明日の足音
下の階から、明日の足音について苦情が来た。
指定された時刻には、娘と公園へ行くつもりだった。
〈明日、午後四時十二分。二〇一号室。幼児の走行音〉
二歳の娘は、私の膝につかまって紙をのぞいた。
「こうえん?」
「そう。明日は公園」
引っ越して三日目だった。階下への挨拶では誰も出ず、管理会社には子供がいることを伝えてある。紙の隅には〈一〇一号室に届く音〉とあったが、差出人の名前はなかった。
私は紙を冷蔵庫に貼った。日付を間違えた苦情でも、足音への注意にはなる。
翌日は雨だった。
娘が窓から離れず、私は洗濯物を部屋に干した。乾いた靴下を丸めて投げると、娘が笑って追いかけた。
携帯電話を見ると、四時十二分だった。
私は二つ目の靴下を握ったまま、床を見た。
翌朝、同じ紙が郵便受けに入っていた。
〈明日、午前六時四十分。二〇一号室。電気ケトルの沸騰音〉
裏には小さく、〈現在の生活を続けた場合の発生見込みです〉と印刷されていた。その下に〈消音を承諾する〉という欄と、署名のための線があった。
管理会社へ電話した。担当者はそんな用紙を配っていないと言った。写真を送ると、確認して折り返すという。
私はケトルの底を見た。中古で買った古いものだった。家電の振動を止める工事なら助かると思い、欄に名前を書いた。用紙の指示どおり、一階の集合ポスト脇にある箱へ入れた。
翌朝、ケトルがなかった。
丸い給電台は残っていた。コードも差さったままだった。
棚とごみ袋を調べ、娘にも聞いた。娘は給電台を指して、
「おゆ、ない」
と言った。
六時四十分。いつもならお湯を沸かす時刻だった。
私は管理会社へもう一度電話した。担当者は、箱は昔からあるが、会社では使っていないと言った。鍵の管理もしていない。誰が家に入ったかは分からないので、警察へ相談してほしいと。
警察に事情を話した。窓と玄関を調べ、なくなったものを聞かれた。ケトルだけだと答えた。用紙は箱の中で、箱は開かなかった。
その日の夕方、一〇一号室を訪ねた。
年配の女性が、チェーンを掛けたまま戸を開けた。
足音のことを謝ると、女性は首を振った。
「出してませんよ。苦情なんて」
用紙とケトルの話をすると、戸の隙間が少し広がった。
奥に小さな食卓が見えた。湯飲みが二つあった。
「主人のいびきで、眠れなかったんです」
女性は、私の持っている給電台を見た。
「音の出るほうが、なくなるのね」
私は夫が今どこにいるのか、聞けなかった。
女性が戸を閉める直前、
「書いちゃだめよ」
と言った。
帰ると、郵便受けに紙があった。
〈明日、午前七時六分。二〇一号室。幼児の走行音〉
私は破って、ごみ袋の底へ押し込んだ。
娘を連れ、駅前のビジネスホテルへ行った。妹には、家に誰かが入ったかもしれないと電話した。翌日の昼なら迎えに来られるという。
朝、ホテルで娘に靴を履かせた。娘は廊下を走ろうとした。
「静かに」
思わず手をつかんだ。娘が振り返った。
携帯電話は七時六分を示していた。
七時半に部屋へ戻った。娘は玄関で靴を脱ぎ、抱っこを求めた。必要な荷物だけを持ち出すつもりだった。
ごみ袋の底に、破った紙があった。破れ目はそのままだったが、〈明日〉が〈明後日〉に変わっていた。
午後、妹が迎えに来た。私はケトルの給電台と、破れた用紙も鞄へ入れた。管理会社への退去の連絡は、車に乗ってからした。
妹の家で、娘は借りた積み木を並べた。
一つ倒れるたび、私を見た。
私は電話を置いて「いいよ」と言った。娘は倒れた積み木をゆっくり拾った。
翌朝、用紙の日付がまた延びていた。
妹は朝食を作っていた。娘は台所へ行きたがったが、私は膝に載せたまま離さなかった。
この家なら平気だとは、もう思えなかった。
「足音が嫌なんじゃないの」
妹が言った。
「その紙が怖いんでしょ」
娘は私の腕の中で、床を見ていた。
私は紙を持ち、何度も読んだ。
差出人の名前はない。〈一〇一号室に届く音〉は、苦情を出した人の住所ではなかった。
ただ、音の届く場所だった。
裏返すと、署名欄には何もなかった。
私が書かなければ、何もなくならない。
そう分かっていても、娘の足が床につくのを見るのは怖かった。
妹が玄関で靴を履いた。
「公園、行こうか」
娘の顔が上がった。
私は抱いていた腕をほどいた。
娘は立ったまま私を見た。私はもう一度、腕をほどいた。自分がまた袖をつかんでいたことに、そのとき気づいた。
「行っていいよ」
娘が走った。
三歩目で少しよろけ、妹の膝にぶつかった。妹が笑った。階下から棒で突かれることも、誰かが戸を叩くこともなかった。
二人が出ていったあと、私は紙を見た。
日付と時刻の下に、〈発生済〉という文字が増えていた。
その下には、次の音が書かれていた。
〈本日、午前十時十八分。公園。幼児の泣き声〉
電話が鳴った。妹だった。
「転んじゃって。膝、ちょっと擦っただけだから」
向こうで娘が泣いていた。
私はペンを探した。
鞄の外ポケットにあった。ケトルの用紙に名前を書いたのも、このペンだった。
キャップを外してから、自分が何をしようとしたのか分かった。
「聞こえる?」
妹が言った。
私はペンを置いた。
「聞こえる」
娘はまだ泣いていた。
私は電話を耳に当てたまま、用紙を裏返さずに折った。




