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 アーロンは翌朝になると向かうべき進路を南東にとり、歩みを進めた。目指すはグルジアである。近年はロシア革命で独立を宣言したものの、実態は未だに事実上ソ連支配の続く情勢であった。アーロンが目を付けたのは、あの地が復讐の対象となった総統、ヨシフ・スターリンの故郷だと知っていたからである。アーロンは以前よりヴィリニュスに配布される新聞から彼の情報を蒐集し、スクラップブックを作成していた。襲撃にあった現在では、手元に残っているのは手のひらに収まる程度の小さな手帳のみだが、それでも肌身離さず持っていたその手帳には、ヨシフ・スターリンと彼の指揮する部隊の情報の切り抜きがビッシリと貼られ、僅かに残った余白にはヨシフ・スターリンへの怨恨と呪詛が事細かに書き連ねてあった。


 自分が何故苦しまねばならないのか、覚えのない暴力を受ける度に書き重ねた手帳のページは、ところどころ筆跡から浮き出た炭素の粉によって薄黒く染まっていた。その時その時の感情の高ぶりを手帳にぶつけた為に、筆致は激しく、筆先がページを突き抜け数ページに渡って小さな穴を開けた部分もあった。


 ソ連に加盟した瓦礫と土塊に苛まれながらも、昼頃にはリトアニア鉄道の最寄り駅まで辿りついた。だが問題はそこからである。アーロンは全身のポケットを弄り通貨や紙幣を探したが残念ながら鉄道に乗れるほどの金は無かった。目指すは遠方の地、グルジア。今の時点で詰みとなって良い筈がない。アーロンには途方に暮れる暇など寸分もないのだ。


 駅前には掲示板があり、仕事の募集が掲載されていた。直近の移動費をまずは稼がねばならない。しかし短期的にある程度の収入が見込める仕事は無かった、その殆どは住み込みの雑役夫の募集であり、他の案件も長期的な工場での作業などばかりで、どれも給金は低かった。


 アーロンはある決断を迫られていた。男娼になるか、否か。アーロンは前々から、自分の容姿がある種の属性を持った人々にとっては需要があることを解していた。というのも彼の髪は亜麻色、透徹さを有した蒼い瞳を持ち、肌質も上々、めかしこめば幾分幼くも見える容姿をしていたからだ。彼は面食いの醜女や……男、取り分け金を持った男、つまり全身にこれでもかと脂を乗せた、顎に横皺が走る、たらこ唇の、髪の薄いような人種たちに受けがいい。アーロンにはそういったことが経験則として認識の中に入っていた。しかしそれまでは、決して高給ではなかったにしろ、正統な仕事があり、糧には困らなかったから断っていた仕事であった。それは考えることを辞めた、自由意思を捨てた弱者の行うことだと考えていたからだ。昔日のアーロンの瞳には、そうやって安売りをする男や女が肥溜めに住む虫螻のようにさえ感じられていた。しかし状況は様変わりした。誇り高いアーロンの清廉な色をした魂は、復讐心を混ぜ込んだ黒い絵の具によって上塗りされてしまったのだった。現在のアーロンには、売春行為が非常に羨ましく、輝かしい仕事にさえ思われるのだった。もっともその輝きが果たして常人にとっても同様の輝きに見えるのかどうかと問われれば、返答に窮さざるを得ないのだが。


 アーロンはリトアニア鉄道から下りてきた人を値踏みしはじめた。それでも当初は、幾ばくかの後ろめたさがあったためか、プライドがまだ消えきっていなかったのか、駅の出口を目視し続けることはなかった。しかし人は変わるものだ。数時間が過ぎ、お眼鏡に適う人間が易易とは見つからぬ現実に直面すると、愈々人を見る目が変わり始めた。入り口の階段を降りる人間は男であろうと女であろうと総て目視し、その容姿から想定出来うる人品を考え、金を持った人間、それも独り身で、懐が緩そうで、いかにも欲望深く、尋常ならざる性癖を持っていそうな人間かを隈なく見るようになった。この人間を客にすればいくら貰えるかを考えれば考える程、欲に目がくらみ、人が札にしか見えなくなりはじめていた、ちょうどその頃。まさに天運とも言うべき、理想的な人間が現れた。


 豚鼻で薄毛で腹には3本筋を備えた短足の男、それに対して服装は上下ともにウールで、いかにも高貴ノーブルであるように気取っている。蓄えられた顎髭はヤニで変色していた。これだ。アーロンはその男に最上級の慇懃さをもって話しかけた。



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