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"An eye for an eye, and a tooth for a tooth."
「目には目を、歯には歯を。」 ――『旧約聖書』エジプト記,21章より
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<1941年7月23日 : ポーランド北東部 都市ヴィリニュス>
穏やかな風が、草花の青き香りが、ポーランドの地上を流れたことがあったろうか。
人と亡骸が混ざり合う山に埋まりながら、あの日、私はそのようなことを考えていた。
あの年の7月23日の早朝のことは、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
唐突に銃を持つ軍兵たちが訪れ、強制招集命令が出た。この時既に私たちは、その身に何が起こるのか、その始終を察していた。
隊列と行進、穴掘り、銃殺である。
そしてそれらは予想通りとなった。
銃を突きつけられ、隊列を組まされて長距離を歩かされた。指定場所に辿り着くと、浅く細長い穴を掘れと命令された。
スコップが渡されることもあったが、数は到底足りず、配給されなかった人間は素手で穴を掘った。途中で交代しながら2時間で、深さ1メートルほどの穴が出来上がった。
それからも休む暇はなく、穴にうつ伏せで横になれと命令を受けた、ひとつあたり穴の幅は20メートル程しかない。穴は5つあった。にもかかわらず穴の中に詰められた人数は500人を越えていた。当然、犇々と詰められる。
そして銃殺が始まった。運のない者だとこの時点で窒息により死ぬ者も居た。その方が幸せだったのかは、分からないが。銃殺は淡々と続いた。
編み上げ靴の靴底が鈍い音を立てながら一歩ずつ近づいてくる、それが怖気の走らぬ訳がない。底が砂利を擦り音を出す度に全身が引き攣った。
母が私を覆うように臥せリ始めたのは、軍兵が私たちの5人前を撃ち終えた頃だった。
「声を出さないように。守るわ」
母の着用する服が緩やかなこともあり、悟られることなく母は私の身体の半分以上を覆った。
銃撃が母を貫く直前、私は見つからないほど小さな声で尋ねた。
「なぜ」
母は僅かに笑い、私の頬に触れ、髪をそっと撫であげてこう答えた。
「ばかね、親だもの」
あの時の母の表情は強く印象に残っている。泣いているような、喜んでいるような、喜怒哀楽の交じり合った顔だった。
その直後順番がやって来て、母は射たれた。撃ち抜かれた母の下腹からは血が横溢する、温い血が私の肚の上に降りてくる。母から生気が急速に失われていくのを私は肌感覚で感じていた。
銃弾は私にも命中したが、右手の中指を掠った程度。もちろん痛みはあったが、見つからぬように通り過ぎていくまで気を振り絞り、声が出そうになるのを必死に耐えた。
実行担当の軍兵が通り過ぎたのを視界の端で捉えた後、真上を向き直すとそこには瀕死の母が居た。ゼイゼイと粗い息を吐きながらも、私の顔をじっと見ていた。
母の口元から言葉らしきものが出かかっていたが、声にはならなかった。しかし口唇の動きを必死に読み取ろうと観察すると、次第に母の言葉を拾うことが出来るようになった。
母は安心した、良かった、ありがとう、とそう繰り返していたのだ。
私は母を諦めたくなかった、しかし母の意識は既に風前の灯火だった。救えるのならば、と私は何度も願った。随分昔から無神論者だったが、この時ばかりは神を信じても良いとさえ考えていた。
聖母だろうと誰であろうと、母を救えるのならば、と。そしてもし救えたならば、神の存在を信じようとまで考えていた。
しかしその心願が叶えられることはなかった。
意識がなくなり10数分たった頃。鼓動が途絶え、母は絶命した。
自分の危機より息子を気遣うような母が、何故死なねばならぬのかと嘆かずには居られなかった。厳格ではあったが、慈愛に満ちてもいた、私はそんな母を誇りにしていたし、もし親になるのなら、母のような人格で子を育てたいとさえ考えていた。
もし母の言葉が、魂が毒に塗れていたのなら、こんなにも母のことを思い心を痛めず済んだろうに。あの慈愛も、先程の微笑みも、もう帰ってはこないのか。なにゆえに私の下より母を失くしたのだ、天よ、神よ、何故だ、何故――。
私が亡骸となった母の下から這い出したのは、すべての軍兵が引き上げた後のことだ。既に日は沈みきっていた。この生命は絶対に潰えさせてはならない。その為には万全を期して、安全を第一に考える必要があった。
自暴自棄では、いられない。
辺りでは強烈な金臭さが漂っていた。そのことから、おおよそ地上がどうなっているかの見当はついた。しかしその明確なイメージを浮かべるのは流石に躊躇した。母のこともある。前は向いたが、まだ胸中には心の傷が生々しく残っている。
とはいえ、このまま立ち続けているわけにもいかず、暗いなかで懸命に大地に目を凝らし、どうにか現状を把握しようと努めた。
そこに広がっていたのは、衣服を脱がされた多くの女性の亡骸だった。仰向けに横たわる女性も居たが、多くは荒々しく打ち捨てられていた。
顔に殴打の跡が残っている者、腕の折れている者、他にも目を伏せていたくなるような姿にさせられた者も居た――4本の抉られたような切り傷、それにその周囲の隆起――余程深く斬りつけられたのだろう。
他にも周囲を見渡すと、似たような姿で男性の亡骸がうず高く積まれた山もあった。しかしこちらはどうやら金銭の強奪目的だったようで、その証拠に脱がされたのは上服だけで、下服はポケットの裏地が表に返されているだけだった。
彼らからは共通して同方向に向け血の横溢が生じていた。この土地の僅かな傾斜が、その規則性を作り出したのだろう。その為、大地で血を吸い込みきれなかった血は地表を流れて小さな川を形成していた。
その先では、多くの小さな川は横たわる亡骸によって1度堰き止められていたが、それでもほとんどが流れを止ませること無く、肉体の脇へと逸れたのち再び低地へと降りていた。
もし仮にこの血の川が大きかったなら、ここは宛ら亡者を地獄へと流すアケローン川のようになっていたに違いない。深緑の海に小舟がひとつあり、船上には冥土の使いが白布を羽織って船を漕ぐ。その情景が目に浮かんだ。
物語の一部を思い返すと、頭が少し整理される、つかの間の現実逃避である。いっそ発狂してしまえたらどんなに楽だったか、とも思ったが。
しかし狼狽えてばかり居るわけにもいかなかった。あの血の川を見て、動転していた気が戻ったおかげで、気づいたことがあった。呼吸音だ。まだ生きている同胞が、ここには残っていた。
ならば遺言を聞き出す必要がある。そう考えが移るのも自然の成り行きと言えた。生存者として務めを果たさなければならない。その使命感が、もう数時間経てば息絶えて屍となる人々に脚を向けさせた。
まだ生きていたのは17人、そのうち遺言を聞き出せたのは、7人だった。
そして彼らの多くが無念を祟り、私へ嘱望し、果てていった。
思えば遺言を聞き出すと決めたあの時から、私は身のふり方を決めていたのかもしれない。
――必ず生き残り、同胞が受けた辱めと無念を晴らす。
それがたとえ不毛な結果しか産まないことを判っていたとしても。
この胸に開いてしまった空隙は、その行動によって埋めるしかないのだと、自ら枷を嵌めてしまったのだから。
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1941年7月23日は、私の住む地区以外でも激しい掃討が行われていた。NKVD(別名、内務人民委員部。ソビエト連邦の刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた国家機関)の指揮する部隊は残存する反抗勢力を駆逐するため、ユダヤ人をはじめとし、ポーランド人、リトアニア人など、80,000人以上を殺害していたのだ。しかしそれを私が知るのは、随分後のことになる。
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今回は前日譚、その後20年続けることとなる長旅の始まりに当たるエピソードです。
次回より、本編開始します。