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第2話 がさつ令嬢、侍女見習いになります


 結論から申し上げますと。


 高級ティーセットとルドミラ・エスカランテの相性は、やはり最悪だった。


「ルドミラ様、そちらをお持ちして――」

「はい!」


 返事だけは元気よく、ルドミラは両手でティーポットを持ち上げた。


 軽い。薄い。怖い。


 まるで「さあ、うっかりしてごらんなさい」とでも言いたげな、繊細きわまりない重さである。



 侍女長が静かに言った。


「ゆっくりで結構ですので」

「はい、ゆっくり……ゆっくり……」


 言い聞かせるように呟きながら一歩、また一歩。



 大丈夫。落とさない。ぶつけない。こぼさない。


 わたくしは伯爵令嬢。落ち着いて優雅に運べる。


 たぶん。きっと。できれば。



 そのときだった。


 床に敷かれた絨毯の端に、靴先がほんの少しだけ引っかかった。



「ひゃっ」


 身体がぐらりと揺れる。


 ティーポットもぐらりと揺れる。


「……っ!」


 隣にいた年配の侍女が、とっさに手を添えた。


 ティーポットは辛うじて無事だったが、中の湯はきれいな弧を描いてティートレイに降り注いだ。



 ぱしゃっ。



 しん、と給仕室が静まり返る。



 ルドミラは瞬きをした。


「……あの」


 侍女長がにこやかに言った。


「水をこぼしましたね」

「はい……少々」

「少々、ではございません」

「ですよね……」



 初日、開始三分。


 華麗にやらかした。



 ルドミラは心の中で、まだ会っていないウリセスに謝った。



 ――ウリセス様、予言が当たりました。


 カップではなくお湯のほうでしたけれど。



 その後も、侍女見習いとしてのルドミラは、たいへん景気よく失敗を重ねた。


 まず、歩く速度が微妙に速い。


「ルドミラ様、もう少し静かに」

「はい!」


 返事をして歩幅を縮める。



 しかし気を抜くと、すぐにたたたっと早足になる。



 次に、小物の扱いが全体的に豪快だ。


「そのリボンは、そっと」

「そっとですね」

「もう少し、そっと」

「これ以上そっとすると、逆に落としそうで……!」

「落とさないでくださいませ」


 さらに、控えているべき場面で、つい口を出す。


 たとえば、エスティバリスの朝の身支度中。


 淡い青のドレスを前に、侍女たちが静かに相談していた。


「本日のご訪問には、こちらのお色がよろしいかと」

「ですが、お顔映りは薄紅のほうが――」

「でも、侯爵夫人様は落ち着いた色をお好みで……」


 本来なら見習いは黙って控えているべきである。


 しかし、ルドミラは見てしまったのだ。


 鏡の前でおろおろしているエスティバリスの顔を。


「薄青より、そちらの薄紅のほうが絶対にお似合いです!」


 ぱっと口が動いていた。


 侍女たちの視線が一斉にこちらへ向く。


 しまった、と思ったときにはもう遅い。


「……ルドミラ様」

 侍女長の声が、たいへんやさしい。


「見習いの方は、まず指示を待つものです」

「はい……」


「それと、急に大きなお声を出しません」

「はい……」


 叱られている。


 完全に叱られている。



 けれどそのとき、鏡越しにエスティバリスが小さく笑った。


「でも……薄紅、とても素敵だと思うわ」


 控えめな声だったが、たしかにそう言った。



 侍女たちは少し目を見合わせ、それから侯爵令嬢の意向を尊重して薄紅のドレスを選んだ。


 その後、支度が終わったエスティバリスは、こっそりルドミラに言った。


「ありがとう」

「え?」

「ほんとうは、わたくしもそちらの薄紅色が着たかったの」

「そうだったんですか?」


 エスティバリスは、ほっとしたように頷く。


「でも、こういうとき、自分から言えなくて……」


 ルドミラは目をぱちくりさせた。


 学院時代から思っていたが、この人は本当にやさしくて、きれいで、そしてとても控えめだ。


 上位侯爵家の令嬢なのに、少し押されるとすぐに引いてしまう。



 ルドミラは思わず言った。


「着たいって、おっしゃってよろしいのに」

「そうかしら」

「もちろんです。似合うものを着るべきです!」


 するとエスティバリスは、くすっと笑った。


「あなたは本当にはっきりおっしゃるのね」

「えっ、だめでした?」

「いいえ。少しだけ、羨ましいわ」


 その言葉に、ルドミラはなんだかむずがゆくなった。


 侍女見習いとしては失格寄りでも、目の前のご令嬢が少しでも笑ってくれるなら、それはそれで悪くない気がしてしまう。



 ――いや、だめなのだけれど。見習いとしては。




 その日の午後には、さらに見事な失敗をした。


 応接間へ向かう途中、ドレスの裾を踏みそうになったのだ。


「わっ」


 ふらついたルドミラを、横にいた若い侍女が慌てて支える。


「大丈夫ですか!?」

「だ、大丈夫です! 今のは床が悪いんです!」

「床のせいにしないでくださいませ」

「ですよね!」


 なぜこう、堂々と歩こうとした瞬間に限って足元が敵に回るのか。



 ルドミラは心の中で深く反省しながらも、次の瞬間にはもうエスティバリスのほうを見ていた。



 侯爵家に招かれていたのは、年の近い令嬢たちだった。二人、三人と集まり、上品に微笑み合っている。


 ……ように見えるが、エスティバリスは少しだけ肩をすくめていた。



 緊張している。


 ルドミラにはそれがすぐにわかった。



 侍女見習いの立場としては、後ろで控えているのが正解だ。正解なのだが。


「エスティバリス様」

 ルドミラは小声でささやいた。


「はい?」

「緊張せずとも大丈夫です。薄紅、とてもお似合いですから」

「え……」



 エスティバリスは目を見開いたあと、ふっと力を抜いた。


「そんなことで、緊張していないように見えるかしら」

「変わります。少なくともわたくしは、今すぐ『今日のエスティバリス様はとても素敵です』って五回くらい言えます」

「五回も……」


「では十回」

「多いわ」


 エスティバリスは声を立てずに笑った。


 そのおかげか、彼女はその後の挨拶を大きく失敗せずに済んだ。

 集まった令嬢たちとも、いつもより自然に言葉を交わしているように見える。



 ところが、その間にルドミラは別の失敗をした。


 控えめに立っているつもりが、テーブル上の小皿の位置が気になって、つい直そうとしてしまったのだ。



 ほんの少しだけ。


 ほんの少しだけ触れただけなのに。



 かちゃん。


 小皿が隣のスプーンに当たり、スプーンがまた別の小皿を鳴らし、たいへん控えめであるべき空間に、たいへん控えめではない音が響いた。



 令嬢たちの会話が一瞬止まる。


 ルドミラは固まった。



 侍女長の視線が刺さる。


「…………失礼いたしました」


 できる限り上品に頭を下げてみたが、上品さで失敗は消えない。


 あとで廊下に出た瞬間、ルドミラは壁に額をこつんと当てた。


「向いていない気がしてきました……」

「気づくのが遅いです」


 低い声がして、ルドミラは飛び上がった。


「きゃっ!?」


 振り向くと、そこにいたのはウリセスだった。


 相変わらず黒髪に切れ長の目、黙っているだけで近寄りがたい。けれど今日も、なぜか絶妙なタイミングで現れる。


「ウリセス様!? どうしてこちらに?」

「アルメイダ侯爵家に用があると言っただろう」

「ありましたね……」

「それで、見た」

「何をですか」

「君が三歩歩いて危なっかしいところを」

「そんなにですか!?」


 ウリセスは無言で頷いた。


 ひどい。だが否定できないのがつらい。


「……でも、頑張っているんです」

「それはわかる」

「本当ですか?」

「ああ。頑張っている。ひどく危なっかしい方向に」

「褒めていませんよね!?」


 ルドミラが抗議すると、ウリセスは少しだけ唇の端を上げた。


「侍女見習いとしては、たしかに向いていないかもしれない」

「そんな、はっきり」

「だが」

「だが?」


「エスティバリス嬢は、今日はずいぶん表情がやわらかい」


 ルドミラはきょとんとした。


「そうでしょうか」

「そうだ。以前より笑っている」

「……それは、よかったですけれど」


 ウリセスは壁に軽く肩を預け、腕を組む。


「君が何かしたんだろう」

「えっ、いえ、わたくしは……ただ、薄紅のほうが似合うとか、十回くらい素敵だと言えるとか、そのくらいで」

「十分すぎる」


 何がだろう。


 ルドミラは首をひねる。


 侍女としては失敗ばかりなのに、なぜかそのあたりだけは、みな少しやさしい顔をするのだ。


「君は小物をそっと扱うのは苦手だが」

「はい……」

「人を緊張させずに話しかけるのはうまい」


 ウリセスの言葉に、ルドミラは目を瞬いた。


 そんなことを、今まできちんと考えたことはなかった。


 だって、それは特技というほどのものだろうか。


 ただ話しかけて、思ったことを言って、相手が少し笑ってくれたら嬉しい、それだけだ。


「それ、侍女見習いとして残れる理由になりますか?」

「残念ながら、微妙だな」

「ですよね……!」


 ルドミラはがくりと肩を落とした。


 ウリセスはそんな彼女を見て、小さく息をつく。


「落ち込むな」

「落ち込みます」

「まだ初日だ」

「初日からこんな調子で、希望はあります?」

「ないとは言わない」

「あるとも言ってください」

「……本人の気合い次第だ」

「急にぼんやりしましたね?」


 それでも、ルドミラは少しだけ元気を取り戻した。


 少なくとも、エスティバリスの表情がやわらかくなったというのは、悪いことではない。




 その日の夕方。


 お茶会も終わり、エスティバリスは自室でほっと息をついていた。


「お疲れではありませんか?」

 ルドミラがそう尋ねると、彼女は静かに首を振った。

「いいえ。いつもより、ずっと平気だったわ」

「本当ですか?」

「ええ」


 エスティバリスは鏡台の前で手を重ね、少し迷うように視線を伏せたあと、小さな声で言った。


「あなたがいたから」


 ルドミラは目をぱちぱちさせる。


「わたくし、何か役に立てました?」

「たくさん」

「でも、お湯をこぼしましたし、小皿も鳴らしましたし……」

「ええ、そこはとてもはらはらしたわ」

「ですよね……!」


 否定はされなかった。


 しかしエスティバリスは微笑む。


「でも、あなたがいると、不思議と息がしやすいの」

「息が……?」


「みんなが何を思うか、失礼ではないか、間違えたらどうしようか、そういうことを考えていると、時々、とても苦しくなるの。でも、あなたが『お似合いです』『大丈夫です』って言ってくれると、少しだけ、平気になれるわ」


 ルドミラは言葉を失った。


 そんなこと、考えたこともなかった。


 自分は今日一日、失敗ばかりで、侍女見習いとしてはまるで駄目だと思っていたのに。


「……よかった」

 ぽつりと、そうこぼれる。

「本当に、よかったです。エスティバリス様が少しでも楽だったなら」

「ええ。ありがとう、ルドミラ」

「い、いえ! こちらこそ、こんながさつな見習いを置いてくださって……」

「がさつ、という自覚はあるのね」

「あります」


 きっぱり答えると、エスティバリスはまた笑った。


 その笑顔が、学院にいた頃より近く感じられて、ルドミラはなんだか少しだけ胸があたたかくなった。



 ……だが。


 現実は現実である。


 三日後、侍女長からたいへん穏やかに、しかしきっぱりと告げられた。


「ルドミラ様。申し上げにくいのですが……侍女見習いとしては、少々適性が」

「ありませんでしたか」

「……はい」


 即答されると、さすがにちょっとしょんぼりする。


 ルドミラは項垂れた。


「ですよね……。わかってはいたんです。わかっては」

「ただ」

 侍女長は続けた。

「エスティバリス様は、たいへん名残惜しんでいらっしゃいます」

「え?」

「あなたとお話しされると、気持ちが楽になるそうです」


 ルドミラは目を丸くする。


「それは、とても光栄ですけれど……」

「ですので、今回の件を失敗だけと思わないでくださいませ」


 その言葉は、思っていたより胸に沁みた。



 屋敷を辞する前、エスティバリスは自らルドミラを見送りに出てきた。


 薄青のドレスに身を包んだ彼女は、いつものように控えめで、でも以前より少しだけまっすぐルドミラを見ていた。


「ごめんなさい」

 エスティバリスが言う。

「わたくし、もっと引き留めたかったのだけれど」

「とんでもありません!」


 ルドミラはぶんぶん首を振った。


「むしろ、こちらこそ申し訳ありません。侍女見習いとしては、もう本当に、いろいろと……」

「ふふ。そうね、少しだけ危なかったわ」

「少しですか?」

「かなり」

「うう……」


 けれどエスティバリスは、そっと続けた。


「でも、あなたに来ていただけてよかった」

「エスティバリス様……」

「あなたがいてくださると、息がしやすいの。本当に」


 その一言で、ルドミラはまた泣きそうになった。


 だめだ。ここで泣いたら、しんみりしすぎる。


 だからいつものように、明るく笑った。


「でしたら、またお会いしたときも、たくさん息をしやすくしてさしあげます!」

「何だか不思議な言い回しね」

「勢いです!」

「でも、あなたらしいわ」


 エスティバリスは、今度はちゃんと声を立てて笑った。


 その笑顔を見られただけで、この侍女見習いもまったくの無駄ではなかったのかもしれない――と、ルドミラは思うことにした。


 思うことにはしたのだが。


 屋敷を出て、ひとり馬車乗り場へ向かう途中で、やはり肩は落ちた。


「……侍女には向いていない……」

「知っている」


 聞き覚えのある低い声に、ルドミラはびくっと跳ねた。


「ウリセス様!? 最近、急に出てきすぎではありません!?」

「君がわかりやすいところで落ち込むからだ」

「落ち込みますよ! 働くぞと張り切って、三日で侍女見習い終了なんですよ!?」

「三日もよくもった」

「慰める気あります!?」


 ウリセスは呆れたような顔をしつつ、しかし歩幅を合わせてくれる。


 それがもう世話焼きなのである。


「で」

 彼が言った。


「次はどうする」

「……どうしましょう」


「就活は続けるんだろう」

「当然です」


 ルドミラはぐっと拳を握った。


「わたくしはまだ諦めません! 家のためにも、弟と妹のためにも!」

「その意気は結構だ」


 ウリセスは懐から一通の封書を取り出した。


「ちょうどいい話がある」

「え?」

「ソラーノ侯爵家で、幼い令息の教育係補助を探している」

「教育係補助……?」

「ガヴァネス見習いだな。読み書きと礼儀作法の初歩を教える役目らしい」


 ルドミラは目を見開いた。


「まあ!」

「……喜ぶのが早い」

「だって、新しい仕事ではありませんか!」

「君、教えるのは得意か?」

「ええと……勢いでなんとか」

「不安しかないな」


 ひどい。けれど、少し前向きなひどさだった。


 ルドミラは封書を受け取る。上質な紙だ。侯爵家の紋章が入っている。


 つまり、次の扉だ。


 侍女見習いはだめだった。


 でも、だからといって、終わりではない。


 ルドミラはきゅっと封書を抱きしめた。


「やります」

「即答だな」

「もちろんです。今度こそ、向いているかもしれませんし!」

「その前向きさだけは、毎回ぶれないな」


 ウリセスはそう言って、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


「ただし」

「はい?」

「五歳児相手に本気で遊び始めるな」

「まだ始まってもいないのに、なぜそこを心配するんですか!?」

「君だからだ」


 あまりにも迷いのない返答だった。


 ルドミラは頬をふくらませたが、次の仕事があると思うと、それでも気持ちは明るくなる。


 だめだったら、また探せばいい。


 自分に向いた道が見つかるまで、やってみればいいのだ。


「よし」

 ルドミラは顔を上げた。


「次こそは、びしっと決めてみせます!」

「その台詞、前回も聞いた」

「今度は本気です」

「前回も本気だったろう」

「……そうでした」

「だろうな」


 また少し笑われた。


 でも、その笑いは嫌ではない。


 ルドミラは新しい封書を胸に抱え、ぐっと前を向く。



 次はガヴァネス見習い。


 きっと今度こそ、大丈夫。


 ……たぶん。


 いや、できれば。



 そんな少しだけ頼りない決意とともに、ルドミラの就活はまだまだ続くのだった。



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