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明日の足音

作者: 真核生物
掲載日:2026/10/07

下の階から、明日の足音について苦情が来た。

指定された時刻には、娘と公園へ行くつもりだった。


〈明日、午後四時十二分。二〇一号室。幼児の走行音〉


二歳の娘は、私の膝につかまって紙をのぞいた。

「こうえん?」

「そう。明日は公園」


引っ越して三日目だった。階下への挨拶では誰も出ず、管理会社には子供がいることを伝えてある。紙の隅には〈一〇一号室に届く音〉とあったが、差出人の名前はなかった。

私は紙を冷蔵庫に貼った。日付を間違えた苦情でも、足音への注意にはなる。


翌日は雨だった。

娘が窓から離れず、私は洗濯物を部屋に干した。乾いた靴下を丸めて投げると、娘が笑って追いかけた。

携帯電話を見ると、四時十二分だった。


私は二つ目の靴下を握ったまま、床を見た。


翌朝、同じ紙が郵便受けに入っていた。


〈明日、午前六時四十分。二〇一号室。電気ケトルの沸騰音〉


裏には小さく、〈現在の生活を続けた場合の発生見込みです〉と印刷されていた。その下に〈消音を承諾する〉という欄と、署名のための線があった。


管理会社へ電話した。担当者はそんな用紙を配っていないと言った。写真を送ると、確認して折り返すという。

私はケトルの底を見た。中古で買った古いものだった。家電の振動を止める工事なら助かると思い、欄に名前を書いた。用紙の指示どおり、一階の集合ポスト脇にある箱へ入れた。


翌朝、ケトルがなかった。

丸い給電台は残っていた。コードも差さったままだった。

棚とごみ袋を調べ、娘にも聞いた。娘は給電台を指して、

「おゆ、ない」

と言った。


六時四十分。いつもならお湯を沸かす時刻だった。


私は管理会社へもう一度電話した。担当者は、箱は昔からあるが、会社では使っていないと言った。鍵の管理もしていない。誰が家に入ったかは分からないので、警察へ相談してほしいと。

警察に事情を話した。窓と玄関を調べ、なくなったものを聞かれた。ケトルだけだと答えた。用紙は箱の中で、箱は開かなかった。


その日の夕方、一〇一号室を訪ねた。

年配の女性が、チェーンを掛けたまま戸を開けた。

足音のことを謝ると、女性は首を振った。

「出してませんよ。苦情なんて」


用紙とケトルの話をすると、戸の隙間が少し広がった。

奥に小さな食卓が見えた。湯飲みが二つあった。


「主人のいびきで、眠れなかったんです」


女性は、私の持っている給電台を見た。

「音の出るほうが、なくなるのね」


私は夫が今どこにいるのか、聞けなかった。

女性が戸を閉める直前、

「書いちゃだめよ」

と言った。


帰ると、郵便受けに紙があった。


〈明日、午前七時六分。二〇一号室。幼児の走行音〉


私は破って、ごみ袋の底へ押し込んだ。

娘を連れ、駅前のビジネスホテルへ行った。妹には、家に誰かが入ったかもしれないと電話した。翌日の昼なら迎えに来られるという。


朝、ホテルで娘に靴を履かせた。娘は廊下を走ろうとした。

「静かに」

思わず手をつかんだ。娘が振り返った。

携帯電話は七時六分を示していた。


七時半に部屋へ戻った。娘は玄関で靴を脱ぎ、抱っこを求めた。必要な荷物だけを持ち出すつもりだった。


ごみ袋の底に、破った紙があった。破れ目はそのままだったが、〈明日〉が〈明後日〉に変わっていた。

午後、妹が迎えに来た。私はケトルの給電台と、破れた用紙も鞄へ入れた。管理会社への退去の連絡は、車に乗ってからした。


妹の家で、娘は借りた積み木を並べた。

一つ倒れるたび、私を見た。

私は電話を置いて「いいよ」と言った。娘は倒れた積み木をゆっくり拾った。


翌朝、用紙の日付がまた延びていた。


妹は朝食を作っていた。娘は台所へ行きたがったが、私は膝に載せたまま離さなかった。

この家なら平気だとは、もう思えなかった。


「足音が嫌なんじゃないの」

妹が言った。

「その紙が怖いんでしょ」


娘は私の腕の中で、床を見ていた。


私は紙を持ち、何度も読んだ。

差出人の名前はない。〈一〇一号室に届く音〉は、苦情を出した人の住所ではなかった。

ただ、音の届く場所だった。


裏返すと、署名欄には何もなかった。

私が書かなければ、何もなくならない。

そう分かっていても、娘の足が床につくのを見るのは怖かった。


妹が玄関で靴を履いた。

「公園、行こうか」

娘の顔が上がった。


私は抱いていた腕をほどいた。

娘は立ったまま私を見た。私はもう一度、腕をほどいた。自分がまた袖をつかんでいたことに、そのとき気づいた。


「行っていいよ」


娘が走った。

三歩目で少しよろけ、妹の膝にぶつかった。妹が笑った。階下から棒で突かれることも、誰かが戸を叩くこともなかった。


二人が出ていったあと、私は紙を見た。

日付と時刻の下に、〈発生済〉という文字が増えていた。


その下には、次の音が書かれていた。


〈本日、午前十時十八分。公園。幼児の泣き声〉


電話が鳴った。妹だった。

「転んじゃって。膝、ちょっと擦っただけだから」

向こうで娘が泣いていた。


私はペンを探した。

鞄の外ポケットにあった。ケトルの用紙に名前を書いたのも、このペンだった。


キャップを外してから、自分が何をしようとしたのか分かった。


「聞こえる?」

妹が言った。


私はペンを置いた。

「聞こえる」


娘はまだ泣いていた。

私は電話を耳に当てたまま、用紙を裏返さずに折った。

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