第1話 没落しそうなので就活はじめました
エスカランテ伯爵家の朝食は、今日もたいへん優雅だった。
銀のカトラリーはきちんと磨かれ、白いテーブルクロスは一見すると完璧。
父は背筋を伸ばして新聞を広げ、母は静かに紅茶を口に運ぶ。
弟は眠そうな顔でパンをちぎり、妹はジャムを塗りすぎて侍女にやんわり止められていた。
――うん。見た目だけなら、たいへん立派な伯爵家である。
問題は、中身だ。
「お父さま」
ルドミラ・エスカランテは、にこやかに笑って切り出した。
「今月の帳簿、見ました」
新聞の向こうで、父の手がぴたりと止まった。
「…………そうか」
「そうか、ではありません」
ルドミラは笑顔のまま言った。
「赤字でした」
弟のパスが、もぐもぐしながら顔を上げる。
妹のシンティアは、小さく息を吐いた。
母は静かに目を伏せる。
父は咳払いをした。
「一時的なものだ。伯爵家たるもの、多少の出費はつきもの――」
「去年も同じことをおっしゃっていました」
「うっ」
「一昨年もです」
「ぐっ」
ルドミラは容赦なく追撃した。
「それから、屋敷の西棟の修繕費、領地の不作、投資先の商会の失敗、学院への寄付、それと、お父さまの『伯爵家としての見栄』による無理なお付き合い」
「見栄とは言うな」
「見栄ですね」
「見栄だね……」
パスがぽつりと同意し、父がぐっと詰まった。
母が優雅にティーカップを置く。
「ルドミラ。お父さまをあまり追い詰めてはいけませんよ」
「お母さま、追い詰めているのではなく、現状確認です」
「言い方がだいぶ追い詰めていますけれど」
「ですが、事実です」
ルドミラはきっぱりと言い切った。
父は新聞を畳み、どこか遠い目をした。
「……まだ、なんとかなる」
「それを言えるのは、なんとかする手段がある方だけです」
「あるとも。ルドミラには、よい縁談が――」
「嫌です」
間髪入れずに答えた。
「早いな!?」
「だって、わたくしが嫁いで終わりでは困るでしょう? パスもシンティアもいますし。家の立て直しが必要なのに、長女だけ売り払って解決、みたいな顔をされても困ります」
「売り払うなどと人聞きの悪い!」
「言い換えましょうか。華やかにお輿入れして問題先送り、です」
「容赦がないな、おまえは……」
父は肩を落とした。
その様子に、シンティアがおずおずと口を開く。
「お姉さま……うち、ほんとうに大変なの?」
「大変よ」
ルドミラは即答したあと、シンティアの不安そうな顔に気づいて、すぐに笑った。
「でも、今日いきなり屋根が飛んだり、明日からみんなで道端で暮らしたりはしないわ。そこまでではないの」
「よかった……」
「ただ、のんびりしている余裕はない、ということね」
パスが真面目な顔でうなずく。
「僕、学院に行けなくなる?」
「行かせるわ」
ルドミラは強く言った。
「シンティアのお嫁入りの支度金だって必要だし、パスが将来困らないようにもしたいもの。だから、わたくしが働きます」
しん、と食卓が静まった。
父が瞬きをする。
「……働く?」
「はい」
「誰が?」
「わたくしが」
「伯爵令嬢が?」
「伯爵令嬢だからです」
父だけでなく、母までもが少し目を見開いた。
ルドミラは椅子から立ち上がり、胸の前でこぶしを握りしめる。
「没落しそうなので、就活をはじめます!」
ぱあん、と景気よく宣言した声が食堂に響いた。
次の瞬間。
パスが吹き出した。
「姉上、言い方がすごい」
「だって事実でしょう」
「事実だけど! もっとこう、他にっ……!」
シンティアまでくすくす笑い出し、つられて母も口元を隠す。
父だけが頭を抱えた。
「伯爵家の朝食で飛び出す言葉ではないぞ……就活って……」
「でも必要です」
ルドミラはびしっと父を指さした。
「お父さま、よい結婚を待っていても、その間に家計はよくなりません。そもそも、貴族令嬢の行き先が、嫁ぐか、上位貴族家で侍女見習いをするか、せいぜいガヴァネスくらいしかない、というのも変です」
「変と言われても、昔からそういうものだ」
「昔からそういうもの、で家が立て直せるなら苦労しません」
「正論が痛い!」
父が胸を押さえる。
母が静かに尋ねた。
「ルドミラ。働くとして、あてはあるの?」
「あります!」
「あるのか……」
父が少しだけ復活する。
ルドミラは得意げに胸を張った。
「学院時代の縁をたどって、アルメイダ侯爵家で侍女見習いの話をいただきました」
「えっ、本当に?」
シンティアが目を輝かせる。
「侯爵家って、あのすごく立派なお屋敷のおうち?」
「ええ。学院でも上位のご令嬢だったエスティバリス様のお家よ」
「姉上、それ、すごいじゃないか」
「すごいでしょう?」
ルドミラはふふんと鼻を鳴らしたあと、少しだけ真顔になった。
「まあ……わたくし、細かい作業はちょっと苦手ですけれど」
「ちょっと……?」
パスがじとっとした目を向ける。
「この前も花瓶を落としかけていたよね」
「落としてはいないわ」
「落としかけていたよね」
「受け止めたもの」
「ぎりぎりだったよね」
「結果オーライよ」
母が穏やかに言う。
「ルドミラ、侍女見習いというのは、繊細さと丁寧さが大切なのではなくて?」
「わかっています。でも、頑張ります」
その言葉には、珍しく迷いがなかった。
父はそんな娘を見て、少しだけ表情をやわらげた。
「……無理はするな」
「します」
「するのか」
「でも、無茶はしません」
「似たようなものに聞こえるが……」
ルドミラは笑った。
「大丈夫です。わたくし、こう見えて丈夫ですし、人と話すのは得意ですから」
「侍女見習いに必要なのは、たぶんそこだけじゃないんだけどな」
パスのもっともなつぶやきに、ルドミラは聞こえないふりをした。
その日の午後。
ルドミラは学院時代のノートや紹介状を抱え、王都の目抜き通りを早足で歩いていた。
空は青く、行き交う馬車はきらびやかで、春の風はやわらかい。
王都はいつだって華やかだ。
だが、その華やかさの裏に、帳簿の数字は一切やさしくない。
「よし!」
ルドミラはひとり、小さく気合いを入れた。
「お姉さま、がんばりますからね……!」
弟妹に向けるつもりでつぶやいたそのとき。
「ずいぶん遠くに向かって気合いを入れているな」
低い声がして、ルドミラはぴたりと足を止めた。
振り返る。
そこにいたのは、黒髪の青年だった。
背が高い。肩幅が広い。
切れ長の目は鋭く、黙って立っているだけで通行人がちょっと道を空ける程度には迫力がある。
整った顔立ちのはずなのに、なぜか最初に来る感想が「怖い」。
侯爵家次男、ウリセス・デ・バルモンテ。
学院時代から有名だった人だ。
成績優秀、剣も強く、社交面でもそつがない。
ただし顔が怖い。とても怖い。
「……ウリセス様」
「久しいな、ルドミラ嬢」
「ええ、ご無沙汰しておりました。相変わらず怖いお顔ですね」
「会って最初にそれを言うのは君くらいだ」
「怖いと思ったので」
「思っても普通は言わない」
そう返しながらも、ウリセスはあきれたように目を細めただけだった。
ルドミラは首をかしげる。
「どうしてここに?」
「アルメイダ侯爵家に用がある」
「まあ!わたくしもです」
「侍女見習いの件だろう」
「ご存じなんですか?」
「エスティバリス嬢の兄上と少し付き合いがあってな。話を聞いた」
ウリセスはルドミラの手元の書類を見る。
「本気だったのか」
「本気ですとも」
「学院で『もし家が傾いたら働きますわ』と言って、周囲を笑わせていたのは冗談ではなかったのか」
「冗談でそんな縁起でもない話をします?」
「たしかにしないな」
ルドミラは胸を張る。
「没落しかけているのです。笑っている場合ではありません」
「ずいぶんはっきり言う」
「現実逃避は嫌いなんです」
「それは結構だが」
ウリセスは一歩近づくと、低い声で言った。
「君はもう少し、自分が伯爵令嬢だということを自覚したほうがいい」
ルドミラはぱちぱちと瞬く。
「自覚していますよ?」
「していないように見える」
「自覚した上で働くんです!」
即答だった。
通りすがりの婦人がぎょっとしてこちらを見たが、ルドミラは気にしない。
「わたくし、別に悲劇の主人公になるつもりはありませんもの。家が大変なら、できることをするだけです」
「伯爵令嬢の『できること』に、侯爵家で侍女見習いは普通入らない」
「今、入れました」
「自分で分類を増やすな」
ルドミラはふんっと胸を反らす。
「だって、嫁いで終わりでは困るんですもの。弟も妹もおりますし。お父さまは見栄を張りますし」
「伯爵に対して容赦がないな」
「身内だからです」
「それで、侍女見習いならうまくいくと思っているのか」
「……思っています」
ほんの少し間が空いた。
ウリセスの片眉が上がる。
「今、迷ったな」
「迷っていません」
「迷った」
「ちょっとだけです」
「迷っている自覚はあるんだな」
ルドミラはむうっと唇を尖らせる。
「細かいことは、練習すればどうにかなります」
「君の『どうにかなる』は不安しかない」
「失礼ですね」
「学院の実習でレースを引っかけて全員の袖をつなげたのは誰だった?」
「わたくしです」
「自覚はあるんだな」
「ですが、あれは事故です」
「事故を起こすこと自体が問題なんだ」
うっ、とルドミラは詰まった。
たしかに、学院時代からルドミラは少々……いや、かなり雑だった。
姿勢や礼法は叩き込まれているので形だけなら整えられる。
だが、気を抜くと早足になるし、身振りは大きいし、何かを運べばなぜか危機が訪れる。
自覚は、ある。
でも。
「それでも、やります!」
ルドミラは顔を上げた。
「向いているかどうかは、やってみないとわかりませんもの!」
ウリセスは、じっとその顔を見た。
怖い目つきのせいで見つめられると少し緊張する。
けれど、その視線には不思議と威圧だけではないものがあった。
呆れと、心配と、ほんの少しの、仕方ないなという色。
やがて彼は、短く息をつく。
「……そういうところだ」
「どういうところです?」
「放っておけないところだ」
「はい?」
「いや、なんでもない」
「今、なんでもなくない言い方でしたけれど」
「気のせいだ」
「絶対に違います」
「そう言い返す元気があるなら大丈夫だな」
ウリセスはそう言って、なぜかルドミラの手から書類の束をひょいと取り上げた。
「あっ」
「端が折れている」
「え?」
「このまま差し出したら見栄えが悪い。……まったく」
彼は近くのベンチに書類を広げ、すばやく整え始めた。
折れた角を直し、順番をそろえ、封筒の封まで確認している。
ルドミラは目を丸くした。
「ウリセス様、そういうことをなさるんですか」
「どういうことだ」
「もっとこう、怖い顔で圧をかけるのがお仕事かと」
「私は何だと思われている?」
「怖いけど面倒見のいい方?」
「……後半だけ聞かなかったことにする」
言いながら、整え終えた書類を返してくる。
きっちりしている。すごい。見違えるほどきれいだ。
「ありがとうございます!」
「礼を言う前に、今後は最初から整えて持て」
「善処します」
「やるとは言わないんだな」
「正直さが美徳です」
「君の場合、開き直りだろう」
ルドミラは、にっと笑った。
ウリセスは少しだけ目を伏せたあと、ぽつりと言う。
「困ったことがあれば連絡しろ」
「まあ」
「アルメイダ侯爵家には私もそれなりに出入りがある。何かあってからでは遅い」
「そんなに心配されるようなことは起きませんわ」
「君を見ていると、起きない気がしない」
「失礼です!」
「事実だ」
ひどい。だが反論しきれないのが悔しい。
ルドミラはむっとしつつも、なぜか少しだけ胸があたたかくなった。
「……でも、ありがとうございます」
「礼儀正しく言えるじゃないか」
「わたくし、伯爵令嬢としての礼儀くらいは心得ております」
「そこは自覚していたんだな」
「だから、自覚した上で働くんですってば」
ウリセスはとうとう、小さく笑った。
ほんの一瞬だったが、それだけで顔の怖さが少し薄れる。ずるい。
「では、未来の侍女見習い殿」
「はい!」
「ティーカップだけは割るな」
「最初の心配がそこなんですか!?」
「もっとも現実的だろう」
「そんなに不安ですの!?」
「かなりな」
ルドミラは頬をふくらませたが、最後には自分でも笑ってしまった。
「……割りませんわ。たぶん」
「『たぶん』をつけるな」
別れ際、ウリセスは一度だけ真顔に戻った。
「本当に無理はするな、ルドミラ嬢」
名で呼ばれて、ルドミラは少しだけ目を瞬く。
けれど彼はそれ以上何も言わず、背を向けて去っていった。
長い脚で、迷いなく人混みを抜けていく。
その背中はやはり頼もしく――そして、ちょっとだけずるい。
「……ほんとうに、怖い顔のくせに世話焼きなんだから」
つぶやいて、ルドミラは書類を抱え直した。
大丈夫。
きっとうまくいく。
少なくとも、そう信じるところから始めなくては。
アルメイダ侯爵家の屋敷は、さすが上位貴族の住まいというべき見事さだった。
門からして立派だ。
庭は広く、噴水はきらきらと光り、玄関へ続く石畳は磨き上げられている。
使用人の数も、うちの倍どころではない。
「ひええ……」
思わず声が漏れた。
だが、ここで圧倒されていては始まらない。
ルドミラは背筋を伸ばし、紹介状を渡し、案内された控えの間で待つ。
しばらくして、上品な侍女長が現れた。
「ルドミラ・エスカランテ様でございますね」
「はい。本日よりお世話になります」
「まずはご挨拶と、簡単な仕事の説明をいたします。エスティバリス様はまもなくお茶の時間ですので、茶器の準備をお手伝いいただきます」
「承知しました!」
よし、最初が肝心だ。
水をこぼさない。物を倒さない。
裾を踏まない。焦らない。
丁寧に。ゆっくり。落ち着いて。
心の中で唱えながら、ルドミラは案内されるまま給仕室へ入った。
そこで、彼女は見てしまった。
棚の中央に、ひときわ繊細な輝きを放つティーセットが置かれているのを。
薄い乳白色の磁器。
縁には金彩。持ち手には細やかな装飾。光に透けるほど薄く、美しい。
たぶん、値段も美しい。いや、むしろ恐ろしい。
侍女長が静かに言う。
「本日は、こちらをお使いします」
「…………こちらを?」
「はい。エスティバリス様のお気に入りですので」
ルドミラは、そっと一歩後ずさった。
嫌な予感がした。
とても、した。
なぜなら彼女は、こういう「見るからに高そうで、しかも壊れやすそうなもの」と、びっくりするほど相性が悪いからである。
脳裏に、さきほどのウリセスの声がよみがえった。
――ティーカップだけは割るな。
まるで予言ではないか。
「ルドミラ様?」
「は、はいっ」
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ。なんでもありません」
ある。とてもある。
けれど、ここで『実は高級茶器と相性が悪くて』などと言えるはずもない。
言った瞬間に見習い終了である。
ルドミラはぎこちなく笑い、目の前のティーポットへそろそろと手を伸ばした。
軽い。
思ったより軽い。
軽いということは、うっかりしたら危ない。
ああ、もう、嫌な予感しかしない。
それでも、ルドミラ・エスカランテは笑顔を崩さなかった。
没落しそうだから、就活を始めたのだ。
このくらいで逃げるわけにはいかない。
「大丈夫……大丈夫よ、わたくし……」
だが、小さくつぶやいたその声は、どうにも自信に満ちてはいなかった。
そして次の瞬間、ティーカップの繊細な取っ手が、きらりと不穏に光った気がした。
――これは、本当に大丈夫かしら。
そんな不吉な確信とともに、ルドミラの侍女見習い初日は幕を開けたのだった。




