人嫌いな犬神と雨宿りの少女
鬱蒼とした森林、青々とした草木が生命の鼓動を響かせる大自然。人の手が届かないそこに熊よりも大きい体躯の白い毛並みをした犬が住み着いていた。
犬といってもただの犬ではない。何百年という長き時を生き、神格を得た神に類する存在だ。名をアラヤという。
岩壁にぽっかりと空いた洞穴の中で暮らす彼は、人を毛嫌いしていたそうだ。過去に何かがあったのか。それとも欲深き人が受け付けられないのか。はたまた別の理由か。答えを知るものは、彼以外にいなかった。
アラヤは洞穴の中で座り込み、外で音を鳴らす雨を眺めていた。
「ひゃー! どじゃぶりだー!」
ひとつ、聞き慣れない声と共に小さな影が洞穴に入ってきた。目を細めるアラヤ。見れば年端もいかぬヒトの子であった。真っ黒な髪と炎のような鮮やかな赤い色の瞳をした少女。彼は苛立たしげな息を漏らす。
「何用でここに参った、ヒトの子よ」
「わわっ!」
威圧感のある声が少女に問いかける。突然声をかけられた少女は、驚きのあまり飛び上がる。声の方を見やった少女は、アラヤを発見すると息を呑んだ。
無理もない。熊よりも大きな獣がすぐ近くにいるのだ。飛びかかられれば、逃げる間もなく喰い殺されてしまうだろう。加えて人の言葉を話す獣だ。未知なる存在は恐怖の対象だ。それは、幼き少女であっても例外ではない。
「答えよヒトの子。何用でここに参った――」
例外ではないはずだった、のだが。この少女は、さらにその上を行く例外であった。
「おっきいワンちゃんだあ!」
アラヤの再びの問をかき消した弾むような声。次の瞬間に少女は駆け出し、彼に抱きついていた。
「お、おい。なにをするやめよ! 我はヒトが大嫌いなのだ」
「えへへー。そうなの? ごめんね」
ニヤけた顔の少女と困ったようにため息を漏らすアラヤ。
「ワンちゃんはここで何してるの?」
「ワンちゃんではない。我が名はアラヤだ、ヒトの子よ」
「わたしだってヒトの子って名前じゃないよ。わたしの名前は、アキ。千歳アキだよ。それで、ワンちゃんはここで何してるの?」
「…………ここは我が住処だ」
やや諦めた様子でアラヤは答えた。
「ここがワンちゃんのお家?」
「そうだ。ここはヒトが寄り付かぬ場所故、我の性分に合っておるのよ。して、アキよ。お主は何用でこのような場所に参ったのだ?」
「あ、うん。薬草を取りに来たの。ギザギザ葉っぱのやつ。こんな感じの」
アキは紙切れをアラヤに見せた。子どもの落書きのような絵が書かれていた。それでも少女が探しているという薬草の特徴は捉えることができた。葉っぱの上の方だけギザギザとしている。アラヤには覚えがあった。
「これならば、ここを出て右手にしばらく行った池の畔に群生しておるぞ」
「ほんと?」
「ああ本当だ。呆れるほど生えておるはずだ」
「それじゃあすぐ取りに……ああ。そうだった」
立ち上がった少女は、外を見て自分が洞穴に来た理由を思い出した。うーんと唸りながら考え込んでいる様子。見かねたアラヤが告げた。
「雨が止むまでここにいるといい」
「え! いいの!」
「ああ。だが雨が止んだらすぐに出ていくのだ。それが条件だ」
「ありがとうワンちゃん!」
アキは自分の喜びを表現するためにアラヤに抱きついて頬擦りした。ため息をこぼす彼は、抱きつかないを新しく条件として加えた。
少女を見送ってから数日が経った。アラヤはいつものように目を閉じて、洞穴に佇んでいた。不意にピクリと耳が動いた。外の音が変わったのを察知したのだ。彼はゆっくりと目を開ける。
「……雨か」
そう呟いた彼は、先日の少女のことを思い出した。真っ黒な髪と炎のような赤い色の瞳。彼は遠くを見つめた。外の景色よりも遠い、果てしない場所を。
「ひゃー! 雨だー!」
突然聞き覚えのある声。真っ黒な髪と炎のような赤い色の瞳をした少女が洞穴に駆け込んできた。少女は雨を体や衣服から振り落とすとアラヤを見つけた。にへらと笑う少女は申し訳なさそうに言った。
「またおじゃまするね」
「……雨が止むまでだぞ?」
その後もアキは、度々雨宿りのためにアラヤの住処を訪れるようになった。アキの母親は医者で、患者の治療に薬草を用いるそうだ。アキはその手伝いとして、森の中に薬草を取りに来ているらしい。年端もいかぬ少女を一人、森に送るのはどうかと思うが、それほどまでに忙しいということなのだろうか。人の世の事情は、アラヤにはわからなかった。
アキと出会ってからしばらくの時が流れ、彼女も美しき女になった。そんなある晴れた日に、アキが大きな袋を持って、アラヤの許を訪れた。
「今日は雨は降ってないぞ? どうかしたのか?」
不思議に思ったアラヤが尋ねた。
「そうだね。今日はびっくりするくらいのいい天気だ」
「ならば何故ここに参った?」
「うん……。今日が、最後かもしれないから、かな?」
アキは笑った。いつもの太陽のような笑顔ではなく。どこか淋しげな笑顔で。
「最後……どこかに行くのか?」
「まあそんな感じかな。互いが互いの正義のためにぶつかるの。それで、たくさんの怪我人がでる。だから、治療できる人が一人でも多く必要なんだ。そういう話」
「そうか。戦が起きるのだな?」
「うん。でもすぐ終わると思う、たぶん。だからまたここのお世話になることになるかもしれない。その時は、よろしくね?」
「ああ。雨が止むまで、だぞ?」
「……うん。それじゃ、ね」
「ああ」
ある晴れた日、アラヤはアキを見送った。それからどれだけの歳月が経ったかわからない。とても長い時間が流れた。その時の中で、雨の日は幾度となく訪れた。それでも、アキは姿を表さなかった。雨が降る度に、彼はアキが来るのを待っていた。待ち続けていた。それでも、アキが来ることはなかった。ただの一度たりとも。
彼は、待つことをやめた、諦めた。そして心中で呟いた。
やはり人は大嫌いだ、と。
突然現れて、馴れ馴れしく接してくる。そして、勝手な理由でいなくなる自己中心的な存在。
嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、大嫌いだ。だから……だから、これ以上嫌いになる前に――。
それでもアキは、姿を表さなかった。
ある雨の降る日――獣の遠吠えがいつまでも響いていた。
鬱蒼とした森林、青々とした草木が生命の鼓動を響かせる大自然。人の手が届かないそこに熊よりもデカい体躯の白い毛並みをした犬が住み着いていた。
犬といってもただの犬ではない。何百年という長き時を生き、神格を得た神に類する存在だ。名をアラヤという。
岩壁にぽっかりと空いた洞穴の中で暮らす彼は、人を毛嫌いしていたそうだ。過去に何かがあったのか。それとも欲深き人が受け付けられないのか。はたまた別の理由か。答えを知るものは、彼以外にいなかった。
アラヤは洞穴の中で座り込み、外で音を鳴らす雨を眺めていた。
「ひゃー! どじゃぶりだー!」
ひとつ、聞いたことのある声と共に小さな影が洞穴に入ってきた。目を細めるアラヤ。見れば年端もいかぬヒトの子であった。真っ黒な髪と炎のような鮮やかな赤色の瞳をした少女。
「何用でここに参った、ヒトの子よ」
「わわっ!」
威圧感のある声が少女に問いかける。突然声をかけられた少女は、驚きのあまり飛び上がる。声の方を見やった少女は、アラヤを発見すると息を呑んだ。
無理もない。熊よりも大きな獣がすぐ近くにいるのだ。飛びかかられれば、逃げる間もなく喰い殺されてしまうだろう。加えて人の言葉を話す獣だ。未知なる存在は恐怖の対象だ。それは、幼き少女であっても例外ではない。
「答えよヒトの子。何用でここに参った――」
例外ではないはずだった、のだが。この少女は、さらにその上を行く例外であった。
「おっきいワンちゃんだあ!」
アラヤの再びの問をかき消した弾むような声。次の瞬間に少女は駆け出し、彼に抱きついていた。
「お、おい。なにをするやめよ! 我はヒトが嫌いなのだ」
「えへへー。そうなの? ごめんね」
ニヤけた顔の少女と困ったようにため息を漏らすアラヤ。
「ワンちゃんはここで何してるの?」
「ワンちゃんではない。我が名はアラヤだ、ヒトの子よ」
「わたしだってヒトの子って名前じゃないよ。わたしの名前は、サキ。千歳サキだよ。それで、ワンちゃんはここで何してるの?」
「千歳サキ……というのか。ここは我が住処だ」
アラヤは、どこか懐かしむように少女の名を復唱した後、答えた。
「ここがワンちゃんのお家?」
「そうだ。ここはヒトが寄り付かぬ場所故、我の性分に合っておるのよ。して、サキよ。お主は何用でこのような場所に参ったのだ?」
「あ、うん。薬草を取りに来たの。ギザギザ葉っぱのやつ。こんな感じの」
サキは紙切れをアラヤに見せた。子どもの落書きのような絵が書かれていた。それでも少女が探しているという薬草の特徴は捉えることができた。葉っぱの上の方だけギザギザとしている。アラヤには覚えがあった。
「これならば、ここを出て右手にしばらく行った池の畔に群生しておるぞ」
「ほんと?」
「ああ本当だ。昔ほどではないが、それでも呆れるほど生えておる」
「それじゃあすぐ取りに……ああ。そうだった」
立ち上がった少女は、外を見て自分が洞穴に来た理由を思い出した。うーんと唸りながら考え込んでいる様子。見かねたアラヤが告げた。
「雨が止むまでここにいるといい」
「え! いいの!」
「ああ。だが雨が止んだらすぐに出ていくのだ。それが条件だ」
「ありがとうワンちゃん!」
サキは自分の喜びを表現するためにアラヤに抱きついて頬擦りした。アラヤはしかたなく、少女の好きにさせた。