8話
◆8話
銀髪を結い上げた、ドレスの老婦人が奥から現れた。
腕にはさっきの、三毛猫を抱いている。
「そうですか……」
紅茶を入れながら老婦人は相槌を打った。茶器はウェッジウッドの年代ものだ。
私たちは猫の洋館で老婦人に強くすすめられてお茶をいただきながら、長崎に来たいきさつを話していた。
でも残念ながら、老婦人も彼の姿は見てないとのことだった。
「これは私が焼いたカステラよ。市販のと比べると一味足りないかもしれないけど。おあがり」
黄金色のそれは謙遜とは正反対に見事にふっくらと焼けていて旨そうだった。
トモミは歓声をあげてさっそくフォークでそれを切り始めた。
私も手をつけようとした、そのときだ。
飾り棚の上で見張っていたさっきの三毛猫が、急にテーブルの上に飛び降りてきた。
そして素早く私の皿の上からカステラを奪って奥へ逃げた。
「これ!」
老婦人は猫を追って奥へ走った。
しかし私は少しほっとしていた。
もともと甘いものが苦手なうえに、ケンジのことが心配で食欲がない。カステラはとてもじゃないけど食べられなかったのだ。
「ほんとに……、みんな手癖が悪いんだから。」
老婦人が戻ってきた。
「それがね、キッチンにいったらカステラはみんなあのコたちに食べられちゃってたの。すぐ代わりのお菓子を焼くわね」
「いえ、あの…、今トモミに少し分けてもらっていただきました。とっても美味しかったです」
「そう、でも……」
そのとき、私のケータイが鳴り出した。私が心臓が停まるほど驚いたのは、ケータイが静寂を破ったからではない。
このメロディは彼からのメール!
「にげろ」
たったそれだけがメールの言葉だった。
心臓がばくんばくんと音をたてはじめた。
「あ、あの私たち、予約入れてることがあるので、失礼します」
「そう……。残念だわ」
私は逃げるように洋館を後にした。別段老婦人が追いかけてくる様子はなかった。
「ユウコ〜、待ってよ、どうしたの?」
トモミには何故か理由を話せなかった。
夜、私たちは思案橋近くのホテルに泊まっていた。
私はずっと眠れず、シーツの暗闇の中でさっきのメールを眺めていた。
「にげろ」あの時彼は近くにいたんだろうか。
にげろ、というのはあの老婦人からという意味だろうか……。そんなことを思いあぐねているうちに少しまどろんだらしい。
「ユウコ、ユウコ」
私はトモミに揺り起こされて目を覚ました。
時計を見ると夜中の3時をだいぶまわっている。
「何?」
私は体を起こさずトモミの顔を見た。
「行かなくちゃ」
「どこに」
その問いには答えず「いいから!」とトモミはすごい力で私の腕をつかんで引き起こした。
仕方なく着替えると、トモミはフロントに電話をかけてタクシーを頼んでいた。
「ちょっと、どこに行くのよ」
タクシーの中でもトモミは私の問いかけにはまるで答えず無言だった。
いつもの能天気で陽気なトモミではなく、何かにとりつかれたように目はうつろなくせにじっと運転手越しにタクシーの行く先一点を凝視している。
ようやくタクシーが到着したのは市電の終着駅だった。
小さな車庫に車両が2つ納まっている。
昼間は忙しく街をにぎわしている市電とは別の物体のように静かに沈黙していた。
トモミもそんな車両と同様呆けたように車両の軌道の延長上で立ち尽くした。
「どうしたのよ、さっきから、トモミ」
私がトモミに近寄ったとたん、市電がカッっと目を見開いたかのように見えた。
突然トモミの前にある電車のヘッドライトが光ったのだ。
トモミと私の身体はまぶしい光に照らされた。
そのとたん信じられないことが起こった。手をかけていたトモミの身体が振るえだした。
「トモミ?」
トモミの身体は見る間に小さく縮んだ。……そして、目の前には一匹の小さな白猫が現れたのだった。
夢のようだった。
「トモミ!?」
「お前はどうして変わらないんだえ?」
市電から降りてきたのは昼間の老婦人だった。白猫は老婦人が出てくると一目散にすりよった。
「ようし、いいコ、いいコだ。そうか、お前、カステラを食べなかったんだね。……私はね。猫以外には興味はないんだよ!」
→終章その1へ続く