最初から決まっていたのよ
雨は、何も説明しない。
ただ、降り続ける。
近づいたはずの距離は、
触れた瞬間に、別の形に変わってしまう。
似ていること。
置き換えられること。
選ばれなかったこと。
その境目に立ったとき、
人は、自分が何者なのかを言葉にできなくなる。
この夜に起きるのは、
答えではない。
触れてしまった、という事実だけだ。
雨は、静かに降り続けていた。
ざあ……と、アスファルトを叩く音だけが、夜を満たしている。
私は“301”。
そう呼ばれるようになってから、
自分の名前を声に出すことはなくなった。
鏡の前に立つと、
見慣れたはずの顔が、少しずつ遠ざかっていく。
髪の流れ。
瞬きの間。
笑うときの口元。
調整されるたび、
どこかが削られ、別の何かがはめ込まれていく感覚があった。
それが何なのか、
私はまだ、言葉にできない。
⸻
少女が事故で亡くなった日。
その少し後から、
私の時間も、同じ場所で足を止めた。
鏡に映る表情は、
泣いているのか、
笑おうとしているのか、
自分でも分からない。
ただ、
308が見るときの視線だけを、
私は知っていた。
その目に映る私は、
本当に私だったのだろうか。
⸻
ロッカーに残されたSDカード。
薄く、冷たい。
誰が置いたのか。
なぜ、そこにあったのか。
説明はなかった。
再生された映像に、
胸の奥が、ゆっくりと締め付けられる。
知らないはずの角度。
知らないはずの時間。
それでも、
確かに“そこにあった”瞬間。
308が画面を見るとき、
その視線が、わずかに揺れた。
私は、その揺れを見てしまった。
見てはいけないものを、
見てしまった気がした。
⸻
雨の夜。
加害者の家の前。
308は刃を握っていた。
その手は、わずかに震えている。
私は、少し後ろに立つ。
近すぎず、
離れすぎず。
この距離が、
ずっと決められていたような気がした。
彼が振り返る。
その視線が、
一瞬、私を通り過ぎる。
誰を見ているのか、
私は分からなかった。
⸻
次の瞬間。
刃が、308の肩に沈む。
KA-BARの重みが、
手首を通して伝わる。
濡れた衣服が裂ける音。
肉の感触。
自分の呼吸の音。
どれもが、
現実なのに、
遠い。
308は、私を見なかった。
その目は、
過去のどこかを見つめている。
私は、言葉を探した。
探して、
それでも見つからず、
決まっていた一文だけが口を出た。
「……悪いわね、308」
それ以上は、
言えなかった。
⸻
308が膝をつく。
雨に濡れたスマホの画面に、
少女の笑顔が映る。
「……ごめん」
その声は、
雨よりも小さかった。
胸の奥で、
何かが、静かに崩れる。
肩の痛みではない。
恐怖でもない。
もっと、
形のないもの。
少女と、私。
似ているはずなのに、
同じではない。
それなのに、
一瞬だけ、
境目が分からなくなる。
⸻
雨は降り続ける。
血を洗い、
足跡を消し、
それでも、何もなかったことにはしない。
白い花びらが、
地面に貼りついたまま、動かない。
私は、それを踏まないように、
一歩だけ、位置を変えた。
それが何を意味するのか、
まだ分からない。
分からないまま、
世界は静かに濡れていた。
──第4話へ続く
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第3話では、
これまで輪郭だけが見えていたものに、
手が触れてしまう瞬間を描きました。
はっきりと分かることもあれば、
分からなくなってしまうこともあります。
そのどちらも、間違いではありません。
301が見たもの、
308が見ていなかったもの、
そして雨の中に残ったもの。
それらが何だったのかは、
この先の物語の中で、
少しずつ形を変えていきます。
もし読み終えたあとに、
言葉にならない違和感が残っていたなら、
それは、この物語がまだ終わっていない証です。
次の雨の中へ、
もう少しだけ、付き合っていただけたら幸いです。




