療養教育・精神科の看護師がみた芸人【ぺこぱ】
始めに、筆者はお笑いや芸人の来歴に関してはド素人であり、論じるべき立場にはない。
精神科という領域で6年看護師を行い、現在は発達障害や脳性麻痺、自閉症を持つ児童や成人の福祉に携わっている人間に過ぎない。その上で【ぺこぱ】という芸人に衝撃を受けたのでエッセイを綴る。
昨年末、11年ぶりにM-1をみた。どの組も面白かったが、〝衝撃を受けた〟のは前述の通り、【ぺこぱ】というコンビだった。
ぺこぱというのはボケ担当のシュウペイと、ツッコミ担当の松陰寺太勇で構成される2人組の漫才師である。既に存じている方には〝知ってるわ!〟と言われるだろうが、かなり自由奔放にボケるシュウペイに対し、ツッコミがツッコミをせず〝受容と共感〟をするのだ。
―― 例 ――
ツッコミ「なぁ、お前はどう思う?」
ボケ 「え?聞いてなかった。」
ツッコミ「いや!聞いてねぇ……のなら何度でも言おう。」
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ボケ 〝漫才中急にガクリと項垂れる〟
ツッコミ「どうしたんですか!?」
ボケ 「休憩です。」
ツッコミ「いや!休憩……はとろう!働き方を変えていこう!」
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ボケ 〝再度ガクリと項垂れる〟
ツッコミ「どうしたんですか!?」
ボケ 「休憩です。」
ツッコミ「いや!さっき取った……休憩は短かった!!」
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と、このようにボケの理不尽な行動に対し『いい加減にしろ!』とツッコむのではなく、『悪くないだろう』と【受容と共感】をするのだ。そして【受容と共感】に対し笑いが起こっている。わたしも画面越しに爆笑した。そして不思議に思った。〝何で面白いんだ?〟と。
よくぺこぱ評論に〝優しい漫才〟〝誰も傷付けない漫才〟と言われている事が多く思える。しかし、筆者は婉曲的な〝強烈で攻撃的なネタ〟の様に覚えた。
心理学者フィンクという人物が発表した〝受容までの危機モデル〟というものがある。衝撃が起こり、心理的に受容するまでの段階を分析した指標で、看護のアセスメントや研究に広く使われる理論だ。
その危機モデルでは衝撃の後、防衛的退行→承認→受容・適応とある。
〝防衛的退行〟とは否定・逃避・否認・抑圧であり、一般的なツッコミ『なんでやねん』『いいかげんにしろ』『ふざけるなボケ』がこれにあたる。自分の置かれた非常識な状態に対し、否定するものだ。
次に承認であるが、混乱を自己調整する時期に当たる。ツッコミで言えば例えツッコミだろうか、「お前は○○か!」「××じゃねーか!」と衝撃に対して自分なりに解釈し、問題解決する。
ここまでが【受容と共感】までのプロセスだ。じゃあ【ぺこぱ】はこのプロセスを踏んだ上で【受容と共感】のツッコミをしているか?――していない。
舞台に登場し、目の前を遮られるボケに対し、いきなり「いや!被ってる……なら俺が避ければいい。」と言っている。「被ってるだろ退けろ!」とも「お前は襖か!」とも「横から壁が生えてきた」とも言っていない。
いきなり〝これからわたしたちは【受容と共感】をします〟というお約束を客と共感させてきた。これはこれまで数々の芸人がおこなってきたツッコミ【防衛的退行】【承認】という前提を元にしているからではないかと考えた。
言い方は悪いが、過去の漫才師が行ってきたツッコミ全てが〝ぺこぱのフリ〟になるのだ。
元来【受容と共感】というのはとても難しい分野だ。簡単に一言で〝患者に寄り添う〟〝苦悩を分かち合う〟なんて言っても所詮は他人事、解るわけがない。「健康なあんたには解らないでしょうね!」と患者に怒鳴られれば、返す言葉がないのだ。そして【受容と共感】は【同情】と似て非なるモノ。
それほどに難しい分野を〝笑い〟という更に高度な技術を要する場で実現させたことには、ただただ脱帽した。ぺこぱの漫才をみて、自分も業務をする中で、心が少し軽くなった。
例:担当児が食事介助中食べ物を吐き出した時
(いや好き嫌い……は誰にでもある。自分が出来ない事を求めてはいけない!)
例:同じ事を何回も聞いてくる時
(いや!同じ話……だが、何回でもしよう。興味は人それぞれだ。)
勿論口に出したりしない。脳内の隅っこにナスビを配置するとクスっと笑いながらイライラしていた仕事が少し楽になるのだ。勿論誰にでも出来る事でもないし、一朝一夕で身につくことでもないだろう。
だがいずれ「健康なあんたには解らないでしょうね!」と言われた時……
「いや!解らない!……けど一緒に悩める人になりたい。」
と言えるような人間になりたい。