亀裂
その日の昼休み、白羅はビニール袋を片手に人気のない校舎裏に来ていた。
この校舎裏は、昔ヤンキーのたまり場となっていたが、静かな場所を求めてさまよっていた白羅が全員追っ払い、今では白羅のサボり場の一つとなっている。
壁のおかげで夏の強い日差しも差すことがないので、今の季節には涼しくて休むのにはベストスポットだ。
白羅はそのベストスポットに座り込むと、ビニール袋から清涼飲料水の入ったペットボトルを取り出し、キャップを開けて一口飲んだ。
そして、周りに誰もいないことを確かめると、大きくも小さくもない声で言った。
「おい、いるんだろ」
そう言った途端、目の前の空間が蜃気楼のように歪み、何処からともなく弥生が現れた。
「……何か用か」
相変わらず難しい顔をして腕を組む弥生はいつも通りの声で呟く。
そんな弥生の様子を見て、白羅はゆっくりと息をつき、持っていたペットボトルを振って見せた。
「コレ、飲むか?」
「……え? ……いや、いい」
「そうか」
短く頷くと、白羅はペットボトルを自分の横にトンと置いた。
「……」
「………」
二人の間に、妙な沈黙が訪れる。
遠くから生徒たちの賑やかな声と、蝉の鳴き声が響く。
「……おい」
その沈黙を、弥生の苛ついた声が払拭した。
「何だ」
「何だじゃない。用があるから呼んだんだろう。さっさと言え」
眉間にシワを寄せる弥生。
その不機嫌な幽霊を、白羅は睨むようにして見つめた。
「じゃあ聞くけどよ」
睨みをきかせたまま、一呼吸おくのも惜しんで白羅は一息に言った。
「お前、何かあっただろ」
「……!」
その一言で、弥生の顔色が明らかに変わった。
怒ったような、失望したような顔をした。
しかし、それでも弥生の返事は変わらなかった。
「……別に、何もない」
「……そうは見えねェけどなァ」
ぐわり、と腹の底で煮えかけたものを何とか抑え、静かに問い続ける。
「何もねぇんだったら、ウジウジしてんじゃねーよ。いつも通りデケェ態度でいろよ」
「何だよ。いつも通りだろ。面倒臭いこと言うな」
弥生は白羅から目をそらした。
その些細な仕草にさえ、腹の底がぐつぐつとゆれる。
足の先から熱が這い上がってくる。
「テメェな、俺が何にもわかってねェ馬鹿だと思ってんのか。人なめんのもいい加減にしろよ」
「………」
ついに、弥生は黙ってしまった。黙って、地面を見下ろした。
僅かに、唇を噛んでいるように見えた。
「俺は、もう嫌なんだよ。お前のことで悩みたくねェ……。あの世とか、この世とか……生きてるとか死んでるとか……」
――違う。
白羅の中でも、燃えるような思いが溢れ始める。
――俺は、こんなことを言いたいんじゃない
「疲れんだよ、お前のその顔見てると」
――違うんだ、雪村。俺は、俺は――
「もう、勘弁してくれ」
――もう、お前のそんな顔を見たくねぇんだよ……!!
白羅の心の声が聞こえるはずもなく、弥生は手が震えるほど強く己を抱き締め、口を引き結んでいた。まるで、身を切り裂かれるのに必死に耐えているようだった。
そうまでなっても、弥生は口を開こうとしなかった。
その時、白羅の中で何かが崩壊した。崩壊させてはならない、何かが。
「っいつまでも黙ってんじゃねぇ!! 何とか言ってみろ!!」
ついに暴発した感情と共に、大声で怒鳴り付けた。傍にあったペットボトルを思い切り地面に叩きつける。
超人的な怪力を持つ白羅によって投げつけられたペットボトルは衝撃に耐えられず破裂し、水飛沫が辺りに散った。
その水飛沫に弥生の表情がより険しくなる。いや、水飛沫にではなく、白羅の怒鳴り声に戦いたのかもしれない。
苦々しい顔で俯く弥生に、白羅は叫んだ。
「お前言ったよな? 『俺が信じられないのか』ってよ。信じられるわけねェだろ! そんなどっち付かずな態度とられて信じられる奴がどこにいんだよ!!」
「……っ」
尤もだ、と言わんばかりに弥生はより深く俯く。あの、少しでも毒を飛ばせば十倍にして返してくるような弥生が。
何も言い返さず、睨み返しすらしないその反応に、白羅は余計腹が立った。腹が立ったというより、虚しかった。前までの弥生なら、きっと鬼のような剣幕で怒鳴り返してきていただろう。
虚しくて、寂しくて、何も言わない弥生に焦れた。何も言えない理由を一人で抱える弥生に、切なくなった。
そして、本音を上手く言葉に出来ない自分にもひどく苛ついた。
「何で言い返さねぇんだよ……! いつもみたいに言い返せばいいだろ! おい!」
その時、弥生が小さく呟いた。
「………ん…」
「ああ!?」
「……ごめん……」
「……!!」
とても、掠れ、震えた声だった。
やっとのことで振り絞った言葉だったのだろう。
白羅は、そのたった三文字に、言葉を失った。
高飛車なゆえに滅多に頭を下げたりしない弥生が、謝った。
ただ一言「ごめん」と。とても重い言葉で。
「そうだよな。信じられるわけないよな。こんな、中途半端な奴……」
自嘲気味に弥生は笑った。
違う。俺はそんなことを言わせたかったんじゃない。ただ本当のことを、話してほしかったんだ、という気持ちが白羅の内側から溢れる。
しかし、声にはならない。
なんて愚かなんだ、と己を呪う。
「国島。俺、お前に言い返せるわけないよ。だって、お前の言ってることは全部あってる。もう勘弁してくれって、信じられるわけないって思うのもわかる。わかるよ」
歯を食い縛って笑いながら、それでも辛そうに肩を震わせて、弥生は言った。
「信じられるわけない。だって、俺が……
お前を信じていない 」
「――……」
白羅は、もう一度言葉をなくした。
弥生の、あまりにも重く、あまりにも強い思いが込められた一言は、白羅の心臓を深く抉ってしまった。
「信じてたら、言えるはずだもんな。今思ってることも、吐き出してしまいたいことも。けど……駄目なんだ。多分、俺、お前のこと信じていないから言えないんだ。言ってしまったら、お前が、どうにかなるんじゃないかと、思ってるから……」
そう言う弥生の声はどんどん掠れ、苦しそうに潰れた。
そうして、弥生は白羅に背を向けた。
「結局……どう足掻いても、俺の存在はお前を苦しめる」
「――っ違う! 雪村、俺は…!」
弥生の頼りない背中を見て、白羅は弾かれたように立ち上がったが、弥生に言葉で制される。
「いいんだ、分かっていたことだ。……それに、もう。もう、間に合わない……」
そう言うと同時に、弥生の身体がすう、と透けた。
「待て! おい!」
景色と混ざりあっていく弥生に声を張ったが、弥生は煙のように消えてしまった。
ざあ、と、温い風がふく。
衝撃的な言葉を投げつけられ、置いてきぼりをくらった白羅は、己の拳を強く握り固めた。
――またか……
声に出さず、苦辛の言葉を口の中でころがす。
――また失敗した。また、言ってはならないことを言ってしまった。
腰をもとの位置に落ち着かせ、白羅は手を組んだ。
白羅と弥生の意見が対立することはしょっちゅうあった。しかし、こんなにもあからさまにすれ違ったのは初めてだった。
『だって、俺が……お前を信じていない』
弥生の言葉を思い出すと、心臓に太い杭を刺されたように感じた。
きっとそれを言った弥生は、自分以上に苦しんでいるだろう。そう思うのに、もう一度弥生を呼ぶ気にはなれなかった。
そんな自分に大きく溜め息をついた。
白羅の背中は、岩でも乗っているかのように重かった。