僕の物語
まだお母さんのおっぱいを飲んでいたのに引き離された僕は、檻の中にいた。
僕は暗くて狭い所が落ち着くのに、檻の中には隠れるところもない。
明るい時間はとても大きな音がずっと聞こえていて、とても怖かった。でももっと怖かったのは、檻の外から覗いてくる、大きな大きな生き物。
僕をお母さんや兄弟たちから引き離した、あの生き物の仲間だ。
檻の向こうから覗き込んで、大きな声で鳴いている。時々檻を叩いてくる大きな大きな生き物もいた。
怖くて怖くて、僕は震えていた。
それに、一日に一回、無理やり持ち上げられて別の檻に移された。
食べられちゃうのかな? 怖いよ。
毎日が怖くて、檻の隅っこでじっとしていた。
ある日、いつもと違う時間に、檻から引っ張り出された。
移されたのは、初めて見る穴だった。あの明るい檻よりは、暗くて狭くて落ち着いた。
でも、お母さんから離された時も、こんなふうに狭くて暗い所に入れられた。だから、またどこか別の所に連れていかれるのかもしれない。
もっと怖い所に連れていかれたらどうしよう?
怖いよう。お母さん、助けて。
穴はずっと揺れていて、僕は怖くて怖くて震えていた。
ようやく穴から出されると、また檻に入れられた。
少し前まで入っていた檻と似ているけれど、大きな音は聞こえないし、薄す暗くて少し安心した。
でも、これからどうなるのか分からなくて、やっぱり不安だった。
変わったのは、場所だけじゃない。
僕のいる檻を覗くのは、やっぱりあの大きな大きな生き物だった。だけど、大きな大きな生き物は、一匹しか見なくなった。
他の大きな大きな生き物は、ここにはいないみたいだ。
僕はその一匹だけの大きな大きな生き物を、大きいのと呼ぶことにした。
大きいのは、他の大きな大きな生き物と違って、僕に無理やり触ったりしなかった。
カシャンって嫌な音がして、身構える。
ぎゅっと瞑っていた目を開けたら、周りを見たら檻がなくなっていた。
ここから出てもいいのかな?
僕は恐る恐る、外に出てみた。
大きいのは鳴かないし、僕を捕まえようともしない。
今までいた所よりもずっと広い世界を、僕は好奇心を抑えられなくて、そろりと探検する。
大きいのは、僕がいた檻の中を触っていた。たぶん、綺麗にしてくれているんだと思う。前にいた所でも、一日一回、檻から出されて、戻ると綺麗になっていたから。
綺麗にしたら戻されるのかな? と思っていたけれど、大きいのは少しして、そのまま動かなくなった。
僕は大きいのの様子を窺いながら、地面の匂いを嗅いでみたり、引っ掻いたりする。壁の匂いも嗅いだり、もっと遠くに行けないかと試してみた。
その間も、大きいのは動かない。
僕はちょっとだけ、大きいのに興味が出てきた。
でも近づいたら、他の大きな大きな生き物みたいに、僕を捕まえないだろうか。ちょっと怖い。
勇気を出して、少しだけ、近付いてみた。
様子を窺うけれど、大きいのは動かない。
もう少し、近付いてみた。
やっぱり動かない。
もう少しだけ、もう少しだけ……。
思い切って鼻で突っついてみたけれど、やっぱり動かない。
この大きいのは僕を襲ったりしないのだろうか?
ちょっと考えて、えいっと大きいのの上に乗ってみた。おおきいのの上は、僕が寝ころべるくらいに広い。
これはさすがに危ないかな? と思って大きいのの様子を窺ってみたけれど、大きいのはやっぱり動かなかった。
どうやらこの大きいのは、安全みたいだ。
そう思ったら、好奇心を抑えられなくなった。
僕のふわふわの毛と違って、大きいのの毛は固まっていた。
毛繕いが下手なんだね。
可哀そうだから、がじがじと噛んで解してあげる。
「痛い、痛い」
大きいのが鳴いた。
僕は驚いて飛び退った。でも転んでしまって、あまり逃げられなかった。
噛まれるかと思って体を強張らせたけれど、大きいのは鳴いただけだった。でも僕が毛繕いしてあげた部分を引っ込めて隠してしまった。
もしかして、痛かったのかな?
僕は小さいし、お母さんや兄弟と早くに引き離されてしまったから、自分の毛しか繕ったことがない。だから、失敗しちゃったみたいだ。ごめんね。
お詫びに、他の所も毛繕いしてあげる。がじがじ。
「痛い、痛いって」
また鳴き声を上げて、引っ込めてしまった。
どうやら僕は、毛繕いが下手みたいだ。
どうしたものかと困っていたら、大きいのが動いた。長い長い首の先に付いた、僕の体ほどの大きな顔が近づいてくる。
大きいのは僕を食べるつもりはないみたいだけど、怒ったのかもしれない。
ごめんよ。悪気はなかったんだ。だから許して。
僕は地面にお腹と顎をひっ付けて、敵意はないんだよと示した。
大きいのの顔が僕の上に下りてくる。そして、優しく舐めて毛繕いしてくれた。
お母さんよりも大きな舌は、僕の体を包むように舐めてくれる。
これ、気持ちいい。
僕は大きいのに毛繕いしてもらうのが、好きになった。
大きな体は怖いけれど、大きいのは僕を傷つけないから、怖くないんだ。
夜は檻で眠って、朝になると檻から出て、大きいのと一緒にいた。
あまり毛繕いをしてくれないけれど、突っついてせがむとしてくれる。
そういえば、大きいのの口だと思っていたのは、どうやら前足だったみたい。
僕を毛繕いしたり、咥えたりするから、てっきり口だと思っていたのに、目や口は別にあったんだ。
僕も大きくなったら、あんなに大きくなれるのかな?
時々、大きいのは変な平べったいのに夢中になる。
平べったいのは、大きいのが触るとぴかぴか光って変な声で鳴く。すると、大きいのは僕のことを放っておいて、平べったいのとばかり遊ぶんだ。
許せないよね。
だから、そいつを噛んでやったんだ。僕の方が強いんだぞ? って教えるために。
うん、今回だけは、負けを認めてあげるよ。もう二度と噛んだりしない。歯が欠けるかと思った。あごもしばらく変になった。
なんて硬くて強い奴なんだろう。でもいつか、勝ってやるんだ。
大きいのと一緒に暮らすようになって、僕も大人になった頃、別の大きな大きな生き物がやってきた。
そいつは、いきなり僕を襲ってきたんだ。前足で僕を掴んで持ち上げようとしたんだ。
僕は急いで逃げた。一目散に大きいのの後ろに回り込んで、身を小さくする。
「迷わず盾にするのか」
元気のない声で、大きいのが鳴く。
大きいのも怖かったのかな? でも、僕より大きいんだから、護ってくれるよね?
「いきなり触るなよ。慣れてないんだから、怖がるに決まっているだろう?」
大きいのは僕を襲おうとした、大きな大きな生き物に威嚇して、僕を護ってくれた。だから僕も安心して、大きく開いていた目を少しだけ和らげた。
耳と尻尾は立ったままだけどね。
大きな大きな生き物は、しばらくしたらどこかに行った。大きいのが縄張り争いに勝ったみたいだ。
さすがは僕の大きいのだね。
ある時、大きいのが横になって動かなくなった。
僕は急いで大きいのの顔の所まで行って、においを嗅いだ。
うん。大丈夫。生きている。
でも、弱っていて動けないみたい。だから、今日は僕が大きいのを護るんだ。
耳を立てて、敵が来ないかずっと見張ってあげた。
「大丈夫だよ、ありがとう」
大きいのが力なく僕を毛繕いしてくれた。
無理しなくていいんだよ? 早く元気になって。
頭の上に乗っている大きいのの手を、鼻先で押し上げて戻す。
それから僕は立ち上がると、大きいのを舐めてあげた。少しでも痛いのがなくなりますように。
喧嘩をしたこともある。
嫌なにおいがして、ちくりと痛いのをする、大きな大きな生き物がいるところに連れていかれたんだ。
僕は怒って、大きいのにおしっこを引っ掛けてやった。
その仕返しだったのかな? 大きいのは僕のご飯に変な物を入れるようになった。
「ちゃんと飲みなさい!」
ご飯の中に入っていた、白くて硬いのを吐き出したら、大きいのが鳴きながら僕を捕まえて、無理やり口の中に入れてくる。
やめてよ!
それ、とても気持ち悪いんだよ? 飲んだ後も、ずっと変な味がするんだ。嫌いだよ。
こっそり捨てても、なんでか気付かれて、また捕まえようとしてきた。
だから、大きいのは入ってこられない、狭い所に潜ってやった。
謝るまで、許してやらないんだからな。
……。ううん。おやつもくれないと、許してやらないんだから。
自分の力でトイレに行けなくなると、大きいのが連れていってくれるようになった。
どうしてわかるんだろうね? 行きたいと思って動こうとすると、すぐに抱き上げて連れていってくれるんだ。
用を終えると、またふかふかの寝床に戻してくれる。
時々近くに大きいのがいなくて、漏らしてしまうことがあった。足もお腹もびしょびしょになった。
そんな僕を、大きいのはお風呂に入れた。
温かいお湯は気持ちいいけれど、濡れるのは嫌で、複雑な気分になる。
お湯から出ると、何度も何度も毛繕いをして、水気を取ってくれる。
それから鼻息の荒い、変な生き物のところに連れていくんだ。濡れたままだと冷たいし寒いけれど、僕はこの生き物が嫌いだった。
だって、煩いんだもの。
仕方ないから少しの間は我慢するけれど、我慢の限界ってあるよね?
もうやめようよ? って言っても、大きいのは止めてくれない。だから、僕は怒って、がぶって大きいのを噛んでやるんだ。
「いった?!」
へへんだ。鳴いたって知らないんだから。僕を怒らせるからだ。
何とか覚束ない足で逃げるけど、大きいのは僕を捕まえてしまう。睨みつけてやるけれど、大きいのは、僕の毛が乾くまで自由にしてくれない。酷いよ。
だけどね、大きいの。
僕は君のことが、大好きだったんだよ? ずっと一緒にいたかったんだ。
あの日、大きいのは僕を膝に乗せて、日向ぼっこをさせてくれた。
大きいのの足は柔らかくて温かくて、お日様の光も暖かくて。
だから、油断しちゃったんだね。
大きいのの上で、お漏らししちゃった。
驚いた大きいのは、僕を置いてどこかへ行ってしまった。
ごめんよ、ごめんよ。わざとじゃないんだ。君に掛けようと思ったわけじゃないんだ。
暖かい日向で、僕はいなくなってしまった大きいのに謝っていた。
少しして戻ってきた大きいのは、僕を包んで濡れていたところを毛繕いしながら、頭も撫でてくれた。
「ごめん。怒ってなんかないから。ちょっと驚いただけ。後、着替えないといけなかったからね」
何度も何度も、大きいのは僕を繰り返し撫でてくれた。
夜になっても、僕は大きいのの膝の上にいた。でも、大きいのは、僕を膝から下ろしてしまったんだ。
僕はずっと、大きいのの膝の上にいたかったのに。その温かくて柔らかな場所から、離れたくなかったのに。
横たわった大きいのは、僕の前足に自分の前足をそっと重ねた。だから僕は、大きいのの手に鼻先を当てる。
しばらくすると、大きいのは目を閉じて眠ってしまった。僕も、重いまぶたを閉じた。
声が、聞こえた。
大きいのの声だ。
どうしたんだろう? いつもと違う、とても悲しそうな声だ。僕を呼んでいる気がする。
どうしたの? 僕はここにいるよ? ねえ、もう一度、撫でてよ。




