第六十一話
人生、全く何が起こるか分からない。生まれた時から死ぬ時まで、王に仕え続けると思っていた生涯。ロジバルトを誇りだと思っていた生涯だ。
まさか化体の記憶に感化されてしまうとは、夢にも思わないだろう。生き残った幼児に、共感を求めてしまうことは情けなかった。
「よし」
隠し持っていた注射器を手に取り、ユアンは清々しく空を仰いだ。鳥はもういなくなり、想起士の出動命令は降りていない。害が無ければ、想起士だって赴くまでは行かないのだ。
しかしこの場合はおかしい。ロジバルトを馬鹿にした文を認めた大葉には、明らかに第三者がいると考えても良い筈である。民衆は不満に暮れているというのに想起士が動かないということは、別の重大な要事が隠されているのだろうか。
「考えても仕方ないか。どうせここはカオスになるんだ」
カオス、なんて言葉を周囲が聞けば、ロジバルトの民はとち狂ったように怒るだろう。たとえユアンでも、非難は免れまい。王律法には定められていないが、結局は極刑を余儀なくされるのは目に見えている。
「ユアンさん、どうしたんだい?」
「なにしてるのー?」
「ユアンさん...?」
英雄ユアンの奇行に、彼等は一様に困惑する。衆目を浴びつつ、ユアンは王都でも最大の人口を誇るゼリエの町の中心に立っていた。ユアンとしては孤独に一発やり遂げたいところだったが、不思議そうな周囲を見ていると、気も変わるというものだ。一言くらいは言っても良いのかもしれなかった。
「皆」
いつも通りの口調に、英雄と慕う者達は安堵を覚える。
「どんなに認めたくないことでも、生きろよ」
静寂が訪れた。沈黙が合図となったみたいに、左肩に刺された注射器は、英雄の体内を液体によって侵食する。ユアンの行動は、皆にはどう見えているだろう。彼等は皆目見当もつかない様子で、ただ成り行きを見守っている。先立つユアンの一言が、彼等を不安の霧へと彷徨わせてしまったのだ。
空になった注射器が地面に落ちる。からんからんと侘しい音が、ユアンの耳朶をいやに響かせた。
体が急激に熱くなる。内に留まっていた創造力が膨張し、沸騰している。時が進むごとに肥大化し、結合した細胞の穴という穴を虱潰しに消していく。ユアンの体内から這い出た創造力は彼を押し込め、彼の焦がれた姿へと、一寸の狂いなく創造される。
周囲の騒めく声が、どんどんと遠のいていく。意識を持っていかれまいと、丹念に丹念に想像した。
九年間、ユアンはこの日が来ることを案じて想像してきたのだ。ロジバルト王都を覆うだけの、大きな大きな風船を。流石にロジバルト全体を覆うことは叶わないと思っていたが、思わぬところで好奇は巡る。風船の化体となりつつある英雄を、周囲は恐怖に歪み切った顔で、三々五々に背を向けた。
内から捲れるように外界を侵害する創造力は、暴食の限りをゼリエの町に施していく。地面を家を、転んだ子供を契機として、遂には人間までもが歯牙にかかった。
どんな剣でも、どんな槍でも風船は破れない。その場にいた想起士達は為す術なく覆われ、民衆を慄然とさせる。
「側神様だ...!」
「側神様が来たぞぉ!!」
高い高い王城のバルコニーから、巨大な化体が姿を表した。側神レイラは腕を突き出すと、そこから袖が一直線に伸びる。風船は貫通するが、破裂を無視して成長した。彼が想像したのは風船ではあるが、性質まで同等ではない。本体であるユアンを見つけない限り、お構いなしに目的を遂行出来るのだ。
出来るところまで。意識が続く限り。
風船が衝撃に揺れた。揺れた場所には五本の腕で、五本の戦斧が直撃していた。巨大な戦斧達は高速に乱打し、風船を破壊していく。
これだけ攻撃の乱舞が続いても、ユアンには反撃の素振りも、意思すら見せない。ただ膨張していくことだけに心血を注いだ。
まだ。
まだだ。
ユアンがユアンである限りは、まだ死ねない。
意識が飛びかける。はっと目が覚めると、視界は辺り一面に大空が描かれている。瞳を動かせば、化体の瞳も動く。既に王都はユアンの化体によって覆われていた。
潮時か。
ユアンは創造する。舌を基盤として、口の中を一杯に創造物で固めてみせる。口腔内を満腹にしたところで、軟口蓋へ向けて、人差し指程の針を想像する。
それは一気に、脳天へと到達する。
するとどうだろう。英雄ユアンは呆気なく死に仰せ、往生する気も微塵もなく死んでしまった。
世界が変わること。
ただその一心のみで、ユアンの人生は幕を閉じる。生きる寄る辺となってくれたナキという少年に、一筋の道を標して。
◯
風船は畏れを知らずに膨らんでいる。見る度見る度、度を越して大きくなっている。王都からそこかしこに、国民の悲鳴が立ち上る。王都の中心、ゼリエの町から、風船は膨大の一途を辿っていた。
「なかなか壮観だな」
イトは興味深げにロジバルトを眺めている。というより、全員がロジバルトを凝視している。ナキから一通り聞いてはいるが、それも些細なもの。この後何が起こるかなんて分かる者が、この場にいてくれる訳もないのだった。
「キョウさん、大丈夫?」
「うん。大丈ゔぉえ」
緊張の余り吐いてしまうキョウは、現在ネリアと融合していない。彼の指示に動く紅の騎士は、黙々とロジバルトへ向かっている。
ネリアには、ナキ、ルフリア、イト、キョウ、キノ、ベーレ、ハクビ、ゼラニムの八人が乗っている。中々の過密状態ではあるが致し方ない。流石にゼラニムも、動物達をロジバルトの中へ立ち入らせる事はお断りなのだ。
「ガランっこの動き、どうにか、なら、ないか」
「しかた、ないでしょっおろち、はもうちいさい、んだから」
ガランとハロドラの二人は大蛇に乗っている。大蛇はツチノコのような姿になっており、這うような形でなく、バッタのように飛びながら移動している。乗り心地は見る限り最悪で、二人は言葉を切りながら会話をしていた。その様にベーレは笑い、ハクビは流されずロジバルトを注視する。
「ラグナロック...ってやつか?」
キノは汗を垂らしながら、笑うしかないという様子だった。ナキも同じ気持ちだ。王都に入り込むつもりが、王都を覆う程の巨大風船が、ネリアの足を止めた。
巨大風船の周囲を、照りつける太陽の下、幾筋もの線が取り巻いている。太陽の真ん中に映る人影が、風船を貫き、締め付ける。
銅鑼のような轟音が、風船の覆うどこかから鳴り続いている。乱打の傍から風船が弛み、それの強大さが垣間見える。
「これを...その人が?」
「....」
ルフリアの質問に上手く答えられない。ナキとて分からないからだ。
「おいおいちょっと待てよ」
「なんだ。催したのなら我慢しろ」
「うんこじゃねえよ!見ろよあれ!」
キレながらキノが指差す先には、今にも張り裂けそうな巨大風船がいる。人影の両腕から出でる線は風船を貫き、風船の下から銅鑼が狂打されていた。
それでも巨大風船が萎む様子もなく、今や王城すら見えず、人が住んでいるのかさえ不明瞭となっている。
その巨大風船が、ピークに達した。
ぶるりと震えて一瞬止まる。初期微動を終えた巨大風船は、反動をぶり返した。火山の噴火みたいに、巨大風船の全身が、爆発する。
四散する。
ナキはこの時、ライギルドを思い出していた。ライギルドの本体を殺した時、ナキは身をもって痛感した。
化体本体の記憶を保持する、創人特有の霧のようなもの。それらはナキの脳細胞へ直接連結すると、別人の記憶が呼び起こされたのだ。
巨大風船は爆発した後、透明な霧を暴発させる。勢いよく大気を伝いおり、大気を追い越していく。それはロジバルトの民へと、王都全域へと。
ナキ達へと舞い届く。




