裏切って開き直って駆けつけて
「俺なんだ。“もう一人”は」
「……は……?」
背中に寄り添うようにして立って笑っている幼馴染みの言葉を、白羅は理解できなかった。
いや、理解することを、全神経が、全細胞が拒否した。
理解という行為を受け入れてしまっては、何かが失われ、二度と自分の手の内に戻らない気がした。
しかし、現実はあまりにも突飛で、残酷で、惨憺だった。
あらゆる日々を共に過ごした幼馴染みは、硬直した白羅の身体からそっと離れ、笑みを浮かべたまま淡々と話す。
「びっくりした?」
普段見せない無邪気な笑顔が、何よりも残酷に見える。
未だに弥生が発した言葉の意味を飲み下せていない白羅は、繰り返し問い返した。
「何て、言った……?」
夢じゃないかと思った。
あの弥生が、“もう一人”の通り魔? あの正義感だけで成立しているような弥生が?
夢でないならば、嘘だと言ってほしい。いつもの人を小バカにしたような笑みで、「嘘でした」と言ってほしい。
夢でも、嘘でも、どちらでもいい。とにかく、現実ではないと信じたかった。
そんな白羅の願いを打ち砕くように、弥生はクックッと笑う。
「嗚呼、本当に俺がお前の仲間だって信じていたんだな。かわいそうに! かわいそうだから、特別にもう一度言ってやろう!」
まるで劇のワンシーンでも演じているかのように、弥生は大きく腕を広げ、声を張った。
「俺はさ、この通り魔事件の共犯者…いや、『首謀者』なんだよ」
「――っ……」
白羅は、今度こそ真実を咀嚼し、飲み下してしまった。理解してしまった。
雪村弥生は、多くの人を傷つけた通り魔事件の首謀者である、と……。
「っ――……」
息がつまった。
心臓が何千本もの細い針で刺されたような感覚に陥る。
突然告げられた信じがたい事柄に、怒りや憎しみから発生した爆発的な動力が一気に失われる。
その代わりに生まれたのは、いくつもの疑惑だった。
――何で。
――何でこいつが。
――何でこんなことを。
――何で、何でだ……何でだよ――!!
シンプルな問いの中に多くの情動が含有される。
その全てがぐちゃぐちゃに入り交じって、何も分からなくなる。
爪先から頭まで、全てが硬直してしまう。
真っ赤な瞳を揺らして含み笑いを浮かべる弥生の姿に、思考まで鈍重になる。
声を出すことすら出来ないほど混乱する白羅を見て、弥生はやはり微笑む。
笑顔の仮面を貼り付けたまま、軽い足取りで白羅の回りを歩き回る。
「今お前が考えてること、当ててあげようか?」
笑顔をそのまま音にしたような明るい声色で、弥生は愉しそうに囁いた。
「『何で』って思っただろ? あの雪村が、何でこんなことを、って!」
アッハハ、と喉を震わせる弥生。
「心配するなよ。彼みたいに何の理由もなく事件を起こしたなんて言わないからさぁ」
弥生の指が少し離れたところで話を聞いている通り魔を指差す。当の本人は、指を差されてもこれといった反応は見せない。
弥生も別段それを気にすることもなく話続ける。
「ああ、因みに彼にはちょこっと手伝ってもらっただけだよ。この学校の一年なんだけど、霊感があるみたいで、俺のこと見えてたから、少し手を貸してもらったんだ。ほら、ユーレイには一人じゃ出来ないことがあるだろ?」
「………!」
弥生の軽々しい口調に、白羅は肩を震わせた。
灰色の瞳が、月の輝きで鈍い銀色に光る。
そして、赤い唇を血が滲むほど噛み潰し、まだ混乱を続ける心中で呟いた。
――俺は、本当に……
――本当に、こいつのことを何一つわかっちゃいなかったのかよ!!
己への怒りに、情けなさに、憎しみに、白羅は右手に握り込んでいた竹刀を思い切り床に叩きつけた。
「!」
パァンッ、と竹が弾ける音に、弥生が少しだけ目を見開く。
驚く弥生に、白羅は狼のような鋭い目線を投げ掛けた。
幼馴染みであり、敵である弥生を、敵意を含んだ眼差しで睨めつけた。
「テメェは……こんな馬鹿げたことに沖野や濱谷…そのガキまで巻き込んで……一体何がしてェんだよ!!」
焼けるような想いを、そのまま言葉にしてぶつける。
「………」
獣じみた白羅の咆哮に、弥生は不気味なほど整った笑顔を崩し、そして歪んだ嘲笑に塗りかえた。
その笑顔の下から、低く、ねっとりした声を漏らした。
「馬鹿だな、お前は」
次の瞬間、通り魔事件の首謀者は、白羅の目の前に立っていた。
「ッ!」
その顔に貼り付いていたのは、冷笑でも、嘲笑でもなく――
「お前を殺したいんだよ、俺は」
全くの、「無」だった。
一瞬、白羅は自分の意識が吹き飛んだかと思った。しかし、実際に吹き飛んでいたのは意識ではなく、理性だった。
弥生を信じたいという理性が消え去り、自分を護るために本能的に拳を振るっていた。
そうさせるほど、弥生の顔は「人」ではなかった。
しかし、どんなに素早く攻撃しようと幽霊の弥生に人間の打撃が届くはずがなく、白羅の突きは空気を掠める結果となった。
攻撃に失敗した白羅が体勢を崩したのを見逃さず、弥生は白羅の鳩尾に勢いよく爪先を突き刺した。
「ッが……!!」
鈍器で刺されたような痛みに、白羅は小さく呻く。
蹴りの衝撃で肺の中の酸素が絞り出され、呼吸さえ儘ならない。
両の足で立つという状態を保っていられず、冷たい屋上の床に転がる。
仰向けに倒れ込んだ白羅に、息をつかせる間も与えず弥生が馬乗りになる。
「あーあ、残念だなぁ。殺したいって言われたくらいで動揺しちゃってさ。マジつまんねぇな」
いつもの秀才らしい丁寧な言葉遣いすら失い、弥生は溜め息をつく。
「っざけんな……てめっ……」
しかし、白羅が腹部の痛みに耐えつつ声を絞り出すと、まるで新しい玩具を与えられた子供のように目を輝かせた。
「そうそう! やっぱ国島白羅はこうでなきゃなあ!」
先程と同じ無邪気な笑顔が弥生の顔に広がる。その笑顔とは対照的に、彼の拳は残酷にも白羅の頬を撃ち抜く。
「ッづ……!」
鈍痛が白羅の左頬を襲う。鮮血が床に飛び散る。
「っんの野郎……!」
仕返しに肘鉄を食らわせようとしたが、金縛りにでもあったかのように身体が動かない。
動いたとしても、霊の身体に物理攻撃は効かないことを思いだし、歯噛みする。
弥生は抵抗することすら許されない白羅の襟首をつかみ、実に愉快そうに問いかけた。
「なあなあ、何で今まで吐いて捨てるほど殺すチャンスがあったのに、沖野や濱谷を餌にするような手間のかかる真似をしてまでお前を此処に連れてきたか、わかる?」
「……ッ」
皮肉の込められた問いに、白羅は答えるようなことはせず、嬉々とした弥生を射殺すような目付きで睨み据えた。
その目付きにさえ、弥生は口元を綻ばせる。
「答える気なんてねーよってか? まあ、別にいいけどさ……正解は、『此処が俺の死に場所で、お前にも此処で死んでほしいから』でしたあ」
「!!」
弥生の解答に、白羅は息をつめた。
同時に、目眩がするほどの耳鳴りに苛まれる。
弥生は、愉楽の笑みを崩さず、問いを続ける。
「じゃあ、どうして俺がお前のお友達を利用してまで、お前を殺したいんだと思う?」
わざとらしく抑えられた声が、耳鳴りに襲われている白羅の鼓膜を、静かに揺らす。
弥生の白い手が、白羅の首にゆっくりとかけられる。ひやりと、不気味な冷たさが襲いかかる。
次々と弥生の想いを知らされた白羅は、抵抗するために身動ぐことすら出来ない。
首に絡んだ細い指に、力がこめられる。
「なぁ……俺さ……」
そして、弥生は言う。
白羅が、最も恐れ、聞きたくなかった、一言を。
「――ひとりは、さみしいよ」
その一言を合図に、弥生の手が容赦なく白羅の首を締めた。
「ッづ……ぁ……!!」
呼吸器官を締め上げられ、白羅は声にならない声をあげる。
弥生の手から逃れようと身体を動かそうと試みるが、手や爪先が痙攣するくらいで、逃げることは不可能だった。
無慈悲にも幼馴染みの命を奪おうとする弥生は哄笑しながら喋り続ける。
「知ってた!? お前のせいで沖野や濱谷は犠牲になったんだよ!? お前が早くこっちに来てくれればさぁ、俺も他人を傷つけないで済んだんだよ!?」
いかにも理路整然であるように白羅を責める言葉を連ねる弥生。
ケラケラと気味の悪い笑い声を闇夜に響かせる。
そんな狂った怨霊と化した弥生に、白羅は今までに感じたことのない恐怖を感じた。
幽霊として恐れたのではない。
雪村弥生という人物として、恐れた。
弥生を、「怖い」と感じた。
この時ほど、この男を恐ろしいと思った瞬間はなかった。
赤い目を爛々と輝かせて笑っていることよりも、今自分を殺そうとしていることよりも――
――こいつは、ただの「フリ」で、あんな言葉を言えたのか――!!
その、弥生の人間性が、怖くて堪らなかった。
そして、今までの彼がニセモノだったことが、辛くて仕方がなかった。信じたくなかった。
「――ッ……」
右手を強く握りしめた。
すると、右手にツキリと鋭い痛みが走った。
今朝、梓を守れなかった自分を責めてつけた傷が開いたのだろう。
あのときの自傷行為を止めてくれた弥生は、もういない。
「そんなに他人を犠牲にしてまで生きてて辛くない? こういうのをさぁ、死んだほうがマシって言うんだろ?」
いるのは、自分のために幼馴染みを殺そうとする変わり果てた彼だけだ。
「そんなだったらさ、俺のトコに来たらいいだろ? 俺、もうひとりぼっちは嫌だよ……」
白羅の首に、更なる圧力がかかる。ぎりぎりと気管が押しつぶされていく。
いよいよ息ができなくなり、白羅はもがき苦しむ。
「あ……が……ッ」
呼吸をしようと大きく開いた口からは酸素がとりこまれることはなく、唾液だけが零れる。
命を絶やさまいと必死にもがく白羅に、弥生は耳元で囁いた。
「……一緒に、来てくれるよな……」
聞きなれた声が、白羅に現実をつきつけ、気を遠くさせる。
視界が狭くなり、弥生の顔も、夜空も、見えなくなっていく。
最後に見えたのは、つり上がった弥生の口元。
その口が、小さく、小さく、呟いた。
「――白羅――……」
「―――ッ!!」
その一言に、白羅は目を見開いた。
霞んでいた灰色の瞳に光が戻る。
白羅は右手をもう一度握り締め、鞭に打たれたように飛び起きると、身体を勢いよく捩らせて弥生を吹き飛ばした。
「ッな……!?」
思いがけずぶっ飛ばされた弥生は、驚愕の声をあげる。
白羅の突然の反撃に驚きつつも何とか体勢を立て直すと、白羅は既に立ち上がっており、血に濡れた口元を拭っていた。
その目には、先程まで存在していた「絶望」の色は全く見られなかった。
「何で、いきなり……っ」
あともう少しだったのに、と歯を噛む弥生。
困惑の色を見せる弥生に、白羅は「チッ」と思い切り舌打ちをかました。
「何でいきなり? じゃねぇよッ、クソッタレが」
「……!?」
あまりの態度の変わりように、今度は弥生が混乱する。
さっきまで迷い、拒否し、絶望していた人物とは別人のように、白羅は堂々と立っていた。
まるで、何か希望でも導きだしたかのような面持ちだ。
その面持ちを崩さぬまま、白羅は堂々とした声色で弥生に言い放った。
「残念だけどなぁ……俺はそう簡単には殺されてやらねェぞ」
堂々、というより、怒気のこもった声は、夜の空気を地震のように揺らす。
その震源の白羅は、こめかみをひくつかせながら、更に言った。
「“仮に”、お前が本物の雪村弥生だったとしてもな」
「……え……?」
わざと遠回しに表現された言葉に、弥生は小さく声をあげる。
何を言っている? と言いたげな顔で。
その情けない反応に、白羅は苛立たしげに長い足を揺すった。
「知らばっくれんじゃねェよ。テメェ、雪村じゃねェだろうが」
「――ッ!!」
白羅の大胆な言葉に、弥生の表情がぐっと固くなった。
その変化が、どのような感情のもとで起こった変化なのか。それを悟られるのを恐れたのか、弥生は再び笑顔の仮面を貼り付けた。
「何を根拠に、そんな冗談を……?」
しかし、その笑顔には先刻までの愉楽や余裕はなく、動揺と緊張の色しか見られない。
余裕のない笑顔は繰り返し白羅の心を揺るがすことはできず、白羅はついに大声で怒鳴った。
「根拠だァ!? んなこたァどうだっていいんだよ! 取り敢えず、誰が何と言おうが、テメェは雪村じゃねェんだよ!!」
そう叫ぶのと同時に、白羅は弥生に向かって突進した。
「……!」
普通の人間のものとは思えない足の速さに、弥生はワンテンポ遅れて反応する。
距離を置こうと後ろへ下がったが、間に合わず、白羅の捻りの加えられた蹴りが顔面めがけて勢いよく飛び込んでくる。
「っく……!」
思わず、かわす必要などないのに回避する弥生。
耳元でビュッと空気が通過する音が鳴る。
風を切るような音に冷や汗をかきつつも、弥生は白羅から五歩ほどの距離をとる。そうして安全を確認すると、吐き捨てるように言った。
「気でも狂ったか? この俺に蹴りを食らわせようとするなんて……」
赤く光る眼で睨み付けるが、白羅は全く動じず、鼻で笑い飛ばす。
「ああ? こんなもん、俺と雪村の間じゃ、日常茶飯事だぜ?」
「っ……だからお前みたいな奴は嫌いなんだよ!!」
白羅の人を馬鹿にしたような態度に自棄を起こした弥生は、暴言を吐くと真正面から拳を繰り出す。
それはただの打撃ではなく、周りの空気さえ同時に動かす、つまり人間業ではない攻撃だった。
故に、白羅は拳自体はかわしたが、空気の塊をかわすことはできず、下腹に諸に攻撃を受けてしまった。
空気の砲弾のような打撃を受けた白羅は屋上の隅まで吹き飛ばされ、鉄の柵で思い切り背中を打ち付けた。
「ぐっ……!」
背骨をこれでもかというほど打ってしまい、白羅は低く唸る。
痛みに耐えつつ身体を起こす白羅に、怒りを露にした弥生がゆらゆらと近付く。
「何が雪村じゃないだ……わかった風なこと言いやがって……」
苛立ちを含んだその声は、明らかに弥生のものではなく、掠れた低い声だった。
フランス人形のように美しかった顔も、今では醜い鬼の形相になっている。
あの雪村弥生とはかけ離れた容姿に、白羅は追い詰められているにも関わらず、不敵に笑って見せた。
「わかった風じゃねぇ。わかってんだよ。少なくとも、テメェよりはな。お前は、どうみても俺の知ってる雪村弥生じゃねェ」
実際のところ、白羅がそう言える根拠は不確かなものだった。しかし、白羅は自信をもって「こいつは雪村ではない」と断言できた。
なぜなら、「彼」は――
「言ってろ……! 死に損ないが!!」
あの幽霊は――
「ここから落ちて、死ね」
雪村弥生は――
「死ぬのはテメェだ。怨霊が」
さみしいなんて、簡単にいう男ではない。
「よく言ったァ! 残念なイケメンくん!!」
「!!」
白羅が呟いたのとほぼ同時に、澱みのないよく通る声が白羅の不名誉な渾名を叫んだ。
それに続いて、今しがたまで白羅の目の前に立っていた弥生と思われていた霊が、宙を舞った。
「――ッ!?」
弥生「だった」霊は、すぐには状況を理解できなかった。しかし、自分が「何か」に攻撃されて空を舞っている最中だと気が付くと、ただちに空中で体勢を立て直した。
その時の経過、約五秒。
その五秒の間、白羅は何が起こったか、しっかりと見ていた。
その時間をもたらした人物を、しっかりと見ていた。
白羅の前で、盾になるように立ち、月明かりに身体を透けさせる、その人物は――
「ヘタレにしては、よく持ちこたえたな。国島」
紛れも無く、あの、雪村弥生だった。




