自白
翌朝、白羅と弥生はいつも通り学校へ行った。
毎日通っているはずの学校は、今日だけは全く知らない別の場所に見えた。
抜けるような青い空も、鳴き喚く蝉の声も、別世界のことのように思えた。
白羅は、隣で通り魔事件解決の夜と同じように学校を見上げる弥生を横目で見た。
「雪村」
「何だ、国島」
こちらを見ることなく、弥生は答える。
白羅は、その横顔を見たまま尋ねた。
「……怖いか」
「……怖い? まさか」
ふっ、と笑い、弥生がこちらに振り向いた。
「一人じゃないからな」
「――……」
その顔が、生きていた頃の弥生そのもので、白羅は目をみはった。
本当に、生きているように見えた。
思わず、白羅は笑った。
「……そーかよ」
そう言って、視線を学校に戻した。
まるで、大きな壁のように学校が立ちはだかる。
そこに待つのは、絶望かも知れない。しかし、その絶望の中に、僅かな希望があるかも知れない。
二人はどちらからともなく、一歩踏み出した。
学校に入り、教室に着いてみると、教室には樺嶋の姿が見られなかった。
白羅がクラスメイトに樺嶋の居場所を聞くと、クラスメイトは少し驚いた様子で、
「樺嶋なら屋上だろ。最近、しょっちゅう行ってるぜ」
と教えてくれた。きっと、他人に興味のなさそうな白羅がよりによって影の薄い樺嶋の居場所なんて聞いてきたので意外に思ったのだろう。
しかし、白羅にはそんなことを気にする暇などなかった。
「屋上」という単語で、身体中の熱が一気に上昇したのがわかった。
白羅はクラスメイトに礼を言うのも忘れて、ほぼ空に近い鞄を、通りすがった阿志田に押しつけると教室を飛び出した。阿志田の「国島! どこに行くんだ!?」という叫び声が聞こえてきたが、答えることはせず、屋上に向かって走った。
風のように走る白羅の後から弥生も走る。
「国島! 待て、落ち着け!」
「馬鹿野郎! 落ち着いていられるか!」
そう叫び返すと、白羅は弥生の手を掴んだ。
「――あっ……!!」
掴めないはずの手を掴まれ、弥生は声を漏らした。
「国島、お前……!!」
驚愕のあまり、弥生は上手く言葉を発することが出来なかった。必死になっていて手を掴めたことに気付いていない白羅はかまわず叫んだ。
「少しでもお前があいつに仕返しする時間多くしてやるから、お前は出来る限りのことをしろ!」
手を引いたまま、屋上へと続く長い階段を駆け上がる。
「そんで、出来れば俺んとこに戻ってきて、その減らず口叩いて見せろ!」
「――っ……!」
その言葉を聞いたとき、弥生が何を思ったかは、前だけを見ていた白羅には一生分からないこととなった。
しかし、弥生は、自分の手を掴むその手を、しっかりと握り返していた。
そうしているうちに、屋上への扉が見えてきた。
ガラス窓から漏れる光を目指して、二人は駆け抜けた。
そして、数日前に開けたのと同じその扉を開け放った。
開けた途端、ゴォと風が吹き込んだ。
「――っ……」
反射的に、白羅は目を閉じた。
暫くして風が吹きやみ、ゆっくりと瞼を開けた。
そこには――
壊れたフェンスの近くで空を見つめる樺嶋が立っていた。
相変わらずの虚ろな目で、その風貌とは相反する青天を見据えていた。
「………」
白羅は弥生の手を離し、静かな足取りで樺嶋に近付いた。
樺嶋とぶつかるまであと五メートル、となったところで足を止め、白羅は声をかけた。
「樺嶋」
なるべく落ち着いた声で呼ぶと、樺嶋がくるりと振り返った。
白羅の姿を見た樺嶋は、生気のない目を見開いた。
「国、島くん……?」
「……」
くぐもった小さな声が白羅の鼓膜を静かに揺らした。
しかし、白羅は何も答えずに動揺する樺嶋を睨み付けた。
樺嶋の動揺する姿が、「自分が人を殺した現場を見られた男」にしか見えなくて、腸が煮えくりかえるようで、耳の奥でギリッと音がするほど奥歯を噛み締めた。
「……テメェか……」
「え……」
白羅の呟きに、樺嶋は首を傾げる。
その仕草すら、悪意に満ちているようで、白羅はより鋭い眼光で目の前の男を貫いた。
そして、怒りに震える声で言い放った。
「雪村弥生を殺したのはテメェだろって言ってんだよ……!!」
「――ッ!!」
その一言で、樺嶋の表情が一変した。どろんとした目を見開き、眉をつり上げ、荒れた唇を色が変わるほど噛み締めた。
「バレてしまった」と、その表情は語っていた。
もう、樺嶋が何も言わなくとも、確信できた。
この男は、弥生を殺した、と。
「クソ野郎が……ふざけんじゃねぇ……ッ」
憎しみが溢れて、舌が痺れたように動かず、上手く声が出せない。
この男は、唯一の存在の命を奪った。幼い頃から、隣にいて当然で、もう二度と出会えはしない存在を。自分でも信じられないほどの憎悪がわき上がった。
樺嶋は、言い逃れをするのは無理だと判断したのか、それとも最初からする気などなかったのか、黙って視線を足元に落とした。
そうして、ぼそりと呟いた。
「……よく分かったね。誰も、僕が屋上から降りるところ、見てなかったはずなのに」
「……ッ!!」
弥生に手を下したことを完全に肯定する発言に、白羅は心臓を踏み潰されたような感覚を覚えた。
潰された心臓から、哀しみと憎しみが飛び散ったのも、感じた。
「……何で……何で殺しやがった……!」
口を動かすたび、哀しみと憎しみが零れ出そうだったが、何とか声だけを絞り出した。
すると、俯いて目を伏せていた樺嶋が、急に顔をあげ、狂ったように叫んだ。
「何で? それをお前が聞くのか!?」
「……!? どういう意味で言ってやがる……」
樺嶋の豹変ぶりに驚きつつも、そう尋ねると、樺嶋は病んだような真っ黒な目で白羅を睨んだ。
「あぁ……そうだね。無神経な君には分からないだろうから、一から話してあげるよ……」
「……」
無神経、と罵られても、短気であるはずの白羅は憤慨することはなかった。
そんなことよりも、話の続きと、何より後ろに控えている弥生のことが気になった。
しかし、後ろを振り向く訳にもいかないので樺嶋の話しに耳を傾ける。
「僕はさ、見ての通り地味で人付き合いが苦手で、友達も少なかった……」
「……?」
何の話だ、と思ったが、取り敢えず相手を刺激しないために黙って聞く。
本当なら殴りかかってさっさと弥生を殺した理由を吐かせたいところだが、それは弥生が望まないと分かっていた。
白羅は黙って、話の続きを待った。
「もちろん、恋愛経験なんてものもまるでなかった。こんな、僕みたいな人間は世の中にたくさんいる。それなのに……君は、君は全然違った!!」
今にも地団駄を踏みそうな勢いで樺嶋は叫んだ。
「俺……?」
「君は周りからカッコいいって評価されてるし、女の子にすごくモテてて、男子にも人気で……友達だってたくさんいるし、それに……あんな完璧なライバルまでいたじゃないか!」
樺嶋が叫んでいるのは、ただの白羅への妬みだった。弥生の死とは全く関係ないように聞こえる。
「無神経で無愛想で、他人なんかに興味ないって顔してるくせに、何で君の周りにばっかり……!! あんなに人に囲まれてるのに冷たい態度だし……! 小野さんに告白された時だって、誰だお前って言ったんだろ!?」
妬みを吐き出すたび、樺嶋は白羅に詰め寄る。
「どれだけ無神経になれば気が済むんだ!? あんなに可愛くて、素直でいい子を傷つけるなんて……ッ!」
ついに樺嶋は自分より頭一つぶん以上高い白羅の襟首を掴んだ。
そして、鼻がくっつきそうなほどの距離で喚いた。
「ちょっと持て囃されてるからって調子にのるな!! 何やっても許されると思うなよ!!」
「………」
樺嶋の言葉を聞き、白羅は思った。
これは、本当にただの妬みだと。
自分の襟首を掴む手が、ひどく小さく馬鹿げて見えた。
肩で息をつき、白羅はその手を払うこともなく言った。
「今、俺はテメェの妬みなんざ聞いてねェんだよ」
「……ッ」
地底から響いてくるような低音に、樺嶋が僅かに怯んだ。
「俺が聞きてェのはなァ」
先程までの勢いが失せた樺嶋の襟首を掴み返す。
「何で、アイツを殺したかってことだけだ……!」
それだけ言い、白羅は樺嶋を振り払った。
あまり力は入れていなかったが、痩せすぎの樺嶋は呆気なく尻餅をついた。
しかし、それでも樺嶋は態度を改めることなく、のろのろと立ち上がった。立ち上がり、白羅から数歩離れると、弥生を殺した張本人はにやりとひきつった笑みを見せた。
「わかったよ……仕方ないから、お前がどれだけ罪深いことをしたか、教えてあげるよ……」
数週間前――
樺嶋はクラスメイトの噂話をたまたま聞いて、小野沙也香があの学校でも有名な国島白羅に告白したことを知った。
その事実は、樺嶋に大きなショックを与えた。
樺嶋は中学生の頃から小野沙也香と同じ学校で、誰にでも優しく、親切で可愛らしい彼女のことが好きだった。奥手なので、自分から話しかけるような真似は出来なかったが、遠くから彼女を眺めるだけでも満足だった。
その彼女が、告白をした。それも、学校で有名になるくらいの男に。
ショックだった。
だが、話の続きを聞いて、樺嶋はより大きな衝撃を受けることになった。
「小野ってカワイーよなぁ。国島が羨ましーぜ」
「いや、でもよ。白羅の奴、フッちゃったらしいぜ?」
「はあっ!? マジかよ!」
「んー。何か『誰だお前』とか言っちゃったんだと」
「ひぇ~」
「小野、めっちゃ泣いてたぞー。『よく知りもしない奴と付き合えない』とも言ったんだとよ。そこはちょっと共感できるけどさー」
「うわー。そりゃキッツイわ」
「あいつ今年でもう十人以上一刀両断してんぞ。俺、これから白羅のことハートブレイカーって呼ぼ」
「何だそりゃあ」
最後のあたりの会話は、もう樺嶋の耳には入っていなかった。
あまりにもショックすぎて、手に持っていたプリントをバサバサと落としてしまった。
床に散らばったプリントを拾うこともせず、樺嶋は呆然としながら思いを巡らせていた。
――どうして、あんなに可愛くていい子を……どうして、そんな言い方であっさりと傷つけられた?
――有り得ない。
樺嶋の中で、妬みが根元の怒りがふつふつと沸き上がった。
――もっと言い方ってものがあっただろう? もう自分の周りにはたくさん人がいるからいらないとでも言うのか? ふざけるな。
僕が、僕のほうがいいに決まっているのに。あの男が彼女を誘惑したに違いない。そうだ。絶対そうだ。
歪みきった感情と思い込みに、樺嶋は理性をなげうった。
――彼女の代わりに、僕が奴に復讐してやる。彼女と同じ苦しみを、いや、彼女以上の苦しみを味わえばいい――!
そして、樺嶋は国島白羅への報復を決意した。
他人からすれば、「そんなことで」と呆れるような理由だ。しかし、樺嶋にとって小野沙也香という人物は自分のつまらない人生に唯一降り注ぐ光のような存在だった。今の高校も、小野沙也香が行くというのを聞いて、猛勉強してたいして良くなかった成績を伸ばして入ったのだ。
樺嶋にとって、小野沙也香は生きる糧に等しかった。
その光を奪われ、樺嶋は今まで感じたことのない怒りと憎悪に身を任せてしまったのだった。
樺嶋は、白羅と同じクラスだった。
だから、白羅に関する情報を集めるのはそう難しいことではなかった。
情報を集める、というのも、樺嶋は白羅の弱点を見つけ、そのアキレス腱を影から叩き切ってやろうと企てたのだ。
樺嶋は、白羅の名前が有名なのは、漫画のように女子から人気があるからだけではなく、超人並みの怪力と運動神経を持っていて、喧嘩が鬼の如く強いからでもあるということを知っていた。
真正面からでは勝てる相手ではない。
だから、樺嶋は影からこそこそとかぎまわるような真似をすることにしたのだ。自分でも卑怯な手段であるとは思ったが、自分は貧弱だと自負しているのでそうせざるを得なかった。
まず、樺嶋は白羅の弱点を探ることから始めた。同じクラスなだけあって、いくつかの情報を手に入れた。
しかし、手に入ったのはくだらないものばかりだった。わかったのは、白羅が大の犬嫌いで、納豆が食べられず、幼なじみの雪村弥生と犬猿の仲であるということくらいだった。
犬嫌いや納豆嫌いが報復の役に立つはずもないし、不良の白羅が風紀委員で宿敵の弥生と不仲なのは学校全体に知れわたっている話だった。
集まっても役に立たない情報に樺嶋は歯噛みしたが、途端にポンとある人物の名前が頭に浮かんだ。
――雪村、弥生――……
誰かが話しているのを聞いたことがある。
雪村弥生は、国島白羅と殴りあいの喧嘩をするほど仲が悪いが、赤ん坊の頃からの付き合いで、白羅のことなら大抵のことを知っているらしい。
本人からきいたわけではないので不確かではあるが、樺嶋にとってはもってこいの話だった。
樺嶋はさっそく弥生を呼び出し、話を聞くことにした。
弥生は、クラスメイトの中でも比較的話しかけやすいタイプの男子だった。
愛想がよく、悪ささえしなければ優しい人間だった。時々出てくる毒舌と少し短気なところだけを除けば、性格も顔立ちも最高の、おとぎ話に出てくる王子のような男子だった。
美形なうえ大抵の人間には優しいため、彼も白羅と同様になかなかモテるのだが、彼の性格上、樺嶋は毛嫌いする気にはならなかった。
樺嶋が「ちょっと相談があるから一緒に屋上に来てくれない?」と尋ねると、弥生はにこりと微笑み、「ああ、構わないよ」と快諾してくれた。
その日の昼休み、樺嶋は弥生と共に屋上へ行った。
屋上には夏の日差しがじりじりと照りつけ、くっきりと青い空にはアブラゼミの鳴き声が響いていた。
弥生はフェンスに背中をあずけ、小首を傾げる素振りをして聞いてきた。
「それで、相談って何だ?」
「その、えぇっと……」
物腰やわらかな弥生の対応に、樺嶋はつい「国島白羅に報復したいから情報をくれ」と言ってしまいそうになった。
いくら報復の相手が白羅であろうと、秩序を乱す者はその根性から叩き直す精神の風紀委員である弥生が良い顔をするはずがない。
遠回りはしたくなかったが、弥生に睨まれるほうが勘弁なので、慎重に掘り下げていくことにした。
「相談っていうより、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……あの、国島くんって、どんな人……?」
「……国島……?」
その途端、樺嶋が白羅の名前を出した途端に、弥生の表情が固くなった。
少しだけ、不機嫌になったように見えた。
犬猿の仲だから当然か、と思いつつ、樺嶋は小さくうなずいた。
「……どんな人と言われても……見ての通り、とんだ不良だ」
白い眉間にシワを寄せた弥生は、腕を組みながら言った。
「……具体的、には……?」
「具体的……そうだな。校則を破るばかりして、毎日のように俺に迷惑をかけては俺が四苦八苦しているのを悪魔のような笑顔で見ているな。実はあんな面して結構なヘタレだし、滅茶苦茶短気な筋肉馬鹿。そんな奴だ」
つらつらと台本でも読んでいるのかというくらい、弥生はショットガンのように喋った。
「それに、俺のことをもやしとか似非秀才とか、とんでもないあだ名で呼んでくる。あと、他人に対しては大体無関心だし、気を遣うのが下手くそだ。遣おうとはしてるみたいだけどな。授業中には大抵寝ている。少し揺すったくらいじゃ起きない。あれを見ると心底腹立つ。あの長い襟足を引きちぎりたくなる」
「も、もういいよ……!」
止めないと止まりそうにない言葉という名の弾丸の乱射を中断させるため、樺嶋は胸の前で手を振った。
すると弥生は、「そうか」と短く言い、あっさりと乱れ撃ちを止めた。
見たことのない弥生の一面を見て、少々唖然とした樺嶋だったが、気を取り直して今度こそ本当に聞き出したかった質問をした。
「そ、それじゃあさ……国島君の嫌いなものとかって、何かな……?」
樺嶋の質問に、弥生は目を細めた。
「嫌いなもの?」
「うん……。苦手なもの、とか……」
「……苦手なものか。アイツ、小さい頃から犬が嫌いだな。ネバネバした食べ物も食べられないし…ああ、そういえば今はどうか知らないけど、幼い頃は幽霊も苦手だったぞ」
「幽霊、かぁ……」
特に役に立ちそうにない新情報に、樺嶋は深い溜め息をついた。
こんな調子では、到底白羅に復讐など出来ない。
もっと有益な情報を掴まなければ、と樺嶋が歯を噛んでいると、空を見上げていた弥生がぽつりと呟いた。
「なあ、樺嶋君」
「っな、何……?」
急に話しかけられ、樺嶋は声を上擦らせた。
しかし、弥生の次の言葉で、樺嶋はその上擦った声を失うことになった。
「樺嶋君よぉ……君、こんなこと聞いてどうするんだ?」
「ッ……!」
どくり、と心臓が跳ね上がった。
見透かされたのか? と思った。しかし、そんなはずがない。分かるはずがない。
平静を装おうと首を傾けてみせた。
「ど、どうって……」
しかし、どうしても声が震えてしまった。
弥生の赤い瞳に見つめられると、全てが明るみに引き出される気がした。
まるで真実を見透かそうとしているような目の弥生は、樺嶋を見て笑った。
普段のただ綺麗なだけの笑顔でなく、形の整った唇を吊り上げ、ニヤリと怪しく笑った。
そうして、聞いたこともない低い声で、言った。
「アイツに、何か用があるんだろう?」
「――ッ!!」
その言葉を聞いた瞬間、樺嶋は悟った。
この男は、最初から気付いていたのだ、と。
先程、樺嶋が白羅についての質問をした途端に弥生が不機嫌になったのは、不仲の相手の名前を出されたからではない。
白羅に危害を加えるつもりだと気付いたからだ。
「女であれば話は別だが……男がアイツについて聞いてくるときは、大抵“そういうこと”を企んでいる時なんだよ。ここ一年でよーく学ばせてもらった」
腕を組み、フェンスに体重を預けたまま、弥生はクックッと笑った。
「本当に……くだらない事を考える奴が多いよ、この学校は」
「ッ……くだらない、だと……!?」
樺嶋は弥生の「くだらない」という発言に拳を握った。
「ああ。くだらないだろう。どうせ、アイツに真正面からぶつかっていく根性がないから、情報集めて、弱み握って影からネチネチ攻めようって魂胆だろうが」
フェンスにもたれかかるのをやめ、弥生は樺嶋の目前に立った。
「正々堂々立ち向かっていけないなら、最初っからそういうことをするな。みっともない」
「っうるさい!!」
遂に、樺嶋は弥生に掴みかかった。
「お前にっ……お前に何が分かるんだよ! 何も知らないで、偉そうな口をきくな!! あいつは、平気な顔して他人を……沙也香ちゃんを傷つけたんだ……っ。僕と違ってあんなに人に恵まれてるのに、スカした顔して、どうでもいいって興味なさそうに!! あいつは最低な人間だ!!」
首を絞めるような勢いで弥生の襟首を掴みながら叫ぶ。
「君だってそう思ってるんだろ!?」
「っふざけるな!」
しかし、怒りをあらわにした弥生に手を叩き払われる。
そして、流石あの怪力の白羅と渡り合うだけはあると言うべきか、猫のような素早さで足を払い、樺嶋を床に押さえ付けた。
「うっ……!」
背中を強く打ち付け、樺嶋は小さく呻く。
弥生は樺嶋を押さえ付けたまま怒鳴った。
「恥を知れ! 他人と自分を比べて卑屈になってるだけだろお前は!! そんな奴に、真正面から向かってこない奴に影から何をされても、アイツは屈しない! それどころか見向きもしねぇよ!」
怒鳴る弥生の赤い眼光が、樺嶋を貫く。
「何も知らないで偉そうな口を聞いてるのはお前だ! 白羅の何を知って最低だなんて罵ってやがる! アイツをそんな風に軽視してるなら、俺がお前をブッ飛ばしてやる!!」
「……ッ」
見たこともないほど怒鳴る弥生に、樺嶋は唇を噛んだ。
あんな男のために、そんなにも怒ってやるのか、と。
「アイツが何やらかしたかは知らないが、気に入らないことがあるなら一対一で堂々と文句言え。この俺をアホな復讐に巻き込むな」
そう言うと、弥生は樺嶋を離し、再びフェンスの傍に戻った。怒りに血が上った頭を冷やすように、空を見上げる。
その後ろ姿を見て、樺嶋は身体を起こしつつも言い様のないほどの悔しさと敗北感を感じた。
――何で。何でなんだ……。
――あの雪村弥生さえ、あの男を認め、肩を持つのか。
――どうして、あいつばかりが……あんなに、最低なのに……
――何なんだ……あいつは何なんだ――!!
樺嶋は、ゆっくりと立ち上がった。
――こいつまで、僕のことを馬鹿にするのか!!
そして、足音を忍ばせて近付いた。
「樺嶋。確かにアイツはムカつく奴だ。ムカつくし、馬鹿だし、人をイライラさせるのが大得意だ。……けどな、それでも国島は……」
弥生が振り返る。
その時、樺嶋の中で、何かが弾け飛んだ。
「うわぁあぁああっ!!」
大声で叫びながら、出せる限りの力で弥生を突き飛ばした。
「っ――」
急に突き飛ばされた弥生は、身構えていなかったせいもあり、フェンスに叩き付けられた。
その時――
ガシャン、と嫌な音をたてて、フェンスが外れた。
留め具が、緩んでいた。
「あ……」
「――……っ」
全てが、スローに見えた。
弥生が、青い空に放り出される。
足が屋上から離れる。
落ちていく。
「雪村く――っ!」
我に帰った樺嶋は、すぐに手を差し伸べた。
しかし、弥生は、その手を掴まなかった。
樺嶋の手は空気を掴み、弥生は重力に逆らえず――
屋上の下へと、吸い込まれていった。
数秒遅れて、グシャリと、何かが潰れる音がした。
「あ……あぁ、あ――……」
落ちた。
落ちてしまった。
樺嶋は、現実からつき離されたような感覚に陥りながら、とにかく下まで降りて様子を見に行った。
下まで降りると、校舎の裏庭に弥生が転がっていた。
周囲に血を花弁のように散らばし、頭を真っ赤に染めて、目を半分開けたまま死んでいた。
さっきまで、生きていたものが――……
樺嶋は、どうすることもできなかった。
救急車を呼ぶことも、その場から逃げることも出来なかった。
ただ一瞬、雪のように白い肌に真っ赤な血が散っているのを、綺麗だと思った。そう思った瞬間、自分はどうかしてしまったのだと、分かった。
そのまま樺嶋は立ち尽くし、音を聞き付けて来た教師に、
「自分は第一発見者なだけで、何も知らない」
と、言ってしまった。
こうして、弥生は自分から屋上から飛び降りた自殺者とされ、樺嶋はそれの第一発見者となり――
奇しくも、このことが白羅への報復ということになってしまった。