第73話 フロスト中尉の説教
夕食後、アリスは今晩もエリカの家に行こうと考えていた。
(今日こそエリカさんが帰ってる気がする)
姿の見えないファントムさんを軍がどうやって《支配》するつもりか知らない。 でもアリスがエリカに《支配》の計画を伝えれば、必ずやエリカは《支配》を回避できるはず。
本当ならエリカの家に入り浸ってエリカの帰りを待っていたいが、軍に怪しまれるに決まっている。 アリスに出来るのは、夜になってから散歩を装いエリカの帰宅をチェックすることだけだ。
(そろそろ行こうかな)
アリスが食後の緑茶を一息に飲み干して湯呑みをテーブルに置いたとき、フロスト中尉が話かけてきた。
「アリスちゃん、話があるからちょっといらっしゃい」
中尉は自室へとアリスを先導した。 アリスが部屋に入ったのを確認して、部屋のドアを閉めドアを背にして座布団に座る。
チンチンチン(話ってなに?)
「アリスちゃん、あなた昨晩もエリカさんの家に出かけたけど―」
そうして中尉は割とどうでも良いことを説教めいた口調で語りだした。 実はこの中尉、特に今晩はアリスを家から出さないようガブリュー大佐から指示されている。 エリカの《支配》の現場をアリスが目撃しないようにするためだ。
エリカの《支配》が完了しさえすれば、エリカの振る舞いをコントロールして、エリカが《支配》される事実を糊塗できる。 しかしアリスがエリカ《支配》の現場に居合わせれば、アリスは軍に不信感を抱きザルス共和国を出奔してしまう。 そう大佐は考えた。
「――昨日だって寝るのが遅くなっちゃったでしょ? だから今日は――」
(この内容の薄い説教は何なん?)
説教の内容に鈍感な人種であるアリスでも、説教の内容が濃薄ぐらいは判断がつく。
「――それに先方の迷惑も考えないと。 夜の10時までお邪魔するなんて――」
(不自然に長々と続く説教やなー。 まるで説教それ自体が目的みたいな...... あっ! ひょっとして......)
アリスは真相を看破した。 アリスを足止めしようとする大佐の企みが皮肉にも、今晩エリカの《支配》が行われることをアリスに気づかせた。
「――だから、ね? 私としても――」
(エリカさんを《支配》するのが今晩である可能性が濃厚である以上、 ちょっと思い切ったことをやらなあかんな。 どうせこの国から逃げるつもりやし、エリカさんに相談せんと逃げ方がよくわからへんし)
アリスはとりあえず、この部屋を出ることにした。
チーンとベルを鳴らしてフロスト中尉のおしゃべりを中断させ、チンチンと畳み掛けてトイレを要求。
「あら、おトイレ? 本当に?」
アリスは疑われたことを憤慨するかのように、あるいはもうオシッコが漏れそうだと言わんばかりにチンチンチンとベルを連打した。 チンチンチンチン。 チーン。
「わかったから、ベルをうるさく鳴らさないで」
ベルのうるささに辟易し、中尉は立ち上がって部屋のドアを開けた。
部屋の外に出たアリスは考える。 このアパートを出るだけなら、ファントムさんである自分には簡単なこと。 普通に玄関から出ればいい。 中尉に透明の自分を止める術はない。 だが、それでは――
(すぐに中尉から大佐に連絡がいくやろな。 そしたら大佐になんかされるかもしれへん。 エリカさんの《支配》を急ぐとか私を捕まえようとするとか、そんな感じのことを)
トイレへ向かって歩くアリス。 後ろからフロスト中尉が付いて来ている。 アリスは歩きながら思う。
(いよいよ発信機を逆手に取るときが来たみたいやな)
トイレまで来たアリスは、ドアを開けて指輪を床に置いた。 素早くトイレの外へ出てドアを閉め、玄関を目指す。
フロスト中尉にはアリスの姿が見えない。 アリスが走る音もドアを開閉する音も聞こえない。 指輪はトイレの中でシグナルを発している。 だから中尉は、アリスが今トイレの中に居ると思っている。 そのはずである。
だが、これで何分稼げるのか? 5分? それとも8分? しびれを切らせた中尉がトイレのドアを開けようとして未施錠だと判明した時点で、中尉はアリスの脱走に気付くだろう。
◇❖◇
玄関に到達したアリスは慌ただしく靴を履き、玄関のドアをガチャリと開けて外に出る。 この「ガチャリ」もフロスト中尉には聞こえていない。
アリスは官舎の階段を3階から1階まで一気に駆け下り建物の玄関から飛び出ると、すっかり暗くなった街路を全力で走り始めた。




