逆襲 と 終焉 と 本音
「―――ッ……」
白羅は、ゆっくりと目を開けた。
足が地につかず、ぶらぶらと風に揺れている。
自分が何かにぶら下がっているのだと知り、そっと上を見上げた。
するとそこには、自分の手をしっかりと掴んだ弥生がいた。
「ゆき、むら……」
「よし……生きてるな、国島……!」
危機一髪で白羅の手をとった弥生はニヤリと笑って見せた。
そして、どこにそんな力を秘めているのか、片方の手だけで白羅を引き上げる。
「っつ……」
白羅自身も壁に足をかけ、屋上へよじ登った。
九死に一生を得た白羅は、息を切らしながら床に這いつくばった。
「あー……死ぬかと思った……」
胃の中身を戻しそうになる白羅に、まだ白羅の手を強く握っている弥生が項垂れて呟く。
「すまない……俺が気を抜いたせいで、あいつがお前を……」
「……バッカ野郎っ。何でお前が謝んだよ。胸くそ悪ィ」
何時になく悄気る弥生に、白羅は眉間に皺をよせて悪態をつく。だが、弥生は首を横に振った。
「胸くそ悪かろうがなんだろうが、俺が油断したことには変わりない」
それだけ言うと、弥生は白羅の手を離し、向かい合った。
「だから、あの下衆は俺が責任もって滅却する」
目線の先に漂う、怨霊と。
弥生に宣戦布告された怨霊は、巨大な口をぐにゃりと歪めた。
『グァッアッ』
どうやら弥生の発言に笑っているらしい。剥き出しの目玉がぎょろぎょろと回る。
「チッ……いちいち頭にくる野郎だな……」
弥生に対する怨霊の態度を見て、白羅は顔をしかめた。
「つーか雪村。メッキャクって、どうするつもりだよ。あんなデカい奴」
怨霊を睨めつける弥生に問いかける。
弥生は怨霊から視線を逸らさず、呟くようにして答える。
「デカくてもデカくなくても関係ない。力ずくでも奴を屈服させる」
そう言うと、弥生はスラックスの右ポケットに手を突っ込んだ。
「……あまりこの方法は使いたくなかったんだけどな……」
歯を噛みつつ、ポケットから手を引き抜く。
「これから、あいつを強制的に成仏させる」
その手には、一枚の御札が握られていた。
そして、濁りのない真っ直ぐな声調で言い放った。
「……はぁあ!?」
弥生の言葉に、白羅は目を剥いた。
「強制的に成仏」という言葉自体に驚愕したのではない。その事象を、弥生が起こすということに言葉を失ったのだ。
弥生が怨霊を成仏させる。つまり、幽霊が怨霊退治をしようというのだ。
そんな前代未聞の事象が、果たして起こり得るのか。
「んなことできんのかよ!?」
白羅は弥生に問い質す。
弥生は、御札を見て狼狽える怨霊と対峙したまま口元を吊り上げた。
「国島、お前は俺があんな愚にも付かない相手をぶっ飛ばすこともできないって言いたいのか?」
いつも通り横柄な物言いをする弥生だが、その声は僅かに震えている。声だけでなく、御札を持つ右手も小さく痙攣していた。
それでも、弥生は怨霊に対して笑みをこぼして言った。
「俺は、俺の魂を賭けてもお前を滅却させるぜ」
『グ、グァ……』
歯を食い縛ってでも笑ってみせる弥生の気迫に、怨霊は低く唸る。
「とは言っても、お前のような畜生と一緒に成仏するのは御免蒙る。そう言うわけだから、俺の魂が天に召される前にとっとと成仏しろよ、テメェ」
そう言うと、弥生は小刻みに震える手で御札を怨霊に突き出した。
弥生も悪霊ではないとは言え、浮遊霊である。護符のようなものを手にするのは相当耐え難いことのはずだ。
実際、弥生の身体は震え、肩で息をするような状態である。今にも消滅しそうなところを、ぎりぎり耐えているのかもしれない。
「おい、雪村……お前……」
今までに見たこともないほど体力を消耗させる弥生に白羅は慎重に声をかける。
しかし、弥生は白羅の言葉をかき消すように叫んだ。
「国島! 通り魔の子をつれて逃げろ!」
「――ッは?」
「俺はあの世のスペシャリストじゃないんだぞ! 何が起こるか分からないっつってんだ! 巻き込まれたら死ぬかも知れない! ボサッとしてないで早く逃げろ!!」
弥生がそう叫ぶ間にも、弥生の身体はまるで電波を上手く受信できないテレビ画面のようにビリビリとぶれる。
その、風にも拐われてしまいそうな弥生の姿に、白羅は「嫌な予感」を感じとる。
――おいおい……
――世間で言う神様ってのは―――
――コイツの魂まで奪っていくつもりかよ。
そう思った途端、白羅をとてつもない恐怖が襲った。
喪失という恐怖が。
「っ馬鹿かテメェは!」
「――っ」
その恐怖をうち壊すように、白羅は喚声をあげる。
「ば、馬鹿かって……」
「馬鹿だろうが! 俺がテメェをおいて逃げるわけねェだろ!!」
「!」
白羅の心の叫びに、弥生はハッと振り返った。
立ち上がった白羅の灰色の眼には、怒りの色が染み込んでいた。
「―――っ」
その眼を見て、弥生は、一瞬だけ目を見開いた。
そして、震える唇を開き、何かを言いかけた。
しかし、声にする寸前でその口を閉じ、フンと笑った。
「俺は心配“される”側なのか、国島。よく状況を考えてものを言え」
弥生は視線を怨霊に戻す。
全く前言撤回しそうにない弥生の受け答えを聞き、白羅は額に青筋を浮かべた。
「っお前なぁ……! いい加減に……!」
「馬鹿はお前だ! 死んだ奴の心配する前に、自分とそのガキの心配をしろ!!」
「ッ!!」
白羅はぐっ、と息を飲んだ。
弥生の言葉に、心臓を鷲掴みにされたように感じた。
弥生の「死んだ奴」という言葉に。
弥生にとって、その言葉がどれほど重いか。その言葉の意味がどれほど辛いか。そして――その言葉を口にしてでも、白羅を逃がしたいという気持ちが、どれほどのものか――
白羅にはその「どれほど」がわかっていた。
わかるからこそ、逃げたくなかった。
――そんな、自分の魂まで賭けるような奴をおいていけるほど、俺は……
「馬鹿じゃねぇ」
その一言を合図に、白羅は弥生に駆け寄り、その手から御札を取り上げた。
「っな!? おま……っ」
いきなり背後から切り札を奪われ、弥生は滅多に発することのない間の抜けた声をあげる。
面食らう弥生を後ろに、白羅ははっきりとした声音で背後の幽霊に言い放った。
「似非秀才、テメェに教えといてやるよ」
奪い取った御札を右手に巻き付け、固く拳を作る。
そうして、振り返らずに言った。
「本当の馬鹿ってのはなァ……自分可愛さに、ダチを見捨てるような奴のことなんだよ」
それだけ告げ、白羅は走った。
自分の友人を傷つけ、そして友人の魂を犠牲にさせようとした怨霊に向かって。
「っ国島!!」
弥生の悲鳴が聞こえる。
しかし、白羅は足を止めなかった。止めるつもりなどない。
疾走して心拍数が上がるのとともに、梓たちを傷つけられた憎しみが再び溢れだす。
あんな、姿も存在もあやふやなモノに友人を襲われた。自分の命を奪われかけた。弥生の魂を、奪われそうになった。
あらゆる憎しみ、恨みを力へと変換して、白羅は床を蹴った。
大きく跳躍した白羅を、怨霊が見上げる。見上げたまま、白羅を飲み込もうと巨大な口をこれでもかというほど開けた。
洞穴のような、どこまでも続く闇だった。
それでも白羅は怯まず、憎しみと怒りに染まった声で叫んだ。
「テメェのしたことを後悔しやがれ!!」
御札に覆われた拳を高く振り上げる。
重力に任せて、身体と一緒に鉄拳を振り下ろす。
「失せろォォオ!!」
白羅の右手は、吸い込まれるようにして怨霊に突き込まれた。
突き込んだのとほぼ同時に、白羅の拳が銀色の眩い光を放った。
銀色の光は瞬く間に周囲に広がり、怨霊の眉間に突き刺さった。
『グォオアアァ!!』
身体中を光に貫かれ、怨霊は地鳴りのような唸り声をあげる。
余りに激しい輝きに、離れていたところにいた弥生さえ思わず目を覆う。
その目を潰す光の中でも、白羅は拳を怨霊に突き立てたまま力を緩めることはなかった。
『ヴァアアッ……オォア……ォオオァア!!』
苦しみに耐えかねた怨霊が絶叫しながら白羅に黒い触手を伸ばす。
蛇を連想させる幾本もの手が空気を裂きながら白羅に襲いかかる。
しかし、その手が白羅を突き刺す前に、傍観する形になっていた弥生が、光の壁を突破し、白羅の横まで駆け抜け、触手を蹴りで払い除けた。
奇襲に失敗した怨霊の全身は悪霊を滅する光に包まれ、徐々にその姿を消失させる。
『ヴォ、ォオォオオオ……』
怨霊は最後に大きく声をあげた。
そして、あっけなく、炭か灰のように、砕けた。
御札が放った光とともに風にさらわれて消え失せる。
怨霊だった黒い塵が夜空に舞っていく。
つい先程まで戦闘が繰り広げられていた屋上に、不気味なほどの静寂が訪れる。
「おわった、のか……?」
黒い塵までもがきれいに消滅したのを確認して、拳を突き出した体勢のままだった白羅はその場に座り込んだ。
空を見上げると、月明かりが静かに屋上を照らしていた。
「国島!」
白羅と同様に怨霊の最期を見つめていた弥生が、白羅がしゃがみこむのを見てはじかれたように駆け寄ってきた。
「おー。ガキは大丈夫だったか」
「ああ。気を失ってはいるけど平気みたいだ」
白羅の質問に、屋上の隅で倒れている通り魔少年を示して答える。
白羅が大した怪我をしていないことを確認して、弥生はゆっくりと溜め息をついた。
しかし、どこか一点を見た途端、その眼を見開いた。
「国島、その腕……!」
「あ?」
弥生の言葉に、白羅は自分の腕を見た。
そこで初めて、自分の右腕が火傷でもしたように真っ赤に染まっていることに気が付いた。
怨霊に拳を叩き込んだ方の腕だ。手に巻き付けてあった御札は横に二つに破れていて、役目を終えたかのように黒ずみ、萎びていた。
そんな酷い状況なのに、白羅は腕に痛みを感じなかった。赤く変色した腕より、怨霊に殴られた頬のが痛かった。だから赤くなった腕に気が付かなかったのだろう。
ひでぇ色だな、と思いつつ、白羅はいつもの気だるい態度で応える。
「いや、赤くなってるだけで痛みはねェし、平気だ」
「平気って……」
「んなことより、お前のほうこそ大丈夫なのかよ。幽霊ってのは札とかダメなんじゃ……」
「っ――!」
その時、白羅の視界が鈍い痛みとともに高速でぶれた。
同時に、バチーンッと皮膚がひっぱ叩かれる音が響いた。
まさに「バチーンッ」だった。「パン」でも「パシン」でもなく、思い切り振りかぶった手が無防備な頬を叩く、「バチーンッ」だった。
「……!? ……ッ!?」
突然すぎる弥生の平手打ちをくらい、白羅は痛みと驚きに声が出ない。
叩かれたのは怨霊に殴られた頬とは逆の頬だったが、先刻の怨霊の鉄拳よりも、今の弥生の平手打ちのほうが三倍痛かった。
きっと今にも頬に赤みが差しているだろう。じんじんと痛みが広がる。
殴られた意味がわからなかった白羅は、五秒ほど硬直していたが、ハッと我に帰ると弥生に向かって声を張り上げた。
「テメェ!! いきなり何しやが……」
しかし、その怒声は途中で遮られた。
最後まで言う前に、弥生に襟首を掴みあげられたからだ。
「っな……」
「この馬鹿野郎が! 軽率な行動しやがって!」
「んだと……」
「下手したら死んでたんだぞ!!」
「――ッ…!」
悲鳴をあげるように怒鳴る弥生に、白羅は言葉を失った。
白羅の襟首を掴んだ弥生の瞳は、月明かりしか差さない闇夜の中でもはっきりと分かるほど揺らいでいた。
唇は震え、手は強く握り固められている。
「お前はいっつもそうだ! 肝心な時に言うことを聞かない! 何で俺の言うこと聞いてくれないんだよ!! そんなに俺が信じられないのか!」
まるでダムが放水するかの如く、弥生は思いの丈を吐き出す。
必死な叫びが白羅の耳だけに響く。
「雪村……」
自分の感情を抑えられない弥生は、白羅の前で額に手をあてて項垂れてしまった。
そして、透けかかった肩を僅かに震わせながら呟いた。
「お前が死んだら……俺はどうしたらいい……」
そう言う弥生の声は、掠れていた。
「………」
白羅は、鼻から深く息を吸い、口からゆっくりと吐き出した。
そうだ。自分はもう少しで死ぬところだった。弥生がいなかったら、確実に死んでいた。
今になって、そのことを実感する。
死んでしまった弥生にはわかるのだろう。
死んだあとに何が待っているか。
「……悪かったよ。心配かけたな」
自分の不甲斐なさを悔やむ気持ちを含め、白羅は謝った。
その白羅の言葉に、弥生の肩の震えがピタリと止まった。止まったかと思うと、いきなり勢いよく顔をあげた。
「……別に、心配したんじゃない。馬鹿な真似をするなって言ってんだ」
鼻の頭を赤くしたまま、弥生はいつもの調子で答えた。
すん、と鼻まですすっていたが、白羅はそれを指摘することはせず、小さく笑った。
「そーかよ」
からりと笑う白羅の声が、星が輝く夜空に柔らかく響く。
優しい月明かりが、二人に降り注いでいた。
「あー、背中いてぇ……」
白羅と弥生は事件の後始末をすると、さっさと学校を後にして帰路についた。
虫が静かに鳴く土手を二人でのろのろと歩く。
「骨にヒビでも入ってんじゃねェかっつーくらい痛ぇんだけど」
「お前が無茶するからだ。帰ったら大人しくしとけよ」
その前に風呂に入って顔や手の血を洗いたいと思いつつも、白羅は話題を切り替える。
「結局、あの意味わかんねぇバケモンは何がしたかったんだ?」
白羅の問いかけに、弥生は首を傾げる行為もせずに即答する。
「さあな。あれは怨霊の集合体みたいなものだ。自我なんてものはほとんど存在していないようだった。そんなものがすることなんざ想像できない。くだらない恨みでもあったか、その恨みを共有してくれる仲間でも欲しかったんじゃないのか」
あんなクソ野郎のことなんてどうでもいい、と言わんばかりの適当な答えだ。
白羅も別に本当に気になっていたわけでもなかったので「そうか」とだけ返した。
「つーか、このガキどーすんだ」
そんなことよりも、小脇に抱えた通り魔少年をどうするかということのほうが気になった。
夜の学校に放っておくこともできずに連れ帰ったのだが、家がどこかわからないので送り届けることも出来ない。
つい数分前にその事に気付いた。
弥生もそこまでは考えていなかったらしく、ふむ、と顎に手を添える。
「もう怨霊に操られて事件を起こすこともないだろうし……交番前に放り投げとけば保護されるんじゃないか? アイスピックは一応捨てておこう」
「あー、めんどくせェな……交番ってこっからあんま近くねぇだろ」
ぶつくさと文句を言いながらも、白羅は少年を担ぎ直す。
そんな白羅を見て、弥生ははたと思い出したように言った。
「そういえば国島」
「あ?」
「お前、俺の偽物が現れたとき、どうして奴が偽物だって分かったんだ?」
そっくりだったと思うけど、と弥生は首を傾げる。
白羅は担いでいた少年を背中に背負いなおしつつ答えた。
「確かに、アレはそっくりだったな。まあ、見た目だけだったけどな」
「と、いうと?」
「別に言うほどのことじゃねェけど……あいつ、俺を殺そうとしたとき、俺のこと……」
「お前のこと?」
「『白羅』って呼びやがった」
「は――?」
そう言った途端、弥生は目を見開き、立ち止まった。つられて白羅も立ち止まり、弥生を見つめる。
「お前、高校生になってから国島としか呼ばなくなっただろ。俺は結構気にしてんだぞ。そのこと」
白羅が言う通り、弥生は幼馴染みにもかかわらず白羅を名字で呼んでいた。幼い頃は名前で呼んでいたが、年を重ねてからは名前で呼ぶことはほぼなくなっていた。
しかし、弥生は納得いかなかった。
「……よくそんなことで判断できたな。俺だってたまには下の名前で呼ぶだろう」
「たまーにじゃねェか。それに、それだけじゃねぇよ」
呆れる弥生から顔をそらし、白羅はぼそりと呟いた。
「お前は……あんな弱い奴じゃねぇだろ」
「……!」
弥生の顔が再び驚きに満ちる。
顔をそらした白羅にはその顔は見えていない。
「うぜぇくらい弱音吐かねェし、アホかっつーくらい強がりだろ。お前は」
白羅はもう一度振り返って弥生を見据えると、弥生の鼻先に人差し指を突き出した。
「お前はな、生意気で自分勝手で似非秀才だけどな、俺ん中じゃ誰にも負けねぇくらい頑固っつーか……強い奴なんだよ」
これ以上はないのではないかと思うほど、白羅は素直に思いをぶちまけた。いつもならこんなことは口が裂けても言えないが、この時はなぜか当然のように言えた。屋上での弥生の言動に感化されたのかもしれない。
「………」
そして、素直な思いとやらを告げられた弥生は、当然のようにポカーン、と情けない顔を晒していた。
見たこともないくらい間抜けな顔だった。
その顔のまま、弥生は微動だにしない。白羅を見つめたまま、ポカン顔を晒し続ける。
その顔を見ているうちに、白羅はだんだん自分が物凄く恥ずかしいことを言ったのではないかと思い始めた。考え始めるとその思考は一向に止まず、羞恥のあまり顔が熱くなっていくのが分かった。
そうなると弥生の間の抜けた顔さえ自分を羞恥に陥れようとするひとつの悪に見え、耐えかねて声を張り上げる。
「おい! お前何か反応し……」
しかし、白羅の叫びはまたもかき消されてしまった。
弥生が究極のポカン顔をくしゃりと歪めて発した笑い声によって。
「ぶっははは!」
「っんな!?」
はじかれたように笑い始めた弥生に、白羅は思わず身を引く。
今の会話のどこに笑いどころがあった? ついにおかしくなっちまったのかコイツは、などと思考が巡る。
白羅の思考の行き先など知らず、弥生は拳で口許を隠しながら小気味良く笑う。
笑いながら、目尻に薄く浮かんだ涙を拭って言った。
「お、お前、よくそんな恥ずかしいこと言えるな! ちょっと照れちゃったじゃんか!」
「っは、はずか……!?」
「反応に困るわ! あっははは!」
「~~っ笑ってんじゃねぇ! 人が真剣に話してやってんのに!!」
あまりにも弥生が笑うので、白羅はいたたまれなくなって弥生にくってかかる。
「別に、馬鹿にして笑ってるんじゃないぞ? ただ、いいこと聞いたなー、と」
ニヤニヤと笑う弥生の顔には、確かに普段の人を小馬鹿にした色は見られないが、どうも信用できない。
優越感に浸っているような、勝ち誇ったような笑顔に見える。
どちらにしろ白羅は気に入らなくて、顔を真っ赤にしたままニヤニヤする弥生に背を向けた。
「っちくしょう! 俺ぁもう帰る!!」
捨て台詞のようにそう叫ぶと、通り魔少年を背負ったままズンズン歩いた。荒い歩調に少年が目を覚ますことも考えられたが、今の白羅にとってはそんなことはどうでもよかった。
「ったく、冗談も通じないのか」
長い足で大股に歩いていく白羅の背中を見て、弥生は鼻から息を吐いた。
そして、わずかにその眉尻を下げた。少年を背負う白羅に。その父親のような姿に。
――そろそろ、潮時だろうか……。
ふと、そう思う。
弥生は死んでから時々、白羅の未来を垣間見ていた。
彼が友人と笑っているとき、梓と話しているとき、時々見せる父親のような姿――
自分が、それを眺めることしか出来ないと分かるとき――弥生は自分と白羅――あるいは「この世」との間に敷かれた深い溝に気づかずにはいられなかった。
その溝を垣間見るたび、自分は一刻も早くここから去るべきではないかと思う。
彼のためにも、自分のためにも、この世から断絶されなくてはならないのではないか。
自分の“ある秘密”を思い出した今、それは余計急がれることに思えた。
あまり彼と「あの世」の繋がりを深くしてはいけない。自分と彼との間のものを強く結んではいけない。
そして、自分の“ある秘密”も話すべきではないだろうと思う。話しても、彼にはどうにもできない。
結局、苦しむのは彼なのだから。
しかし、頭ではそう思っても、やはり弥生の心はこの世からの断絶を拒否していた。
「本当の死」を、受け入れたくないと悲鳴をあげていた。
――俺は、この世に未練がありすぎる……
弥生は、死んでもなお張り裂けそうに痛む胸に手をあて、誰にも届かぬように小さく呟いた。
「……国島、俺はお前が思うほど……つよく、ないんだよ……」
自分で言ったにもかかわらず、その言葉は深く心を抉った。
「おい、どうした。帰るっつってんだろ。とっとと来いよ」
先を歩いていた白羅が、顰めっ面で振り向く。
その顔すら、ひどく懐かしく――
「……ああ」
弥生は、苦し紛れに笑って返事をすることしかできなかった。
――ああ、やっぱり俺は弱い。
だって、ほら。
お前にそんなことを言われるだけで、
心臓が破れそうに痛むから――