第六十三話
男は本屋の両親の元に生まれた。すくすくと不自由なく育っていたが、男には一つ気がかりなことがあった。
男の家庭は、政府に反感を持っていること。反感と言っても見ているだけのものではなく、実力行使の意思を持っていることだ。男は波風立たぬことを望んでいたが、金髪の少女が現れた時、歯車は狂った。
金髪の少女が持つ五本の薬によって、男の周囲は完全にテロリストとなってしまう。男は三本の薬を盗んだが、故国の呪いと現貴族の援助により、彼等は簡単に担ぎ上げられ、憂き目に遭ってしまうことになる。父に貰った一本の注射器と、盗んだ三本の注射器と共に、彼等は逃げる。
「セディア、まず聞かせろ」
セディア・ゴッドラメア。この少女が来た時からおかしくなったのだ。彼女が来なければ、こんな結果はあり得ない。男はそう思いたかった。
「...私は、ゴッドラメアの遣い。だけど、目的は正反対」
男と視線を合わせずに、セディアは床だけを見つめている。底の見えない暗闇に、自ら堕ちていっているように思えた。
「創人を中心に、反乱を起こさせること。その為に私はここに来た」
視界が昏倒して、立っているのが精一杯。立ち眩みを必死に抑え、男は続きを促した。
「薬を持ってここへ来て、時期を待てば創人貴族が現れるから、この二つにより反発の意思を助長させる。私に命令した人の狙いは、この醜い争いで、フツルギドウシの心をーー「黙れ!!!」
腸が煮え繰り返るとはこのことをいうのか。行き場のない怒りが発露して、男の叫びは周囲を沈黙させる。
今までの思い出が嘘みたいに、セディアが卑しく、下劣に映る。
「私は、騙されていた」
「お姉ちゃん...?」
放心状態となったネリアを、キョウは気遣わしげに眺める。起きた事態を理解しない少年は、姉のみが頼りなのだ。
地獄の現在となっても、しかし男はセディアを憎悪こそすれ、殺す気など更々無かった。セディアの態度が、親のない子鹿のように弱々しかったからである。
だから男は、行き場のない気持ちを引き延ばすことが出来た。
「...とにかく、もっと身を隠せる場所を探そう。話はそれからだ」
彼等の逃避行は、こうして幕を開ける。
絶望も居続ければ通常に変わるもので、彼等は無心でただ逃げた。これが国中に指名手配でもされたらば、一行は一日足らずで死んでいたことだろう。けれど政府は、フツルギドウシは、そんなものでは飽き足らない。
フツルギドウシという最強生物は、僅か十年で、ゴッドラメア以外の全国民を殺戮せしめたのだ。
殺戮が始まって一年が経ったころ、男は心身共に限界を迎えていた。罪の無い人たちが死に至る現実、フツルギドウシを止めることの出来ない己の弱さ、複合的な罪の意識が、男を虐める。
「何処へ行く」
ネリアが男を呼び止める。彼女は貴族にあるまじき泥臭さで、フツルギドウシの殺戮から逃れていた。貴族の風格を保ちながら、死地を勇猛に佇んでいる。
「龍人に、助けを乞うんだよ」
「龍人に?」
「このまま生きてもジリ貧だ。可能性が低くても、行く価値はある」
ネリアは今や殺されゆく人々の希望だ。あれから一年、転々と移り住み、フツルギドウシを逃れてきた。一人の少女が精力的に活動して、いくらかの仲間を得ることが出来た。それでもこの戦線を残すには、圧倒的な力が足りない。フツルギドウシから身を逃れている今こそ、大きな力を予想外の方向から持ってくることが出来れば、進展は掴めるのではないか。
「化体も薬も持っていくのか」
「化体がいないと降りられない。薬が無いと証明出来ない。聞けばこの注射器は、先祖代々口伝で伝えられたみたいだぞ。それにフツルギドウシは、ゴッドラメア以外の全てを駆逐しようとしているじゃないか。何も空に限った話じゃない。セディアの考えを、俺は信じてみることにするよ」
自暴自棄な口調の男は、ネリアにとってどう見えていただろう。しかし男の言うことにも一理あるのだ。ネリアは片手を出して、これだけ言った。
「一つだけあれば十分だろう」
「これは形見だ」
男の持つ薬には二種類ある。三本は創人を化体にさせる薬で、最後の一本は、化体を封印する薬である。
今は化体となり意思の疎通が出来なくなった父との、唯一の形見。男は肌身離さず、これを持っていた。
「そうだな。一本預ける」
「一本だけ?ふざけているのか?」
「お前達が納得しなくたって、俺は行くぞ」
男には、この時余裕がなかったのだ。脅しに父の化体を使うまでに、心が荒んでいた。
「...いつ帰ってくる」
「一年くれれば、やってのけるさ」
男は鳥の化体と共に飛び立った。見慣れた空を抜けると、見たこともない緑の大地が視界一杯に広がる。男は息を呑み、龍人がいるというロジバルトの反対側へと進路を取る。上から眺めていれば、嫌でも分かるだろう。男は捜索の後、大森林を際立たす大樹周辺に、集落のような生活基盤を見つけた。
降りてみれば、当然男は警戒される。空の上から化け物を従える男は、龍人達にしてみれば脅威以外の何者でもなかった。
「俺は空からやってきた!どうかここの代表に合わせてくれないか?!」
親父の化体を後ろに下がらせ、土下座をする男。敵意はないと全身で伝えてしまえば、龍人達は互いに顔を見合わせる。
そして男は、念願叶ってロドス・アンテールと出逢うことが出来たのだった。
「空でゴッドラメアが殺戮を繰り返している。カイルの中のゴッドラメア以外が全て死に絶えたならば、次はここだ」
そんな文言と共に、男は注射器を手に取る。
「出て行け」
「え...」
薬を取り出した瞬間に、ロドスは怒気を孕んでいた。何が起きたか不透明のまま、ロドスの怒りは頂点に達する。
「この里から出て行け!!」
男はトウロウという顎鬚揺蕩う龍人に、ロドスのいる大樹を追い出された。有無を言わさぬ力の差に、男は死んだように無抵抗となる。
トウロウに連れられる男に、龍人達は訝しむ。彼等は何も知らないのだ。謎の男と謎の大鳥が、たった一日で追い出される。彼等の認識はその程度。
「俺を殺さなくて良いのか」
「次はこうは行かないだろうな」
トウロウの背中が見えなくなるまで、男は草地に埋もれていた。大森林の中一人、孤立感が蝕んでいく。父親だった鳥の化体は、無感情に男を眺めている。より一層の無力感が無限に溢れ出て、このまま埋まって死にたいと思った。
「...」
ふざけるな。ふざけるな。
俺はお前達を絶対に許さない。
化体がちらつく度に、父の顔が浮かぶ。父はゴッドラメアを、政府を、そして男をも責め、途轍もなく恨んでいるのだ。胸が軋んで痛みもままならない程の鈍痛は、男を闇の底へと抑えつける。
形見を抱きすくめ、許してくださいと請わなければ、男は立ち直ることは不可能だった。
「なんでこうなったんだっけ」
ここで、男は回想する。己が辿ってきた道の数々を、胸の内で映像化した。湧き出る孤独は男の精神を解き、自由に動き回る。一番簡単な感情を選択し、手元にある現実逃避を首筋に当てがった。
注射器を、当てがった。
ーー「分かっていたの...」
「ごめんなさい。ごめんなさいっ」ーー
金髪の少女が呻いている。あの時を思い出し、男の手元は寸前で止まる。
「セディア」
どれだけのことを企図されても、どれだけのことを謀略されても、男は恨む気になれない。彼女は泣いていたし、後悔していたのだ。
「....」
ロジバルトだ。
まだ次がある。龍人が駄目ならば、今度はロジバルトに行こう。
男は鳥の化体を操って、遥か南へ進発する。伝え聞いた話では、彼等は野蛮で、まず話が通じない。彼等以外は人間だと見做しておらず、悪魔悪魔と罵るのだ。
行ってみないと分からないじゃないか。そうだ。
行ってみないと。
大地を隔てるように座す巨大な山地を越えれば、一面息を呑むほど綺麗な大地が見下ろせる。どこまでも続きそうな大地は、地平線を最後にその偉大さを折り畳む。
見たことのない動物や地面、全てが男に新鮮な感触を与え、事実男は人生の中で、久し振りの幸福を得たのだ。
「...?」
飛び続けて何日が経っただろうか。腹が減っては獣を狩り、眠たければ瞼を閉じる。気付けば男は、人の気配のする土地へと辿り着いたのである。
「本当に赤い髪だ...」
辿り着いた町は辺鄙だったが、ここは辺境だろうか。赤い髪の人間達が往来し、皆一様に生活している。赤い髪を除けば、男の故郷と変わらぬ空間だと思った。
「あ」
ロジバルトであろう住人が一人、男を見つけた。男というより、父の化体である。住人は指を差し何かを叫ぶと、周囲の人間もドミノ倒しのように男を見上げる。
彼等は騒めき、上からでもどよめいているのが分かった。
「親父、もう少し可愛くなれなかったのか」
地上を眺めながらの道中が、男に気の緩みを与えてしまったのがいけなかったのだろうか。
いや、そもそも希望なんてなく、潔く死んでいた方が幸せだっただろうか。
そんな考えは何の意味も為さないけれど、考えてしまう。男の幸せはあったのだろうか。
「?!」
突如、気配が軋む。殺気を感じた男は、周囲を警戒する。謎の殺気は段々と近づいていき、更に多く大きくなっていく。
「ペガサス?!」
下を見下ろせば、伝説上の幻獣が、人を乗せてこちらに向かってくるではないか。翼を持った白い馬は、あっという間に男へと辿り着く。
「悪魔だと?!」
男は黒髪だった。
筋骨隆々なペガサスに跨る人間は、両眼を見開き驚嘆する。次の瞬間には驚嘆は憎悪に変わり、創造した剣を振り上げる。気付けばペガサスは三匹に、跨る人間は三人に増えた。誰もかれもが創造し、創造物は人を殺める資質に満ち溢れている。
明らかな敵意が、男を襲い出す。




