公安の狂犬
注意して見なければ見逃してしまいそうなほど周囲の壁と同化している薄汚れたロングコートの襟の間から人を疑う事しか知らないような視線が向けられている。他人より体格が良いとかでは無かったがその男が近づいて来れば誰しも正面を向いて身構えてしまう、そんな油断ならないと相手に思わせる得体の知れない何かを持っている。おおよそ公的機関の人間には不向きな才能であっただろうが、それ故に公安の狂犬と呼ばれる久我谷だった。
「砂文字、何を嗅ぎ回っている」
「人聞きが悪い、ちょっと知り合いを尋ねていただけですよ」
「お前が安土の娘と知り合いだったとはな、知らなかったぜ」
「ええ俺も、ついさっき知り合ったばかりですし」
「けっ、……どこまで知ってやがる?」
口の中のガムを地面に吐き捨てるような音を立てて久我谷が写真を指で弾いた。ディーラーの切るカードのように狙いすまして手元に滑り込んで来た写真を指で挟んで受け止めたが、そこに写る男の姿に指の間から落としそうになった。
「その男を知っているか?」
白いスーツに帽子を軽く浮かせて挨拶でもしようかというポーズで写っていたのは、エルノーを助けに潜り込んだ船に居た男。――目の前で怪物に変化した男だ。
「……いや、見かけた事は無いですね」
「名は鉛口。本名かどうかは知らんがいくつもの事件で容疑者の一人とされている。そして最近になって何度か安土に接触したのが目撃された」
「宗教団体関係の? それとも別の事件ですか?」
「そいつがどこの誰かを調べているんだ」
「これだけ目立つ格好をしてれば、嫌でも目に入るでしょう。何か聞きたいことがあるのなら本人に直接聞けばいいんじゃないですか」
「監視用のカメラには何度も写っているがまだ実際に見た奴がいない。そんな格好でうろついてても見つからずに移動できるのか、それとも目撃者がしらを切っているのか。――お前のようにな!」
久我谷の声が急に凄味を増した。声のトーンに緩急をつける事で相手の動揺を誘う公安がよく使う尋問の手段の一つだ。
「いきなり何を言うんですか久我谷さん」
「こいつを知っているだろう? だからこそ安土の娘に接触したんじゃないのか?」
そう言うと人の手から写真をむしり取ってコートのポケットにしまい込む。
「ここに来たのは、たまたま偶然ですって」
「……本当か? 俺の勘ではこいつのバックにはでかい組織がついている。それも途方もなくでかい組織だ」
デカい組織か。この男が目の前で怪物に変身したと言ってところで誰も信じまい。しかし公安が出て来たとなれば、……待てよ、四層の通信障害はそのためか。それなら公安の使用しているチャンネルを使えば巻き込まれる前に片付けられるってものだ。
「何を企んで居やがる? まぁいい、下手に首を突っ込んで手間をかけさせるなよ」
そういうと久我谷らしくもなく、やけにあっさりと背を向けて去っていった。嫌になるほど質問攻めにされるかと思っていたため少し拍子抜けしたが、こっちもそれほど暇ではないのだと端末を操作して公安の通信に入ると雑音に混じって隠語が聞こえて来る。
「なるほど、あっさりと引き下がるわけだ」
慌ただしくいくつもの報告が交差する通信は四層での強制捜査が始まろうとしていると告げている。急ぎ久我谷の向かった方向と別の方向へ走り、四層へ降りる階段へと向かった。