「ちゃんとつかまって!」
二階のベランダの窓を開けると、澄んだ秋の朝空に白い雲がなびいていた。
すっかり冷たくなった風がカーテンを揺らす。
……今日は洗濯物がよく乾きそう。
早く干して、娘の奈菜を保育園に連れて行かなくちゃ。
「……あら」
私は洗濯物を干そうと視線を落として、首を傾げた。
――洗濯物がない。
「――持って上がるの、忘れちゃったのかしら」
洗濯機は一階の浴室の脱衣所にある。
洗濯が終わったあと、籠に入れて満足して、持って上がるのを忘れてしまったのかもしれない。
「……取りにいかなくちゃ。保育園に遅れちゃう……」
私は慌てて部屋を出て、階段に向かった。
階段を一段下りようとしたそのとき――
「つかまる!」
鋭い声が私を制止した。
顔を上げると、険しい形相をした女性が私を見つめていた。
「階段降りるときは手すりを持って! ゆっくり降りて!」
女性は必死な表情で私を見つめた。
「落ちたら大怪我するか、最悪死ぬよ!」
……たかが階段を降りるくらいで、そんな大袈裟な言い方をしなくても。
私はむっとして女性を見つめた。
白髪が根元に見える黒髪を雑に横で縛った女性は、心配そうに見守るような表情で私を見つめていた。
――これは、私?
娘の奈菜は、歩くのが遅かった。
ゼロ歳から保育園に預けていて、他のクラスの子たちは一歳クラスに上がるころにはほとんど歩くようになっていたのに、奈菜はようやくつかまり立ちができるくらいだった。
心配して、市役所の相談に行った。
発達相談を受けていた理学療法士さんに、療育に行くように勧められた時は、思わず泣いてしまった。
普通の子と違うのだろうかと。
ようやく歩いたのは二歳を過ぎてから。
どうやら体幹が弱く、身体のバランスが悪いらしい。
歩き始めてもふらふら歩いていて、よく転んだ。
歩行を安定させるオーダーメイドの靴を作ることを勧められた。
転ぶことも必要だ。けれど転んだところに車や自転車が来たら大変だ。
階段から落ちたら――
そうやきもきしすぎて、階段の上り下りの際には、つい強く言ってしまった。
『階段を降りるときは手すりを持って! ゆっくりよく見て降りるのよ! 落ちたら大怪我するか、最悪死ぬんだからね!』
私ははっとして女性を見た。
「――もう、二階は行かないでって言ってるのに。ちょっと目を離したら――」
そうぼやきながらこちらに向かって階段を上がってくる、あのときの私みたいなこの女性は――
「奈菜」
私は女性を見つめて呟いた。
そうだ。彼女は奈菜だ。
奈菜ははっとした顔で、階段の途中で止まった。
「お母さん? 私がわかるの?」
私は奈菜に向かって手を伸ばした。
私の手は、しわだらけのおばあさんの手だ。
私――いくつだっけ。そうだ、もう七十四――
「あんたも、立派なおばさんになったねえ」
私は奈菜を見て呟いて、笑った。
「大怪我だとか死ぬだとか、ちょっと言い方がきついわよ。……でも、仕方ないわねえ。私が言ってたんだから」
私は奈菜の手を掴むと、詫びた。
「きつい言い方してごめんね。怪我しないか心配だったのよ……」
奈菜は一瞬言葉を詰まらせると、目元をぬぐった。
「きつい言い方って自覚あったの? あれ、言われるの怖くて嫌だったよ」
「そうねえ。あんたは一生懸命やってたのにね」
奈菜は何か言いかけて、やめた。
奈菜は私と手をつないだ。
「ゆっくり降りてよ。デイケアのお迎え、もう来るよ」
でいけあ。
私は言葉を頭の中で反復した。
そうだ。私は奈菜を保育園に預けてから、仕事に行くんじゃない。
もう歳だから、私が面倒を見てもらうところに行くんだっけ。
塗り絵をしたり、歌を歌ったり……、おやつも出る。
最初は嫌だったけれど、慣れると子どもの頃に戻ったみたいで結構楽しかったりするのよね。
――それが、今の私の仕事。
私は顔を上げた。
見覚えのある顔の女性が私と手をつないでいる。
親戚にも似た顔だし、誰か親戚の人よね。
私は女性に頭を下げた。
「――いつもありがとうございます。私、奈菜を保育園に預けて、仕事に行かなくちゃ――先に洗濯物を干して……」
そう呟くと、女性は一瞬止まって、それから微笑んだ。
――少し、寂しそうに。
「奈菜ちゃんはもう保育園に行きましたよ。仕事のお迎えが来ていますよ」
「そうですか。ありがとうございます」
私は頭を下げた。
仕事へのお迎えの車が来ている。
職場まで送ってくれるなんて、ありがたい。
送迎車から出てきた人が、丁寧に手をとってくれる。
「早瀬さん――、お元気そうですね。行きましょうか」
女性は「お母さん、行ってらっしゃい」と私に手を振った。




