心の声 と 真実
自宅である天宿荘に着いた頃には、日は沈んでしまい、空には星がちらつき始めていた。周りの家にも明かりがつき、夕食の準備をする音が聞こえる。
白羅は塗料が剥がれ始めている階段をかけ上がると、左奥から二番目の扉のカギを開け、中に入った。
部屋の中には明かりがついていなかった。月の光でかろうじてものが見えるくらいだ。
弥生はまだ帰っていないのかと思いながら電気をつけようとすると、どこからか小さな声が聞こえた。
「……?」
息を細かく吸い込んでいるような声。同時に、ズッズズッという音も聞こえてきた。白羅はその奇妙な音に耳を澄ましながら部屋の奥へと進んだ。
よく目をこらして見ると、ベッドにもたれるようにして頭を垂れて座り込んでいる影があった。
肩が小刻みに震えている。小さな声も、その影から聞こえてくる。
月の光があたって輝く髪の毛が金色であるところを見ると、その影はやはり弥生であるようだ。
白羅が帰ってきたことに気が付いていないのか、近付いても振り向きもせず、俯いたままだ。
「雪村……?」
そっと声をかけたが、やはり気がつかない。今日の昼のことに参っているのかと思い、白羅は弥生のすぐ後ろにしゃがみこみ、もう一度声をかけた。
「おい、雪村」
「っ!」
白羅の声に、弥生はヒュッと息をのんだ。
そうして、ゆっくりと振り向いた。
ゆっくりと振り向いた、その赤褐色の瞳には――
「――っ……!」
今にも零れそうなほどの、大粒の涙が浮かんでいた。
瞳だけではなく、頬も、首までも濡らして、弥生は泣いていた。
白羅は、その涙をみた瞬間、心臓が止まったかと思った。いや、弾け飛んでしまったように感じた。
もちろん、白羅は何度も弥生が泣くのを見たことがあった。そのうち数回は白羅が泣かせた。
それでも、そうであっても、これほどまでに悲しそうに、辛そうに泣く姿を見たことはなかった。
目の周りは赤く滲み、長い金色の睫毛も濡れて萎えてしまい、唇は細かく痙攣していた。
あまりにも悲痛なその姿に、白羅はほとんど反射的に手を伸ばした。
触れないことは分かっているが、それでもその背中をさすらずにはいられなかった。
「雪村……悪かった。だから、泣くな」
囁くような声で、白羅は謝った。
今日の昼のことが原因で泣いているのだと思った。
しかし、弥生は首を横に振った。
「っ……違う……。お前のせいじゃ、ない……」
涙腺が壊れてしまったかのように涙を流しながら、弥生は言った。
「悪いのは、俺だ……。あんなこと言っておいて、お前の前で、こんな風に泣いたり、して……卑怯だ……こんなのは……っ」
己を責めながら、弥生は泣き崩れる。
白羅は、ただその触れない背中をさすり続けた。
「卑怯なんかじゃねぇだろ。確かに、昼のアレは正直衝撃的だったけどよ……」
「……っ悪かった、本当に……」
「謝んじゃねェよ。俺もそれなりに言ったしな」
「違うんだ……俺が謝りたいのは、俺がこんな半端な奴だってことだ……」
「誰だって半端なところくらいあんだろ。謝んなって」
「でも……やっぱり、ごめん……」
「だから、謝るなよ」
「俺が、お前を……っ」
「いや、だからよ……」
「ごめん。本当に、ごめん」
「――ッ」
その時、白羅の頭の中で何かが切れた。今まで溜まっていた何かを堰き止めていたものが、切れた。
それとほぼ同時に、白羅は大声で叫んだ。
「あーーッ! ウゼェ!! 謝んなっつってんだろ、この似非秀才が!!」
「えッ」
突然の白羅の爆発に、弥生は短く悲鳴をあげた。
しかし、弥生が唖然としていることは気にもかけず、白羅はズンと詰めよった。
「いいか! 俺はお前に謝らせてェんじゃねーんだよ! お互いの腹ん中見せあおうってんだよボケ!!」
大声の勢いで飛ぶ唾が弥生の顔に散乱するのではないかというほどまでに顔を近づけて白羅は叫んだ。
近所に迷惑がかかることなどお構いなしだ。
「今、お前がどうしてそんなに苦しんでるのかは知らねぇ。知らねぇから、俺は知りてぇ。どんなモンであろうと知りてぇ。理由は聞くなよ。よくわかんねェから」
「……」
勝手に喋り倒す白羅に、弥生は目を白黒させる。白黒させつつ、ほろほろと涙を流している。
その止まらない涙を見て、白羅は拳を握り締めた。
「お前、言ったよな? 俺が苦しんでる顔を見るのは嫌いだって。俺も同じなんだよ。テメェの苦しんでる顔なんざ見たくねェ。泣いてる顔なんか特にだ」
「……!」
弥生が、ぐっと唾を飲み下した。そうすると、目尻に溜まっていた涙が頬を下った。
「だから、お前が今思ってることとか、吐き出してェこととか言っちまえ。お前が何言っても、俺は受け止めてやる。お前が苦しいなら、それを俺が半分貰ってやる。俺のこと信じていいから、言えよ」
「……っ!」
白羅の本音を、心の声を聞き、弥生は余計泣いてしまった。嗚咽が漏れないように、ゆっくりと息を吐きながら弥生は口を開いた。
「……だめだ、それは……。俺だって、お前を信じたい。けど、そんなことは駄目なんだ」
「何でだよ」
白羅は静かに聞いた。
弥生は、口を手で押さえながら言った。
「だって……俺の……っ、俺の、お前が俺の言うことを受け止められるって信じたいっていうのは、ただの建前で、もしかしたら、本当は楽になりたいだけなのかも…知れない……。信じたふりして、吐き出して、お前に辛い気持ちをなすり付けたいだけなのかも知れない……!」
自分の本当の気持ちすら分からないんだ、と弥生はむせび泣いた。
そう泣きながら、一向に隠し事を言おうとしない弥生に、白羅は「はぁあ」と溜め息をついた。
そうやって、気が滅入るような溜め息をつくと、白羅は弥生の金色に光る涙を見つめたまま言った。
「お前は、俺の言ったこと聞いてたのか」
「え……?」
弥生が、目を真っ赤にしてきょとんとした顔をした。
その顔に、なぜか滅茶苦茶に腹が立ち、再び白羅は声を張った。
「テメェ、いつもは腹立つくらい察し良いくせに……! 俺はな! 俺は、お前を信じてやる! お前の強ェところも、今みたいに半端で弱ェところも全部引っくるめて、無償で信じてやる! だからお前もめんどくせェこと考えずに俺を信じて吐け!! お前の苦しいの貰うっつったろ! お前が辛いなら、辛いのも貰ってやる! 苦しいも辛いも一緒だろうが! アホ!!」
「っ……でも、お前は、自分のことでもないのに苦しまなきゃいけなくなるんだぞ……!」
「だったら今度はお前が俺の苦しいってのを半分持ってけや! お裾分けしてやるわ!!」
「……~~っ……!!」
だんだん恥ずかしくなって、最後のあたりは自棄になって言うと、弥生はぎゅっと目を瞑って無言で号泣し始めた。
白羅はぎょっとした。
「ばッ、馬鹿雪村! 何で余計泣く!?」
あたふたする白羅に、弥生はもう嗚咽など気にせず、叫ぶようにして言った。
「ばかは……ばかはお前だろ! 俺の気も知らないでっ、かってな、勝手なこと言うなばか白羅がぁあっ!」
まるで幼い子供のように、弥生は泣き叫んだ。
自分が死んだと分かった時すら泣き顔を見せなかったのに、幼なじみに説教されて号泣する弥生に、白羅は胸を締め付けられた。
――お前が隠してることは、そんなに泣くほど辛いことなのかよ……
そう思うと、心臓が張り裂けそうになった。
今すぐにでも聞かなければ。そう思った。
「もう泣かなくていいからよ、何があったのか言えよ」
白羅がなるべく穏やかに言うと、弥生は睫毛にはりついた水滴を手で拭き取った。まだしゃっくりは止まらないが、ようやく話す気になったらしく、何とか涙は止めて口を開いた。
「国島……これから俺が話すことは、きっと、お前をとても動揺させる。もしかしたら、地獄の一丁目ってやつかもしれない。それでも、聞くか?」
「……ああ。聞いてやる」
「……わかった……」
白羅の意思を確認し、弥生は深く頷いてぽつりぽつりと話し始めた。
「この前、通り魔事件を俺たちで解決しただろ?」
「ああ」
「あの時、お前、屋上から落ちそうになったよな」
黒い塊の化け物に吹き飛ばされたことを思い出した。
「……ああ」
「……その時、思い出したんだ……」
「……何をだ?」
白羅は鼓動が早くなるのをおさえて、慎重に聞いた。
もう聞かなくても、勘づいてはいた。
弥生は一拍おき、呟くように答えた。
「俺が、死んだ理由……」
ついに、この時が来た。白羅は全身に力を入れた。
もう、白羅の心が「聞くか聞かないか」で揺れ動くことはなかった。
全身で力んだまま、弥生の瞳を見つめた。
「何でも聞いてやる」という意を込めて。
その意思を汲み取ったのか、弥生は白羅の澄んだ灰色の瞳を見返して言った。
「やっぱり、自殺なんかしてなかった……」
「――っ――」
震える声で発せられたその言葉に、白羅は戸惑わずにはいられなかった。
ずっと、誰からも自殺であると言われてきた。警察ですら、自殺だと処理した。
その、弥生の死因が、今、覆った。
驚きを隠すことが出来なかった。
だが、同時に安心した。弥生は、やはり自分を殺してしまうような人間ではなかった、と。
とろりと、緊張に凝り固まっていた心臓が溶けていく気がした。
ずっと胸に秘めていたことを告白した弥生の目からは、再び涙が零れた。一筋の涙を落としながら、そのまま弥生は曇りのない声で告げた。
「俺は…………殺された」
「……は……?」
現実という鋭いナイフは、白羅の柔らかい心臓に躊躇なく突き立てられた。