夜の学校 と 仕掛けられた罠
午後九時三十二分。
月が夜道を照す頃、白羅と弥生は校門前に立っていた。
九時過ぎの校内は教員たちも全員帰宅しているので、ひとつの明かりもついておらず、月明かりだけが夜の学校を照らし出していた。
大きな校舎の影が殺風景なグラウンドに落ちている。
そんな怪談話にでも出てきそうな学校を目の前にした二人は、校舎を見上げたまま動かない。
不気味な沈黙が流れるなか、先に弥生が口を動かす。
「おい、国島」
「……何だよ」
白羅は少し遅れて言葉を返した。
変な間を開ける白羅に、弥生が首をかしげる。
「入らないのか?」
「……お前から入りゃいいだろ」
「……それは別にいいけど……」
弥生は白羅の顔を覗き込んだ。
白羅の顔は、微妙に強張っている。
「もしかして、お前……怖いのか?」
「――……ッ」
弥生の最後の言葉に、明らかに白羅の顔が歪んだ。
「え……? 本当に?」
「………」
「っえー!! マジでーっ!?」
実にわざとらしく弥生が声を張り上げた。
「あの国島白羅が!? 夜の学校が怖いとか! ぶっははは!!」
「うっせぇ!! それ以上言ったらはっ倒すぞ!!」
あまりにも弥生が笑うので、白羅は恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤にして怒鳴る。
その姿がまた面白かったのか、弥生は腹を抱えて笑う。
「そういえばお前、幼い頃から幽霊とか嫌いだったもんな……っぶふっ! つーか、すでに目の前に幽霊いるってのに何で今頃ビビッてんだ!?」
「テメェと他人じゃ違うだろうが!! 何かこう…得体が知れねぇのは気持ち悪ィだろ!」
白羅は今度は顔を青くして説明するが、弥生はケラケラと笑うばかりだ。
「聞けよ!」
「ひぃ、はぁ……はぁ……あー、悪い悪い。もういいよ。十分笑ったから」
「っんの野郎……!!」
「悪いって言ってるだろ。ほら、もう行くぞ」
怒りに肩を震わせる白羅に、弥生は適当に返事をすると、頑丈な門をするりと通り抜けてしまった。
「っおい! 勝手に行くな! 俺を一人にするな!!」
夜の学校に一人、は勘弁な白羅は急いで弥生の後を追いかけた。
夜の校内はいよいよ真っ暗だった。
月の明かりがうっすらと差し込むだけで、明かりが当たらないところは全てが闇に溶けていた。
いまにも髪の長い着物の女が出てきそうな雰囲気に包まれた学校は、まさに心霊スポットと呼ばれるにふさわしい風貌だった。
そんな不気味な空気が流れるなか、白羅は護身用に持ってきていた竹刀を構えていた。
「出てくんじゃねぇぞ……出てくんなよっ!!」
その有り様をみた弥生は浅く溜め息をつく。
「お前なぁ……どうせ俺以外の霊は見えないんだろう? 怯える必要ないだろうが」
「お前が見えるってことはいつか他の野郎も見えるようになっちまうかもしれねぇだろ!! それが嫌なんだよ、俺は!」
弥生の慰めの言葉(一応慰めのつもり)にも応じることなく、白羅は竹刀を振りまくる。
「出てきたら殺すからな! 手加減しねぇぞ、ゴルァ!!」
「殺すって……ってかよ、幽霊に物理攻撃は如何なものかと」
「いちいち人の揚げ足取るんじゃねェよっ!! そんなに俺を追い詰めてェのか!!」
何を言っても騒ぎ立てて聞かない白羅に、弥生は二度目の溜め息を吐き出した。
「かっこわる……」
本人に聞こえないように呟き、弥生はずんずんと前進する。
そして、今度はわざとらしい大声で言い放った。
「なっさけないなぁー! 国島くんは~」
その一言に、白羅はまた額に血管を浮かべた。
「うるせぇっ! ブッ飛ばされてぇのか、似非秀才!!」
「………」
白羅の言葉に、弥生が足を止める。そして、ゆっくりと振り向いた。
その双方の瞳は、刃のように細められており、それを見た瞬間、白羅はヤバいと感じた。
「なんだ……? 俺が何か間違ったことを言ったとでもいうのか?」
弥生の声が低くなり、瞳が赤褐色に光る。
「……別に間違っているとは……」
「寧ろ大正解だよな? 偽りようのない事実ですよね?」
白い月明かりに照らされ、いつも通り毒舌を吐いているだけなはずの弥生が普段より幽霊らしく見える。
赤い瞳だけが煌々としていて少しだけ不気味だ。
「いや、幽霊が怖いなんてことはどうだっていい。問題なのはお前が……」
あまりにも現実離れした光景に、白羅は怒られていることも忘れてあっという間に赤く光る瞳に吸い込まれてしまう。弥生の声が薄れていく。
恐ろしいわけではない。美しいと思ったのでもない。
ただ、現実離れしたなかで、現実を突き付けられ、哀しくなった。
身体が透けてしまった弥生とは、以前のような殴り合いの喧嘩もできない。
目の前にいるのに、時々それが自分の妄想ではないかと思う。
そんな自分がいることに、哀しくなった。
そんなふうに思わせる幼馴染みの存在が哀しかった。
――こいつは、哀しくないのか……
一瞬、そんな想いが頭を過った。
「――つまり、お前は皿の水を失った河童なみのヘタレというわけだ。どうだ、納得したか?」
何か解説していたのか、弥生がどうだと言いたげな顔で問いかけてくる。
しかし、白羅の意識は別世界に飛んでいて反応できない。
「………」
「……おい、人の話聞いてるのか」
「………」
「っうぉい!!」
「!!」
弥生の大声でやっと我に帰った。目の前でさっきより目をつり上げた弥生が腕を組んでいた。
「あ……」
「俺の話、聞いてました?」
「……いえ」
「……はぁあ~っ」
白羅の回答に、弥生はふかーい溜め息をついた。本当に幸せが全速力で逃げていきそうな溜め息だ。本人にそう言っても、「幽霊に幸せも何もあるか」と言われるだけだろうが。
幸せも何もない弥生は、組んでいた腕をほどき、白羅を見上げて言った。
「お前、またろくでもないこと考えてたな」
「……!」
どきり、と心臓が高鳴った。
弥生を見ると、その顔はあからさまにしかめられていた。
――こいつは、本当に人をよく見てやがるな……
そのせいで、白羅はいつも隙をつかれる。ギョッとさせられることも多い。
弥生は昔から無駄に観察力がよかった。今でもその能力は健在だ。
この力も、白羅の「弥生の苦手なところ」の一つだった。
この能力のせいで、彼に嘘をつき通すのが極めて困難になる。
「どうせ自分が悪いだの情けないだの考えてたんだろ」
弥生は、顔をしかめたままそう言い放った。
少しずれているが間違ってもいない弥生の指摘に、白羅は返す言葉がなかった。
白羅の沈黙が無言の肯定だと理解した弥生は、呆れたように首を左右にふった。
「あのなぁ、お前がどれだけ自分を責めても意味がないんだよ。お前が追い詰められるだけだろ。無意味なことはやめろ」
「……っ」
弥生のそっけない態度に、白羅の眉間に皺が入る。
「そんな簡単に止められんならとっくに止めてるっつーの」
ついつい喧嘩腰で言葉を返してしまう。
弥生は見た目によらずなかなかの短気なので、「これはまたキレるぞ」と白羅は身構えた。
「………」
しかし、弥生が怒ることはなかった。
それどころか、叱られた犬のように目を伏せてしまった。
「は……!? ちょっ、おい……!」
弥生があまり見せない表情で俯いてしまい、白羅は非常に焦った。
この歳になってまで幼馴染みを泣かせるような真似はしたくない。
面倒なことになるから、というのもあったが、昔、弥生を泣かしたことがあり、その時に二度と泣かせまいと心に誓ったからだ。
とにかく弥生に泣いてほしくない白羅は、どうにかしようと思考を巡らせる。
しかし、その必要はなかった。
「国島」
「!」
見ると、弥生は顔を上げ、白羅をしっかり見据えていた。
その顔は僅かに歪んでいるものの、泣きそうではなかった。柔らかそうな金色の睫毛が光って見えた。
「……何だよ……」
白羅は少しだけ安堵した。しかし、安堵したのを悟られるのは癪だったので、ムッツリとした顔で言葉を返した。
白羅の心の内は知らない弥生は、顔を歪めたまま言った。
「その、自分を責めないではいられない気持ちは、わかる。わかるけど……」
弥生が、唇を噛み締め、また顔を俯かせる。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「俺は……お前がそうやって、自分を責めて苦しんでいるのを見るのは、嫌いだ」
「……っ」
静寂だけが周囲を包む空間に、白羅が息を飲んだ音だけが響く。
「……だから、少しの間でもいい。自分を責めるのは、やめてほしい」
そう願う弥生の声は、静寂でなければ聞こえそうにないほど小さかった。
まるで、何かの罪を犯した人間が、「赦してくれ」と懇願しているようだった。
その姿を見て、白羅は漸く理解した。
弥生が自分の前に現れた理由を。
「国島、お前は自堕落で、遅刻魔で、サボり魔な、とんだ不良だ」
決して、罵るためではない、と思う。
相変わらず目を伏したままの弥生は、彼にしては珍しい、小さな声で言葉を紡ぐ。
「……けど……その、あの……み、見た目によらず……」
小さな声が、余計小さくなり、霞んで消え入りそうになる。
そんな蚊の鳴くような声で、幽霊は必死に言った。
「……いっ……ぃぃゃっ……だし……」
精一杯の想いを、囁きのような声に全て預けた。
しかし、あまりにも小さすぎた弥生の本音は、白羅には上手く伝わっていなかった。
「あ? 今なんつった?」
白羅は頭上に疑問符を浮かべて首をかしげた。
「!!……――っき、聞こえてないなら、いい……っ」
「いや、気になるだろ。もう一回言え」
「いっ、いいって言ってんだろ! ボケェっ!!」
顔から火が出るような恥ずかしさに、弥生は悪態をつきながら首を左右にブンブンと振った。
その顔を見て、白羅は「ああ」と納得した。
そして、いかにも感心したという表情で、弥生に言った。
「幽霊でも顔、赤くなるんだな」
「――っ!!」
何のからかいも混ざっていない、白羅の素直な感想に、弥生はもとから紅潮していた顔を更に紅く染めた。
「も、もういい……っ! 別行動しよう……」
「はぁ!? ちょっと待て! 俺を一人にする気か!」
「俺を一人にしてくれ! 恥ずか死ねる! もう死んでるけど!!」
何か口にしてはいけないようなことを叫ぶと、弥生は背を向け、猛ダッシュしていく。
「ちょっ……!? 待てやァァ!」
白羅は慌てて弥生を追いかける。
白羅は学校でも有名になるほどの俊足だ。一年の頃、同級生に「チーター国島」なんてあだ名をつけられ、弥生に笑われたこともある。
弥生も、並みよりは足が早いが、チーター国島には勝てたことはない。なので白羅は弥生にすぐに追いつく。
「オラァ! 遅ェな、もやしちゃんよォ!!」
弥生の横につき、白羅はハハハと高笑いする。しかし、夜の学校で幽霊と徒競走をするという珍妙な体験をしているからか、顔は真っ青だ。
一方弥生は、恥ずかしさで真っ赤になっていた顔を、今度は怒りで染め上げ、白羅に怒鳴る。
「誰がもやしじゃ!! ついてくるんじゃねぇっ、バカ!!」
そう罵倒すると、弥生は煙のように己の身体を溶かした。
そして、ぽしゅんっ、という紙風船から空気が抜けるような音とともに姿を消した。
「んぬぁっ!?」
さっきまで隣で走っていた弥生が突然跡形もなく消えてしまい、白羅は奇声をあげて急ブレーキをかける。
キュッと靴と床が摩擦する音を響かせ、足をとめた。
ほぼ闇にとけた廊下に、ぽつねんと己一人だけが立つ。
「……お、おいおい……お前そこまで薄情だったか……?」
口元を痙攣させながら、一人呟く。
勿論、応答はない。
「……っんの野郎ォオオ!! マジで置いていきやがった!」
一人にさせられたことを理解し、白羅は叫ぶ。
おいていかれた怒りと、夜の学校への恐怖で混乱し、竹刀を振り回す。
「後から怖くなっても知らねェからな!! 戻ってきても、許さねェからな!!」
悲鳴のような白羅の警告は、幽霊さえいない廊下にただ虚しく木霊しただけだった。
『ウォォォァアアッ』
白羅の悲鳴が廊下に反響して聞こえてくる。身長一八〇センチ以上の目付きの悪い強面男子が、夜の学校怖さに叫んでいるかと思うと、情けなくて溜め息がでた。
「はぁ……」
弥生は一人、呆れて肩を落とす。
現在、弥生は白羅がいる二階の職員室前からそう距離もない、三階の化学室前にいた。簡単に言うと、白羅の真上に立っている状態だった。
天井と床一枚ぶんの距離しかないのに、ぎゃあぎゃあと喚いている白羅の姿を想像すると、ひどく虚しい気分になる。
「何であんな奴がモテるんだろう……」
誰も聞いていないとはわかっていても、思わず声に出して呟いてしまう。
白羅は普段、とても無愛想なのだが、なぜかなかなかモテるのだ。いや、なかなかではなく、すごく。
それが、弥生には理解できない。
確かに、白羅は目つきは悪いが顔は端正なほうだ。体型にも恵まれ、運動神経も抜群に良い。一見モテて当たり前のようにも見える。しかし、弥生からすれば、自堕落でサボり魔で、自分が興味を持てないことには一切無関心な白羅は、とてもモテる男には思えない。白羅を遠巻きにして見てきゃあきゃあ黄色い歓声をあげている女子は、本当の白羅を目の当たりにしたらショックを受けるだろうと思ってしまう。
――俺がもし女だったら、あんな無愛想なうえヘタレな男は嫌だ。
そんなとりとめのないことを考えつつ、弥生は化学室のドアを開けた。
午後九時過ぎの化学室は、やはりしんみりとしていた。
ここの化学室は、一ヶ月前生徒が実験に失敗して爆発事件を起こしてから使用禁止になっている。教室の一部が破損してしまい、授業ができる状況ではないのだ。
使用禁止の化学室内はがらんとしている。事件のあと、室内の棚や道具は全て回収され、今では机しか残っていない。
月明かりに照らされた机が悲しげにみえる。
だからだろうか。何か、違和感を感じるのは。
「……?」
弥生はくるりと教室を見回した。
この部屋に入ってから、変な「匂い」がして仕方がない。不思議、というより不気味な気配を感じる。
最初は、夜の学校だからかとも思ったが、ここは他とは違った。
「おそろしい」のではない。「気味が悪い」のだ。
――ここには、長くいないほうがいい。
直感的にそう思った弥生は引き返そうと踵を返した。
そこで、初めて気が付いた。
寂しいほど何もなかった部屋のあたり一面に、白い紙切れが貼ってあることに。
「――っ!!」
異様すぎるその光景に、背筋がゾッとした。
白い紙切れが何かは、すぐにわかった。
「札!?」
壁、床、天井に隈無く貼ってあったのは、大量の御札だった。
白い和紙に赤黒い字で経文が綴られている。
幽霊の弥生が気分を悪くした原因はこれだった。
――早くここから出ないと――!!
なぜこんなところに、なぜこんなものが。一体誰が。
色々と疑問が浮かんだが、身の危険を感じた弥生はとにかく出口へ向かった。
しかし、御札の効果か、身体が痺れ、上手く足が前へ進まない。出なければいけないという気持ちばかりが先走り、筋肉が思った通りに稼働しない。
「――くそっ……!」
弥生は混乱していた。死んでから白羅以外の人間に認識されたことのなかった自分が、白羅以外の誰かに認識されている。そして、明確な敵意を向けられている。
死んでからこんなにも混乱したのは、「自分が死んでしまった」と気が付いたとき以来だ。
手足が震える。床に手をつく。
そして、最も恐ろしい結末に、思考は辿り着く。
――もしかしたら、このまま……
「………っ!!」
最後の言葉は何とか描き消す。
――弱気になってる場合じゃない!
――あのヘタレをおいていくつもりか!!
幼馴染みの顔を思い出し、弥生は自分を叱責する。
床についた手を強く握り固めた。
――それにまだ……
――やらなきゃいけないことがあるんだろ――!!
弥生は立ち上がった。
手足の震えは、まだ消えていない。
それでも、足を前へ。もう一歩、もう二歩、前へ。
不整脈のような感覚を覚えながらも、ある強い意志をもって、何とか出口まで身体を引き摺っていく。
そして、霊にとっての地獄から脱け出そうとした、その時――
壁や天井を塗り潰すように貼られていた無数の御札が、目がつぶれそうなほどの勢いで輝き始めた。
「っく……!!」
弥生は咄嗟に両腕で顔を覆う。
しかし全てが遅かった。
身体が光に解けていく。
己が、崩れていくのを感じた。
魂が、拐われていくのを感じた。
おいてきてしまった幼馴染みの名を呼ぶ間もなく、
弥生は、
光に解けた。