第56話 引っ越しました
夕食後、アリスはエリカの家を訪れることにした。 アリスのアパートはエリカの家からそう遠くない。 食後の散歩を兼ねて、エリカに引っ越しの報告だ。
アリスはチンとベルを鳴らし、食器を洗っているフロスト中尉に告げる。
『ちょっと散歩に行ってきます』
メッセージを読んだフロスト中尉はエプロンで手を拭きながら、慌ててアリスに呼びかける。
「待ちなさいヒロサセ少尉。 私も行きます」
『不要ですけど』
「馬車でさらわれて《支配》の呪文をかけられても知りませんよ?」
そう言われてアリスは渋々フロスト中尉の同行を認めた。《支配》されかけたのはつい昨日のことで、その苦い記憶はまだ生々しい。
「ヒロサセ少尉、この発信器を身につけておきなさい」
フロスト中尉がテーブルに置いたのは指輪だった。
さっきからフロスト中尉がなんか偉そうやなー。 そう思いつつアリスは筆談で尋ねる。
『発信機?』
「あなたの居場所を把握するための道具よ」
『不要ですけど』
「いいから肌身はなさず身に着けておきなさい。 あなたを守るためなの」
(まあ、ええか。 逃げたくなったとき発信機を逆手に取ろう)
『わかりました』
そう書いてアリスは指輪を右手の中指にはめた。
◇❖◇❖◇
官舎を出たアリスはエリカの家を目指して歩き、フロスト中尉はそのすぐ後を付いて来る。 他の通行人にはアリスが見えず、傍目にはフロスト中尉が1人で歩いているように見える。 実はフロスト中尉の後ろから軍人がさらに2人付いて来ているが、アリスはそうと知らない。
エリカの家に到着したアリスは呼び鈴を鳴らす。 シャリンシャリーン。
しばらく待っているとドアが開いて、1人の女性が出てきた。 フロスト中尉の姿を認めて軽く頷き、アリスが居ると思しき場所に向かって言う。
「アリスさんですね。 いらっしゃい」
(この人は誰なんやろ?)
知らない女性の後について、アリスはエリカの家に入った。 フロスト中尉も家の中まで入って来る。
女性に案内されたのは台所だ。 カップが2つ置かれているところを見ると、エリカも居るのだろう。 確認のためアリスがベルをチンと鳴らすと、エリカのベルの音がチンと返って来る。
(エリカさんおった。 この人は誰なんかな?)
アリスを先導していた女性がくるりと振り向いてアリスに言う。
「ご挨拶が遅れましたが、初めましてアリスさん。 私はシバー少尉。 エリカさんの付き人をやらせてもらってます」
続いてアリスの後ろにいたフロスト中尉が進み出て、台所のテーブルを目がけて挨拶する。
「お邪魔させて頂いておりますエリカさん。 私はフロスト中尉。 ヒロサセ少尉の面ど―― いえ、お世話をさせてもらっております」
中尉の発言にエリカは驚いた。
(ヒロサセ少尉?)
アリスはフロスト中尉が内心で自分を下に見ていることに苛立った。
(いま私の「面倒を見てる」って言いそうになったやろ? 偉そうにしやがって。 調子に乗っとったら逃げんぞコラ)
普段はヘタレ心の下に隠れている乱暴性が顔を出した。 ただし、顔を覗かせた乱暴性もヘタレ色に染まっていた。
◇❖◇❖◇
シバー少尉が淹れてくれた緑茶を飲みながら、アリスはエリカと筆談を始めた。
『近くのアパートに引っ越したんで、エリカさんに報告しておこうと思いまして』
『どこのアパートなの?』
『そこの角を曲がってあっち行ってそっち行ったとこです』
『あー、あの新築のアパートね。 素敵なおうちじゃない。 それより、少いってどういうことなの? それから、ヒロサセってアリスちゃんの名字? あと、あの女の人は誰?』
エリカは「尉」という漢字を書けなかった。
エリカが同時に吐き出した複数の質問に、アリスはまとめて答える。
『ザルス軍に入ったんです。 アパートに入居する条件だって言われて。 あの女の人は私の付き人です。 ヒロサセは私の名字です。「広早瀬」と書きます』
筆談が行われる傍らでフロスト中尉はシバー少尉と雑談に興じる様子だったが其の実、筆談の内容が気になって仕方。 エリカとアリスのやり取りを盗み見しようと、さっきから横目を頑張っている。
エリカは盗み見に気付いていた。 エリカもエリカで、シバー少尉とフロスト中尉を ――透明であるがゆえ真正面から堂々と―― 観察していたからだ。
(日本語だから、こっちの世界の人には読めないのに......)
読めない筆談の盗み見に必死なフロスト中尉を憐れみながら、エリカはアリスとの筆談を続ける。
『アリスちゃん、あなた軍に入ったことの意味を分かってるの?』
『軍に籍を置くだけだそうです』
『それは普段だけで、非常時には出動させられるでしょ?』
『そうなんですか?』
『そのはずよ。 月給をもらうんでしょう?』
『よく知ってますね』
『私も軍に誘われてるから』
『そういえばスカウトとかって言ってましたね。 まだ軍に入ってないんですか?』
『きん務条件について確認中なの』
エリカは「勤」という漢字も書けなかった。「務」のほうは書けるのだが......
『勤務条件ってどういうことですか?』
『私が軍の指令を断れるかどうかよ。 スパイぐらいならともかく、殺したくもない人を殺せと言われたら困るでしょ?』
『私なら断ります』
『だから、それを断れるかどうかを確認中なの。 アリスちゃんは軍務けい約にサインしたんでしょう? どんな内容だった?』
『よくわかりません』
『読まずにサインしちゃった?』
『はい』
エリカはフロスト中尉に尋ねることにした。
『フロスト中尉、アリスちゃんは軍からの指令を断れるんですか?』
この世界の言葉でそう書いて、ノートをフロスト中尉が見える位置にずらすと、フロスト中尉がやけに素早く反応する。
「あら、私にメッセージかしら?」
そう白々しく言って、フロスト中尉はエリカの質問に答える。
「契約上、ヒロサセ少尉は軍からの指令を断れません」
(普通はそうでしょうね)
(嫌なことはせえへんで)
『契約の期間は?』
「とりあえずは100年間で、その後は当事者の一方が異議を申し立てない限り自動的に更新されます」




