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表向きは被害者遺族を支援する宗教法人、裏では加害者を始末する組織に入った俺  作者: 八頭 たける
未遂から観察を経ての再演

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未遂

世界は常に動いている。

だが、ある瞬間だけ、自分の時間が遅く流れることがある

──今夜、308はその感覚の中で、未遂の現場に立っていた。

あと数メートル、手が届くかもしれない距離で、彼の心と体は、極限の緊張に引き裂かれる。



第5話 未遂


その容疑者は、いつも通り自宅近所のコンビニに立ち寄り、コーヒーを手にレジを抜けた。骨伝導から301の低く冷静な声が響く──

「出た」。


接触予定地点まで、あと100メートル。

頭の中で秒を刻む。数分しかない、いや、数十秒かもしれない。心臓が胸を叩き、喉の奥が乾く。肺が熱く焼けるようで、呼吸を整えようとしても手応えがない。足裏に地面の硬さと微かな凹凸が伝わり、砂利の感触に神経が研ぎ澄まされる。


あと5メートル──。

その瞬間、308の頭の奥で「カチ…カチ…」と、まるで頭の中で秒針が鳴っているかのような乾いた金属音が響き始めた。


世界の音が一枚ずつ剥がれる。

車のエンジン音は遠ざかり、犬の吠え声は水中に落ちたように鈍くなる。靴音も、風のうなる気配も、すべてが消え、代わりに **「カチ…カチ…」**だけが、頭蓋骨の内側で反響する。


視界の端は白く滲み、中心だけが異様に鮮明に浮かぶ。

容疑者の背中が、滑らかすぎるほど滑らかに動く。まるで一秒が何十倍にも引き延ばされたかのように。


呼吸は止まった。いや、しているのかどうかも分からなかった。


「カチ…カチ…」

音と一緒に、胸の奥の鼓動が微かにズレる。胸が痛い。足先は氷のように固まり、前に出そうとする意志だけが空回りする。


目の前で、容疑者がスローモーションのまま遠ざかる。悔しさのせいで視界がわずかに震える。


世界は止まっていない。止まったのは、308の時間だけだ。胸の奥に波のように押し寄せる悔しさ、指先の微かな震え。肌に触れる風の冷たさ、足裏に伝わるアスファルトの熱、周囲のざわめき、すべてが異様に鮮明で、体が石のように固まる。


「作戦中止」

骨伝導の声が低く響く。動きたくても、今は踏み込めない。目の前で逃した人物の背中が視界に焼き付き、緊張の波が全身を覆う。呼吸がようやく戻る頃、時間さえも遅く伸びたかのように感じられた。

しかし308は知っていた――これは失敗ではない。この未遂の経験が、自分の次の一歩を形作ることを。


足を止め、深く息をつく。視界の奥に残る容疑者の背中が、まだ胸の奥で蠢いている。


やがて重い足取りで本部へ戻り、装備を外す。手袋を脱ぎ、ベルトを外し、ヘルメットを置く。肩や腰の緊張が徐々に抜けていくが、胸の奥の焦燥は消えない。その手元で、上官から通達書が差し出された。後日、今回の作戦についてレポート提出と面談があるという。胸に小さな重みが生まれる。


バディの301は何も言わない。その沈黙が、308にとって自分の経験を静かに受け止める余白を与えてくれた。低く冷静な声は、今は沈黙のまま。だから308も言い訳を口にせず、無言で装備を片付ける。二人の間に言葉は必要なかった。


夜になり、308はふと思い立ち、亡くなった片思いの女の子の家へ向かう。玄関前に立ち、冷たい風に吹かれながら、胸の奥の空虚と向き合う。ドアをノックすると、母親が出てきた。308の顔を一瞬見て、母親は小さく頷く。言葉はなかった。ただその視線のやり取りだけで、308はこの場所に立つ意味を理解する。


308は母親の前で静かに立ち尽くし、ドアに手を触れる。冷たさが指先に伝わり、胸に少しの余韻を残す。笑顔はもうこの世にはないが、思い出の中の彼女は微笑み続ける。308は言葉を交わさず、ただその場で心を落ち着けるように深呼吸する。夜風が頬をかすめ、胸の中のざわめきと交錯する。

308は玄関先で母親に軽く会釈した後、静かに仏壇の前に座り、手を合わせた。線香の煙がゆらめき、夜の冷気と混ざって心を落ち着ける。しばらくの沈黙の後、母親がそっと口を開いた。


「学校では、楽しそうだった?」


308は少し迷い、曖昧に頷く。「まあ…普通に、みんなと話してたと思います」

心の中では、クラスメイトとしてはそこまで親しくなかったことが浮かぶ。しかし同時に、ずっと片思いだったことも否定できなかった。胸の奥のもどかしさを整理するように、308は静かに話し始めた。


「正直に言うと、クラスメイトとしてはあまり親しくなかったんです。でも、友達になりたかったし…それ以上に、ずっと好きでした」


母親の目にわずかな光が宿る。「娘を、好きになってくれて、ありがとう」


その言葉に、308の胸は少し熱くなった。母親は静かに部屋に案内してくれ、普段彼女が身につけていたmiumiuのヘアピンを手渡した。「形見として、あなたに…」


308はその小さなヘアピンを手に取り、指先でそっと撫でる。冷たくも温かい金属の感触が、心に微かな慰めを残した。


帰り道、308は不思議な気持ちに包まれていた。容疑者に接触できず、警告もできなかった現実の後で、亡くなった彼女の母親にだけ、ずっと胸に秘めていた気持ちを伝えられたこと。自分でも少し驚くほど、胸の奥に澄んだ温かさが広がっていた。


胸の中のもどかしさと、静かな安堵感が交錯しながら、308は夜道をゆっくりと歩いた。手には、彼女の形見である小さなヘアピンが握られていた。


6話に続く

この度は読んで頂きありがとうございます。

今回の作戦は未遂に終わりました。

だが、失敗ではない。308の中で、時間が止まったような体験は確実に成長のきっかけとなった。

静かに続く301の沈黙とともに、次なる観察、そして再演への準備が、すでに始まっている。

この経験は、まだ序章に過ぎない――。

──308はそれを抱えたまま夜道を歩く。だが、偶然の出会いと、長く秘めていた思いを伝える小さな瞬間が、胸の奥に静かな光を落とす。


次回は、明日の22:00の更新予定です。

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