッピーを出すようになりました。オーナーはすでに私の未来の主人と知り合いだったようで、主人から美味しい飲み方を教わり、店でも提供する決意をしたようです。ベトナムの料理とよく合うんだ。今でもよく聞く言葉です。

 冷えたジョッキに焼酎を注いで、その後に一気に冷えたホッピーを注ぎます。そして勢いよく喉に流し込みます。その後に私の料理を食べます。また飲みます。本当に美味しいです。

 私の料理は日毎にメニューが増えていきました。お客さんはみんな美味しいと言います。豚耳丼がシメに大人気です。鳥ゼリーはおつまみにもってこいです。ヘルシーだから女性客に評判です。その他にも定番のベトナム料理を作ります。私はブンボウが好きです。うどんのような麺類です。

 主人との出会いは、線路を挟んで居酒屋の向かい側にある古本屋でした。優しく話しかけられたのを覚えています。その後偶然居酒屋で会いました。もともと常連客だった主人ですが、店に顔を出す時間が遅かったので会えない時間が長っかたのですが、一度会ってからの展開は早かったと思います。出会って半年後には結婚を決めました。

 あれからもう何十年もの時間が過ぎています。私は相変わらずここでアルバイトをしています。お姉さんは遠の昔に引っ越しています。今では結婚をしていて、大きな子供もいますが、この街には暮らしていません。私と主人はアパートのすぐ側に家を購入しました。子供は三人います。上の子二人は独立しています。二人とは年の離れている下の子だけが私と暮らしています。ベトナムの家族は、亡くなった人もいますが、生きているみんなは元気です。お母さんが元気でいることが一番嬉しいです。私は毎年のように実家に帰っています。ちなみにですが、私がアルバイトを始めた当時は独身だったオーナーも、今では結婚をしていて二人の子供は居酒屋を手伝っています。オーナーの奥さんは、当時は大学生だったアルバイトの娘です。

 沢山のベトナム料理を居酒屋で提供していますが、主人にしか出さないものがあります。正確にはベトナム料理でも日本料理でもありません。私オリジナルの料理です。それは、ちょっと不思議なクッキーです。作り方は教えません。主人にだけしか食べさせないと決めているからです。トッピングはその時の気分で変わります。チョコを混ぜてもいいですし、サツマイモでもいいです。キュウリはちょっと会いませんでしたが、大根は美味しかったです。そのクッキーの特徴は、トッピングではありません。その生地が独特なんです。柔らかい中身とサクッとした外見のバランスが自分でも上手だなと思います。焼き方にも工夫はしていますが、なんと言ってもその生地にホッピーを混ぜるのが一番の隠し味になっているのです。主人にも内緒にしていました。そのクッキーは、毎年バレンタインに作ります。今でも作ります。主人は毎年、花を買ってくれます。すっごく嬉して、幸せ一杯になります。主人との毎日には、幸せしかありませんでした。

 けれど今の私には悲しみがあります。今から五年も前のことです。主人が死にました。どうしてなの? お父さんと同じように交通事故で亡くなりました。危ない運転をしていた自転車の若者がトラックに轢かれそうになっていたところを助けようとしました。身代わりです。突然の出来事に、私の心はまだ整理がついていません。毎晩アルバイトの後に主人が好きだったホッピーを飲みながら、何度も当時を思い出しています。

 あなたのことが大好きです。この気持ちが変わることは永遠にありません。だからあなたにも私を大好きでいてほしい。あなたに会える日がきっと来ると信じています。その日まで、私はずっとここにいると決めました。

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