【プロローグ】とある旅人の手記より
この世界にあるのは一つの大陸のみ。
それと海の向こうに小さな島国が一つ。その先は知らない。
だが少なくとも私の生涯の中ではこの大陸が唯一の生きる世界である。
だからこそ、知りたい。そして、記憶していきたい。
◇ ◇ ◇
その屋敷はこの辺りでも有名な温泉街の西側にある小高い丘の上にひっそりと佇んでいた。長い戦争がようやく終わり温泉街も最近になってますます活気づいている中で、その周辺は時代に取り残されたかのごとく、昔ながらの小さな農村と畑が点在しており非常に閑静な雰囲気を醸し出している。
周りの木の葉ももう赤みがさしている時期になり、一帯にはもう少しで収穫という頃合いの麦畑が、秋の優しい日差しを浴びながら風に煽られている。
屋敷までは東の温泉街から普通に歩いて30~40分程度と行った所だ。そう遠くはない。
しかし思いのほか涼しい秋風が気持ちよくゆったりと歩いていたら、危うく約束の時間に遅れそうになったので、途中からは小走り気味になり、結局屋敷に続く小道に差し掛かったときには息が軽く上がってしまっていた。背中も少し汗をかいてしまったみたいだし、ううむ我ながらみっともない。
屋敷までの道一帯にはどっしりとした広葉樹の森が生い茂っていたが、手入れはきちんとされているらしく、下草は奇麗に刈り取られ、時折通り過ぎる小動物達も非常に大人しい。
まるでどこぞの貴族らの別荘みたいな、品の良さが感じられる。
…さて、ようやく屋敷についた。
穏やかな雰囲気の道のせいでやけに際立って重厚に感じる門が私を出迎える。これは戦争時代の名残だろう。昔はこの前に門番も立っていたのだろうが、すでにこの屋敷はその役目を終えている。今は女性が一人住んでいるのみだ。
門から屋敷まで距離は割とある。どうやって中の人を呼ぶのかというと…
おっと、一つ訂正しなければならない。
先程門番がいないと言ってしまったが、これは間違い。どうやら「彼」に失礼してしまったようだ。正確には門の少し奥の小さな小屋にその役目を担う者がいた。もっとも小屋と言っても人間が入れる大きさのものではない。
「彼」はこちらの存在に気づくと、その黒い図体をのっそりと動かして屋敷の方まで歩いて行き、おんおんと窓の方に向かって吠えだす。主に伝わったとみると、再びこちらの方に尻尾を左右に振りながら歩いてくる。泥で汚れていて気づかなかったが、よく見るとその右前足にはぼろぼろの包帯が巻いてある。
私が目の前の人懐っこそうな犬に気を取られていると、向こう側から、がちゃりと屋敷の大きな扉が開きこの家の主が出てくる。
落ち着いた雰囲気に見る者の警戒を無くさせるような穏やかな目。黒と白を基調とした使用人服は年季が入っているが、不思議と汚れている感じはしない。髪や指にも装飾品など一切身につけていない。もう三十半ば過ぎだとは聞いているが、顔の皺もあまり見当たらず若々しさを保っている。特別人里離れたというわけでもない、こんなに大きな屋敷に一人で住んでいるというのに、一切の贅が感じられない。
だがそれもそのはず、彼女自身は元々この家の使用人だったのだ。そして、この屋敷の主は既にいない。かつてここに住んでいたものは戦後、あるものは故郷に帰り、またあるものは新たな生きる目的を探して各地へと旅立って行ったらしい。
今は彼女一人でこの屋敷を守り続けている。
「お待ちしておりました。さぁ、中へどうぞ」
彼女はそう言うと門を開け、私を屋敷の中へと案内する。流石に使用人歴が長いらしく、扉を一つ開ける動作にしても素晴らしい。一つ一つの挙動が見ていて気持ちがよく、客人への応対は◎をつけたくなる。既に主を失っていても、彼女の心の中ではまだこの屋敷の使用人でなのであろう。
案内された一室には部屋の中央に幅広いテーブルが置かれていた。どうやら食事用の居間らしい。上座の左手に大きな窓があり、外の光を存分に取り入れている。上座の後ろにはかつての主と思わしき公爵の肖像画が携えられていた。私は彼女に促されテーブルの中央付近の椅子に座った。開放された大窓から秋の日の光と、時折聞こえてくる小鳥のさえずりが取り込まれる。
「静か… というか、のどかですね… もう一人で住んで何年くらいになるんですか?」
私は出された紅茶を口にしながら、いそいそと茶菓子を用意する彼女に問いかけた。
「もう8年くらいでしょうか…」
彼女は焼菓子を底の深い木の器に入れてテーブルの上に置き、自らも椅子に腰を下ろす。
「ほう。8年も一人で…」
「いえ、たまにここで働いていた子達が遊びに来てくれますし、私は温泉街の方にもよく行きますので」
庭の方からわんわんとやけに元気な声が聞こえてくる。
「…僕も忘れないで、ってことですかね」
「そうでしょうね。彼は耳がいいので」
思わず互いに笑みがこぼれてしまう。それと同時に安心した。
「ところで彼は前足に包帯をしていましたけど… 何か怪我でも?」
「怪我は既に治っているんです。あまり走る事は出来ないのですけど。彼が包帯を取りたがらなくて」
「それは何故?」
「多分、包帯を巻いてくれた子を忘れられないんでしょうね…」
女性は少し憂い目をする。これはあまり触れてはいけない話題だったのだろうか。だが当時の状況を考えれば大体予想はつく。少々心苦しいが、これからそのことについて話して頂かなければならない。それが私がここを訪れた理由なのだから。
昨日東の温泉街を訪れていた時に、この付近に駐屯していた曰く付きの部隊の噂をたまたま耳にした。そこへ偶然にも買い出しに来ていた、かつてその部隊の世話を行っていたという目の前の女性と会う事が出来た。そしてぜひ取材させて欲しいと頼み込み承諾を頂いた。
実にご都合的主義な話の進み方だが、これも神の思し召しだと思っておこう。物事は上手くいくときは、トントン拍子に進んでいくものだ。
私たちは軽い談笑を5分ほど続けたが、やがて双方ともそろそろ本題に入ろうという雰囲気になり、会話が一旦止まる。私は使いこまれて少し黒ずんだ筆記長と、これまた長年の相棒のペンを取りだした。
「さて、それではお話を願えますか」
「ええ。私は戦場での彼らを見ていたわけではありませんが…」
「いやいや、戦場では人は変ってしまうと言います。私が何よりもお聞きしたい、そして後世に残したいのは彼らの素顔なのです」
そう言うと女性はかつての戦争当時のことを語り始めた。まるで子供に昔話を語りだす口調であったが、その内容は所々生々しく、悲惨なものであった。だが彼女の話す表情を見ている限り、決してその時が不幸の時代では無かったようにすら感じてしまう。人にとっての不幸とはその爪痕… 残された者、痛み、記憶。
私はただ記録していく。
この戦争の果てにある世界へと、ただ人々の記憶を伝えるために。
私が知る真実の一つ。
まずはとある少女と青年の物語。
とりあえずプロローグです。
最初の5話がプロローグとなりますが、世界観はあまり語りません。
話の雰囲気を感じていただけたらと思います。